記憶の無意識操作
2017年 2月 15日 水曜日
記憶の曖昧さを認識することは誰にもあることだと思います。芸術に興味関心のある自分は、嘗て観た美術作品や既読した書籍の印象が、時間経過と共に甚だしく違ってしまったり、自分の中で誇張された部分があって、記憶を疑う場面もありました。記憶のメカニズムがどうなっているのか調べてみたい欲求にも駆られます。初めて接した事象に対して表面的な印象しかなかった場合には、二度目の接見でさらに深い洞察が出来て、記憶の印象を深化更新するならばそこは納得できます。まるで異なる印象を記憶している場合は、こんなはずではなかったと自分が俄に信じられない事態に陥ります。記憶は自分が願うように意図して操作する場合と、無意識な操作があって、私が憤りを感じるのは当然後者です。また芸術作品の記憶には複雑な心情も絡みます。若い頃に出会った現代美術の作品に放射するパワーを感じていたことが、年齢を重ねた現在では何も感じずに、寧ろ表現の限界を見取ってしまうことが多々あります。自分の創作活動上の成長なのか、芸術思考の価値観が変わったのか、そこは定かではありませんが、記憶が自分の歩みを確認づける材料になっていることは確かです。記憶を自己都合で加工してしまった場合は、事実関係を歪ませることになりかねません。これは嘘偽りではないが、こういう解釈でいこうと決めて、幾度も繰り返すうちに記憶更新が行われてしまうのです。自分一人で罪のない記憶更新をしているなら問題はありませんが、国家でやっているとなると大きな国際問題に発展していきます。現在世間を賑わしている隣国との問題もそこにあるように思えます。