彫刻の抽象化について

日本では西欧から彫刻の概念が輸入されたのは歴史的には浅く、ロダンやブールデルに学んだ日本人彫刻家が、内面から迸る動勢やリズムを塊として捉えた人物像を制作していました。西欧の新鮮な空気を纏った具象彫刻に、学生だった私も影響を受けました。現存の公募団体に出されている彫刻作品よりも、初期の時代の、彫刻の何たるかを模索をしていた先人の作品に溌剌とした雰囲気を感じたのは、私ひとりではなかったと思っています。ただし、学校で習っていた私の作品は相当お粗末なものでした。習作とはよく言ったもので、全部破壊したい衝動に駆られたこともありました。本来なら具象を極める中で象徴化や抽象化に発展していく過程がありますが、極めてもいない具象から忽然と抽象化していくのは、如何なものだろうと思いつつウィーンの美術学校に在籍していた私は、悶々とした中で抽象化へ傾いていきました。それは段階を踏まない抽象化でした。現在読んでいる「芸術の摂理」に登場する石彫家中島修さんも同じではないかと勝手に思い込んでいますが、自分と同じオーストリアで制作を続けていた中島さんも幾何学的な形体を追求していました。中島さんは具象彫刻の巨匠柳原義達の愛弟子だったので、どこかの時点で具象から抽象に作風が移行したはずですが、そこは本人から聞いていないので詳細はわかりません。私の場合は美術学校で女性モデルの横顔を小さなレリーフで作った後、何の前触れもなく抽象形体を石膏で作り始めました。そこに自分の思索はなく、いろいろ試してみようとしたのではないかと述懐しています。作品を抽象にした意味合いとモチーフは制作途中で湧き上がってきました。当時頻繁に散歩をしていたウィーンの旧市街が構築性を持って私にイメージを与えたのでした。人物ではない街の雑多なモチーフが私を取り巻いていて、裏街の路地が構成要素となり、微妙な角度をもつ抽象レリーフに発展しました。遺跡のような出土品を思わせる現行の自作は、そんなところから始まったと思っています。

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