夏季休暇② 「大地の芸術祭」の里を訪ねて

昨日から新潟県に来ています。昨日は石川雲蝶の巨大な欄間を幾つか見て度肝を抜かされ、また十日町に立ち寄って博物館に所蔵された縄文土器を見てきました。今日は現代アートに触れる旅をしようと決めていました。ここで3年に一度開催される越後妻有トリエンナーレに関しては2009年8月5日のNOTE(ブログ)に掲載があります。私は10年前にここに来ていて、「大地の芸術祭」の里をいろいろな展示作品を見ながら堪能していたのでした。今はトリエンナーレ期間でもなく、常設展示があるだけでしたが、トンネルに水を張った場面がポスターになっている箇所が知りたくて、この作品を目標に車を走らせました。その前に10年前にはなかった森の学校「キョロロ」に立ち寄りました。錆鉄の構築物が現代彫刻のようでいて、外観はかなり気に入りました。夏休みなので子供向けに昆虫の展示がありました。目標にしていた例のトンネルは清津峡渓谷にありました。制作者は中国人建築家のマ・ヤンソン氏。全長750mのトンネルは渓谷に沿って掘られ、途中に三か所の見晴所が設けられていました。見晴所から見る渓谷の美は素晴らしく、最後にあったパノラマステーションに「大地の芸術祭」のポスターになった水を張った見晴所がありました。水深は浅くて歩くことが可能で、トンネルの先端に行くと渓谷を背景に自分のシルエットが映し出され、所謂インスタ映えのする画像が撮影できます。水が鏡面になっているため、幻想的な世界が現れてきます。風景がアートによってさらに楽しめるものになっているのを大変心地よく感じました。トンネルには鏡面仕立てのトイレがありました。私はここを使わせてもらいましたが、不思議な感覚になりました。「大地の芸術祭」が行われている越後妻有は、まるで箱庭のような田園の美しい風景が広がっていて、ここに野外作品を展示すれば、風景との対話は面白いものになるだろうなぁと思った次第です。夕方、越後湯沢から上越新幹線に乗って東京まで帰ってきました。夏季休暇の2日間は充実していました。あっという間に過ぎてしまい、次の夏季休暇3日間に期待をしているところです。

夏季休暇① 越後のミケランジェロを訪ねて

5日間ある夏季休暇の2日を取得して、上越新幹線で新潟県魚沼市に家内とやってきました。目的は彫り物師石川雲蝶が残した木彫りの数々や水墨画を見て回ること。石川雲蝶の名を知ったのはテレビ番組だったように記憶していますが、西福寺開山堂の天井一面に施された彫刻「道元禅師猛虎調伏の図」をテレビ画面で見て、ただならぬ気配を感じていました。自分なりに石川雲蝶を調べていくうちに、ひとたび鑿を握れば「彫りの鬼」と化したという雲蝶が、越後のミケランジェロと称される由縁もわかった気がして、どうしても実物が見たくなったのでした。新幹線の越後湯沢駅からレンタカーを借りて、関越道を走り、堀ノ内ICで降りました。そこから数分で曹洞宗の名刹である永林寺に到着、さっそく天女が彫られた欄間が私たちを迎えてくれました。1855年から13年という歳月をかけて、永林寺に保存される作品を数々を制作した雲蝶でしたが、その時の逸話も有名で、博打好きな雲蝶が弁成和尚と賭けをしたようで「雲蝶が勝ったら金銭を支払い、弁成和尚が勝ったら永林寺の本堂一杯に力作を手間暇惜しまず制作する」というものでした。この勝負は和尚が勝って、後世に残る作品の数々が生まれたのでした。次に向ったのはこれも曹洞宗の名刹である西福寺で、ここの開山堂には「越後日光」と呼ばれている天井彫刻「道元禅師猛虎調伏の図」がありました。これには私は心底圧倒されて、暫し形容する言葉を失いました。この作品を保存するために開山堂の外観をさらに木造建築が覆っていたのでした。西福寺を最初に見た時は二重構造の何とも不思議な寺の作りだなぁと思っていて、その理由が分かりました。西福寺には雲蝶による襖絵「孔雀遊戯の図」が残されていました。木彫だけでなく、絵画にも力量をもっていた石川雲蝶。さらに次の場所へ私たちは出向いたのでしたが、穴地十二大明神を見つけることが出来ずに、住所のある周囲を車でぐるぐる回っていました。え?あの小さな神社がそうなの?と近づくと勝手に扉を開けて中に入るよう指示がありました。確かにそこにも雲蝶の浮き彫りがありました。ひょっとして未完成と思わしき作品があって、それはそれで興味が湧きました。最後に向ったのは龍谷寺で、ここの観音堂はインドグプタ王朝様式が取り入れられた独特な雰囲気の寺院でした。そこには獏や麒麟などが緻密に彫られた完成度の高い雲蝶の欄間がありました。これら石川雲蝶の数々の作品に関する考察や感想は別稿を起こそうと思っています。宿泊場所である越後湯沢に帰る途中に十日町市博物館に立ち寄りました。10年前に一度来たことのある博物館で、縄文土器のコレクションが有名なのです。もう一度縄文土器が見たくなってやってきたのですが、もう間もなくしたら新館が完成するらしく、そのせいか展示会場はやや狭くなっていました。それでも目指す土器を見つけて嬉しくなりました。

彫刻家飯田善國によるピカソ評

7月27日付の朝日新聞「折々のことば」欄に、彫刻家飯田善國によるピカソ評が掲載されていて、目に留まりました。「十歳で どんな大人より上手に 描けた 子供の ように描けるまで一生 かかった 飯田善國」とありました。まずこのコトバに惹かれてしまいました。鷲田清一氏の解説が続きます。「ピカソが生涯をつうじて追い求めたのは文明の〈外〉に出ること、すなわち『名を与えられる以前の事物の記憶』であり、『憧れながら文明人がもう二度と手に入れることのできない』荒々しい野生的な生命力だったと、彫刻家・詩人は言う。ピカソは安住と眠りと怠惰を嫌ったが、それは『同じ所にじっとしていられない』から。思えばこれこそ子供の真骨頂。『ピカソ』から。」とありましたが、ピカソについての詩人飯田善國のコトバは言い得て妙なところがあって、私の心を捉えてしまいました。ピカソはあらゆるものから子供のように解放されたいと願っていたのでしょう。ピカソは芸術家に成るべくして成ったと思っています。「安住と眠りと怠惰を嫌った」ピカソが生涯を通じて創作活動に励んだことはよく知られています。生きて呼吸をするように創作活動をしたのでしょうか。ピカソは目に見えたもの全てに創作を入れたくなって、食卓に並んだ魚さえも作品にしています。彫刻家で詩人だった飯田善國は、ご自身の立体造形ではステンレスを使ったモビールがありますが、それよりも私は詩人西脇順三郎のコトバに帯状のラインで結んだ平面作品に興味を覚えたことを思い出しました。彼の評論も秀逸で、「見えない彫刻」(飯田善國著 小沢書店)は学生時代の私の愛読書でした。ピカソを筆頭に現代美術の潮流をその書籍より学び、その中でも飯田善國が実際に滞在したウィーンの美術家の話は貪るように読んでいて、私もその後ウィーンに滞在することになったのでした。既に故人になってしまった飯田善國には生前一度もお会いしたことがありませんでした。因みに「見えない彫刻」には画家オスカー・ココシュカへの会見記があって、今も私の脳裏に刻まれています。時代が移って私ならフンデルトワッサー会見記が書けそうですが、そんな依頼があるはずもなく、昔のNOTE(ブログ)に書いた記憶があるくらいです。

週末 土練りから始めよう

朝から工房に篭りました。私は陶土を単身では使わず、計量器にそれぞれの陶土を乗せ、割合を決めて混合しています。前作の混合陶土はかなり余っていたのですが、時間を置いたため、やや硬くなってしまったので、もう一度余った陶土も含めて練り直しをすることにしました。新しく混ぜ合わせる陶土と残った陶土は2回目の土練りで土錬機に一緒に入れることにしました。土錬機に陶土を通すのは通常では最低3回行い、その間多少水分を補給しながら、混合状態の様子をみていきます。これは成形をやり易くするために、細心の注意を払っていく工程のひとつです。今回は気温が高い中で陶土を保管したため、乾燥しないように気を使ったつもりでしたが、結局3回ではなく4回目の土練りをして良好な状態に陶土を戻しました。新作の陶彫部品も基本的には今まで通り、タタラと紐作りを併行して成形する方法をとります。土錬機から出てきた陶土を最後に手で菊練りをして、小分けにしてビニール袋に包むか、タタラに引き伸ばしてそのまま成形するか、その日の作業時間を見ながら判断します。今日は土練りの時間を長く取ったため、タタラにしたのは2つだけ、成形をするには少し時間を置いた方がよいと判断しました。いよいよ横浜も梅雨明けした模様で、空調のない工房は大変な暑さに見舞われました。額から汗が流れ、シャツは汗でびっしょりになりました。こうした蒸し暑い中で、今まで20年以上も制作を続けてきました。工房がなかった時代も、借りた施設で私は暑さや寒さと戦ってきました。最近は熱中症を心配して水分補給はこまめにやっています。工事用扇風機もロフトから下ろしてきました。今日の工房には若い世代のスタッフが2人来ていました。工房スタッフも若返り、10代の女子がやってきています。美術系の大学はまだ夏休みに入っておらず、課題提出日が迫っているようで、彼女たちは炎暑の中で真剣に課題制作に取り組んでいました。夕方4時に私たち全員が体力の限界になり、私は車で彼女たちをそれぞれの家の前まで送っていきました。工房に来るときは電車を使ってきても、帰りは身も心もボロボロになっていて、汗と絵の具だらけになった彼女たちを電車で帰すわけにはいかず、車で送っているのです。

週末 新しい作品へ向けて

個展終了から早くも1週間が経ちました。間を開けずに新作を作り始めるのが私の流儀です。ちょっと休みたい気分になりますが、休息を入れるのは新作を作り始めてからと決めているのです。実際、新作の陶彫部品のひとつが出来ています。私の場合、制作に苦しんでいる最中に次作のイメージが天から降ってきます。自分を追い詰めているにもかかわらず、これは現実逃避なのかなぁとも思っているのですが、次作のぼんやりとしたカタチが見えてきます。それは根の陶彫部品の連結したものが縦横無尽に網のように走っているイメージでした。床から壁に立ち上がり、血管のようにところどころが太くなっている動的な世界でした。先週までギャラリーに展示してあった「発掘~双景~」に植物的または動物的な生命を感じ取っていただいた鑑賞者も多く、その感想に勇気づけられて、生命体の発展形とも言える次作が朧気なものから次第にカタチを現してきたのでした。壁なら角度のある屏風にしようと思っています。まだ雑駁なイメージですが、制作を進めていくうちに具体的なイメージが次第に決まっていくのです。私にはそういう思索と技法とが行ったり来たりする傾向があります。今日は工房で考える時間が多く、なかなか制作に手が出せない状態でしたが、明日から迷いなく進めていける気がしています。既に作ってあるひとつの陶彫部品は、どこかに組み込んでいこうと思っています。夕方は職場のある地域で祭礼があり、来賓として出席して来ました。昨日から台風が心配されていましたが、何とか盛大な祭礼が出来て喜ばしく思っています。実際は明日から新作を開始します。

G・クリムトからE・シーレまで

国立新美術館で開催中の「ウィーン・モダン」展には、「クリムト、シーレ 世紀末への道」という副題がつけられています。オーストリアの首都であるウィーンの都市としての変遷を展覧会前半で取り上げていて、後半は専ら世紀末から20世紀初頭に興ったウィーン分離派やウィーン工房の作品が中心になっていました。図録には「1897年、グスタフ・クリムトに率いられた若い画家たちのグループは『時代にはその芸術を、芸術には自由を』という理念の下に、オーストリア造形芸術家協会を結成した。いわゆるウィーン分離派である。」とありました。クリムトの分離派以降の作品はよく知られていますが、私が注目したのは素描を含む初期作品で、古典的な寓意画を描いていたクリムトは「アレゴリー:新連作」あたりからクリムトらしさが出てきたように感じました。時を同じくして登場したウィーン工房は、図録によると「1903年、工芸美術学校出身の芸術家たちを主要メンバーとして、ウィーン工房が設立された。彼らは[アーツ・アンド・クラフツ運動に代表される]英国のやり方を手本にしながら、趣味が良く上品な日用品の生産を目指した。創設されるや否や、ウィーン工房はユニークで印象的なウィーン・スタイルを発展させ、国際的なセンセーションを巻き起こしたのだった。」とありました。機能性と美観を兼ね備えた日用品やポスター等に、私は改めて感銘を受けました。展覧会場に多くの日用品が並ぶ光景は、日常生活の中に新しい美意識が入り込んだ事例が示されていました。さて、次に控えていたのはエゴン・シーレの絵画やデッサンでした。ウィーンを総括する中でシーレを見ると、明らかにシーレの特異な世界観は、現代に近いものとして認識出来ました。次世代の、つまり表現主義的な作風の上に彷徨う悲劇性は、今日まで続いている芸術家のテーマとも言えます。度々彼のテーマとなっている死とエロスも、芸術家本人の自己告発を視覚化する試みであって、それは現代に通じるものだろうと感じました。シーレは28歳で夭折した画家でしたが、短い人生の中で強烈で斬新な足跡を残したためにオーストリア美術史に刻まれる芸術家になったのでした。

六本木の「ウィーン・モダン」展

今年は日本とオーストリア交流150周年にあたる記念すべき年で、とりわけクリムトを初めとする大掛かりな美術展が開かれています。私は先月、東京都美術館で開催されていた「クリムト展」に行ったばかりだったのですが、先日は六本木の国立新美術館で開催されていた「ウィーン・モダン」展にも足を運びました。「ウィーン・モダン」展は18世紀の啓蒙主義時代からビーダーマイアーの時代への変遷をたどる総括的な歴史を垣間見せる展示がありました。そうした時代を経て、ウィーンの外壁が取り壊され、そこに大通り(リンク)が完備され、近代都市へ生まれ変わるウィーンの姿が映し出されていました。「クリムト、シーレ 世紀末への道」と本展の副題にありましたが、ウィーンはいきなり近代化が行われたわけではなく、時代的必然があって、皇帝文化から市民文化へ社会が進んでいく過程で新しい価値観が芽生えていったように思います。それでも図録にある通り「都市の開発は50年以上におよび、第一次世界大戦が勃発する直前になっても完成していなかった。~略~建築家が目指したのは、歴史的な形式だったのである。~略~歴史主義建築の仰々しい発展性とその限界とを、一度に、これほどわかりやすく白日の下にさらけ出してみせた場所は、ほかにはないだろう。そればかりかリンク通りは、オットー・ヴァーグナーやアドルフ・ロースに代表される機能主義的な新しい建築の基礎をつくりだし、歴史主義の束縛からの開放をもたらすことにもなった。」とあるのはどういうことなのでしょうか。懐古趣味的な建築に対するアンチテーゼとして、新しい美観が登場したということでしょうか。若い頃に5年間をウィーンに暮らした自分には、疑似古典主義の建造物とシャープな近代的建造物が共存するウィーンの街は、それだけ刺激的で楽しい場所でした。時代が変わっても建築や美術工芸や音楽は、新旧どちらにしてもあらゆるものが西欧的な捉えであって、東洋からきた自分にはそれら全てが異国情緒に思えたものでした。美術作品については稿を改めます。

恩師からの手紙より抄

個展を見に来られた人の中で、文筆業をやっていらっしゃる方がいます。彼は書籍を何冊か出版されていますが、私にとっては恩師とも思える人です。時間が合えば貴重なお話を伺えるのですが、今回は私がいない時間に来廊されたようで、芳名帳に名前がありました。数日後にお手紙をいただいて感謝に耐えません。ご高齢にも関わらず横浜から東京銀座まで足を運んでいただいて恐縮しておりますが、先生の思考の冴えは相変わらずで、心より驚嘆いたしております。昨年はゴーギャンの大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」に託けて、私の作品を論じてくれました。今年は図録に掲載した「重層空間」の考え方を私の作品に投影して、お言葉を頂きました。「貴君の提示された『重層』という意識は、結果でしょうか、それとも過程でしょうか。後者の方に思え、その視点でみると、今回の作品はしっかりと大地に根を張った大樹のイメージが浮かんできます。『発掘』はその原点を求めて努力する真摯な姿勢の瞬時の自己認識でしょうか。人間とは…、何処から…、と言った宿命的な命題に迫る重い活動。ゴーギャンがタヒチに求めたノアノアの精神にも通じるような取り組みと受けとめました。これに気づくと、作品を形作る硬質な物体が、親しみ易い柔軟性を帯びてきました。静的なものの中に動的な暖かさが開花するようでした。つまり、重層柔構造の世界がみごとに構築されていると思いました。老妄虚言にて御容赦。」凄いお言葉を頂いて、暫し呆然としましたが、多大な励ましと感じて、力が湧いてきました。とりわけ私は「作品を形作る硬質な物体が、親しみ易い柔軟性を帯びてきました。静的なものの中に動的な暖かさが開花するようでした。」というくだりが大好きで、この一文を他にも使わせていただこうと思っています。

東京駅の「メスキータ展」

サミュエル・イェスルン・デ・メスキータは20世紀初頭に活躍したオランダの画家・版画家・デザイナーで、ユダヤ人だったためにナチスドイツの強制収容所で家族諸共処刑されています。彼がオランダの美術学校で教壇に立っていた折、在籍していた生徒に騙し絵で有名になったM・C・エッシャーがいました。メスキータとの師弟関係はずっと続き、メスキータが処刑された時に、残された遺作をいち早く保管したのは他ならぬエッシャーだったようです。日本で初めてとなる「メスキータ展」は東京駅ステーションギャラリーで開催されました。私は初めてメスキータの作品群に触れて、木版画のモノクロが齎す力強い印象に圧倒されました。会場は多くの鑑賞者で混みあっていて、遅ればせながらメスキータの作品が確実に日本人の心を捉えていた様子を見ることができました。数ある作品群の中で、私は人物を彫った木版画に興味を持ちました。量感に線彫りでハッチングをつけた人物像は、彫塑的であり、その輪郭の単純化にプリミティヴな力を感じました。さらに私が学生時代から大好きだった表現主義を髣髴とさせる雰囲気を持っていて、こんな芸術家が埋もれていたことに改めてショックを感じました。図録から文章を拾います。「浮世絵のメスキータへの影響は、輪郭線による簡潔な表現に最もよく表れていると思われるが、多くの作品では陰影がなく、この点も浮世絵の表現と共通するものがある。言うまでもなく、日本美術では西欧美術と異なり、伝統的に影を描くということをほとんどしてこなかった。メスキータの木版画の装飾的な性格は、アール・デコからモダン・デザインへと到る、20世紀前半の装飾美術をめぐる状況と無縁ではない。メスキータの作品の装飾性とは、決して飾り立てる性質のものではなく、むしろ細部を単純化して幾何学的形態に還元する過程で生み出される装飾性であり、それは20世紀のデザインの潮流に準じたものでもある。」(冨田章著)ここで弟子であるエッシャーの語った言葉を引用いたします。「彼の作品はひと握りの人々にしか評価されず、広く理解されないところがある。メスキータは常に我が道を行き、頑固で率直だった。他の人々からの影響はあまり受けなかったが、自分では強い影響を若い人たち、とくに学生たちに与えていた。学生たちが猿真似をしたときーそれはよく起きたことなのだがーメスキータはしばしば不機嫌になった。とはいえ彼の影響を受けた学生たちの大半は、遅かれ早かれ、その影響から抜け出した。というわけで彼はひとつの流派を作らなかったし、そのことによって、メスキータの孤独で強烈なパーソナリテイはさらに魅力的なものになっていく。」

虎ノ門の「加守田章二の陶芸」展

昨日で終了してしまった展覧会の感想をここで記すのは、かなり気が引けますが、陶芸家加守田章二はあちらこちらで展覧会をやっているので、作品を目にする機会の多い陶芸家ではないかと思います。そんなことを踏まえて、敢えて感想を述べさせていただきます。展覧会場は東京虎ノ門にある菊池寛美記念 智美術館で、陶芸を専門に扱っている美術館らしく、小さな陶器には見やすい展示台があって、じっくり鑑賞することが出来ました。加守田章二は49歳で亡くなった夭折の陶芸家です。私は栃木県益子でその作品に触れ、衝撃を受けました。それは曲線彫文が施された壺や皿で、還元や炭化焼成で焼き締められていました。加守田は、窯の中の酸素を少なくして高温焼成し、冷却時も還元状態にして土を締める方法によって、陶土そのものの表情を提示する、野性味に溢れた作品を作っています。そこに曲線彫文があるだけで、単なる器だけでなく、加守田ワールドはいろいろな世界が想起されるオブジェになっていました。図録にこんな一文がありました。「『曲線彫文』の文様を生み出すにあたり、加守田が何に想を得たのかについては諸説あり、遠野で目にした鳥居の木目に想を得ているという昌子夫人の証言の他、遠野に吹く風が砂上につくる風紋や仏教美術からの影響なども指摘される。」さらに加守田本人のメモが図録に掲載されていて、私はこれも記憶に留めることにしました。「私は陶器が大好きです しかし私の仕事は陶器の本道から完全にはずれています 私の仕事は陶器を作るのではなく 陶器を利用しているのです 私の作品は外見は陶器の形をしていますが中身は別のものです これが私の仕事の方向であり 又私の陶芸個人作家観です」陶芸家加守田章二の作品は、器というより陶彫に近いものを私は感じ取っています。展覧会のタイトルに「野蛮と洗練」とありましたが、縄文土器の風情を保ちながら、モダンで近未来的な造形を感じるのは私だけではないと思います。若くして亡くなったことが惜しまれる陶芸家でした。

週末 個展終了して美術館巡りへ

昨日、ギャラリーせいほうでの私の個展が終了しました。反省はいろいろありますが、ともあれホッとしたことは事実です。個展開催中は自分が会場にいなくても気がかりでなりませんでした。やはり終わってみると一抹の寂しさはあるものの、今後の創作活動に向けて歩き出さなければならないと感じています。既に陶彫部品はひとつ出来ていて、全体のイメージは固まっています。早速新作を作り始めるところを、今日はちょっと立ち止まって、東京の美術館巡りを行いました。家内は演奏活動があるため、今日は私一人で東京を回りました。朝9時に自宅を出て、最初に向ったのは東京六本木にある国立新美術館でした。同館で開催中の「ウィーン・モダン」展を見てきました。副題は「クリムト、シーレ世紀末への道」となっていました。今年は日本とオーストリア国交150周年に当たる年で、この企画展の他に東京都美術館で「クリムト展」もありました。ウィーンは嘗て自分が暮らした街でもあるので、思い入れも人一倍強く、また懐かしくもありました。自分が学んだウィーン美術アカデミーの新校舎や記念ホールの設計計画がO・ヴァーグナーによって立ち上がっていたことが分かり、それが実現していたら、あの旧態依然とした校舎ではなく、鉄鋼を使ったモダンな環境に生まれ変わっていたのに、ちょっと残念だったなぁと思ったりしていました。詳しい感想は後日改めます。次に向ったのは虎ノ門にある菊池寛美記念 智美術館で開催されていた「加守田章二の陶芸」展でした。展覧会のタイトルは「野蛮と洗練」とあって、まさに加守田章二の世界は、灰釉による造形に曲線彫文がつけられた野蛮と洗練が融合したものでした。私は栃木県益子でその作品に初めて接し、感銘を受けた記憶があります。陶芸家加守田章二は49歳の若さで夭折した作家ということも益子で知りました。この展覧会の詳しい感想も後日に回します。最後に訪れたのが東京駅にあるステーションギャラリーで、ここは旧駅舎の赤レンガが剥き出しになった風情のある美術館です。ここで開催されていたのは「メスキータ展」で、私にとって画家メスキータは初めて知った芸術家でした。オランダ生まれのメスキータの弟子には騙し絵のエッシャーがいました。ユダヤ系オランダ人のメスキータの一家がドイツナチスによって強制収容所に送られ、そこで殺害されるという衝撃の事実がありました。当時、多くの作品はエッシャーによって保護された経緯があり、今私たちがメスキータの作品が見られるのは弟子のエッシャーのおかげとも言えます。この展覧会も詳しい感想を後日に回します。今日は3つの展覧会を巡りました。自宅に帰ってから、家内と参議院選挙の投票所に出かけました。今日は新作を考える上で、重要な示唆をいただいた展覧会を見て来ました。個展の後だったので、身体の疲労が取れていなくて辛い面もありましたが、心は充実していました。

週末 個展最終日&搬出

14回目の個展の最終日を迎えました。朝11時にギャラリーせいほうにいると、懐かしい人たちが訪ねてきて、とてもいい時間を持つことができました。毎年のことではありますが、個展というのは旧交を温める絶好の機会だなぁとつくづく思います。何年も私の個展に来ていただいている方が、私の作品の経過観察をしていただいていて、自分でも気づかない創作の変化を指摘してくれました。同じテーマ、同じ素材でシリーズとして作っていると、確かに時間と共に作品が変貌していくのかもしれません。それでも私の作品には大きな変化はありません。ひとつの手法をじっくり煮詰めていくのが大好きという理由が私にはあります。作品が小手先にならないのは、陶彫という難解な技法によって満足できない結果にいつも悩まされているためです。なかなか巧緻になれない己の不器用さもあるでしょう。それがわかっているからこそ手法を変えられないとも言えます。意外に自分は頑固だなぁと思うところですが、幸い自分は20歳の頃に夢見たことに対して軸足を変えずに実現している自負はあります。夢を諦める言い訳が私には存在しません。今回の個展によって齎されたものは継続による指針です。もう来年の個展に向けて新作を作り始めているところです。来年の海の日からの個展開催は、ちょうどオリンピック・パラリンピックが開会を迎える時期に当たると、ギャラリーの田中さんに言われました。オリパライヤーの銀座には人が溢れているのでしょうか。来年は15回目の個展開催、公務員管理職としては再任用満了を迎える年でもあります。自分の足元をしっかり見据えて頑張っていきたいと思っています。夕方の搬出作業は、図録撮影や搬入の時のメンバーがギャラリーに集まってきてくれました。手際よく木箱に陶彫部品を収めて、僅か1時間程度で搬出作業は終了しました。ギャラリーの床に掃除機をかけて照明を落としました。飛ぶ鳥跡を濁さず。作品を積んだトラックは一路横浜の相原工房に向いました。手伝ってくれたスタッフの面々にレストランで夕食を驕り、無事に14回個展を閉じることが出来ました。

令和元年度の大鍋コミュニケーション

4月から新しい職場に転勤してきて、最初の大鍋コミュニケーションを行いました。仕事がひと段落して、来週7月22日から8月27日までは職員が夏季休暇を取りやすい環境を職場では作っています。職場の閉庁日を8月8日から15日までのお盆の時期に設定していますが、仕事に支障が出なければ、来週から休むことも可能です。職員はそれぞれ専門分野の研修会等があって、実質的には休める雰囲気ではありませんが、私としては下半期の多忙時期に備えて、充分身体を休めて欲しいと願っています。大鍋コミュニケーションは、私が前の職場で幾度もやっていた重要な職場経営ツールで、鍋を囲んで仲良くなるには絶好の方法なのです。ほとんどの職員は普段は専門職なので他者との協働は少なく、もちろん協働するイベントはありますが、基本は一人で行う職種です。それら職員を繋ぐもの、お互いが休憩を取り易くするもの、それがコミュニケーションです。意思疎通ができていれば、お互いの仕事をカバーしあうことができるし、心地よい職場空間をも獲得できると私は思っています。職場環境を整える方法は管理職によってそれぞれ違います。お互いが夏季休暇を取りやすい環境とは、制度的な環境もありますが、人と人との関係性も無視できないものがあると私は考えています。そこで私が考えたのが大鍋コミュニケーションなのです。昨晩は食材を購入するため近隣のスーパーマーケットに出かけました。職場のために手間暇かける、自分の得意とするところを職場で生かす、そんな思いで朝から鍋を作っていました。幸い職員はよく食べてくれて、私としては幸せに包まれました。自己満足なのかもしれませんが、それでも私は大鍋コミュニケーションを続けていきます。

気分が高揚するとき

自分にとって気分が高揚するときはどんな場面だろう。そんな思いを綴ってみたくなりました。現在は東京銀座のギャラリーせいほうで私の個展が開催されていますが、14年前は初めて個展が出来る喜びに包まれて、気分が高揚したことを思い出しました。ギャラリーせいほうは、学生時代から憧れていた画廊だったので誇らしくもありました。2回目の個展から高揚はなくなりました。寧ろ厳しい自分の状況に恥かしい思いをしながら年月が過ぎ、今日を迎えております。不満があるから来年こそ頑張ろうと持ち越すうちに14回目を数えてしまったのが実感です。創作活動で気分が高揚する瞬間は、作品がイメージ通りのカタチになってきた時です。もう少しで完成すると感じた時に気分は上がります。陶彫部品がきちんと焼成できた時も気分は上々です。陶彫作品は図録用撮影日を迎えて、そこで一度組み立てます。そこから心情的には現行作品が自分の中で終わってしまい、個展会場では欠点ばかりに目がいくのが辛いところでもあります。RECORDも色彩とカタチが巧く組み合わされて納得できた時に、ちょっぴりいい気分になります。RECORDは日々新しい作品を作っているので、じっくり鑑賞することもなくケースに仕舞ってしまい、振り返る余裕がありません。RECORDはホームページにアップされた時に複雑な心境になります。気分が高揚する一番の時は鑑賞です。自宅から美術館や映画館に出かける時は、足取りも軽く気持ちは浮かれています。他人の作った作品は心底楽しむことができるし、学びと同時に格好の気分転換でもあるのです。

「衣食住の形」について②

昨日に続いて、通勤中に読んでいる「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」(篠田知和基著 八坂書房)の第三部「衣食住の形」の後半のまとめを行います。この単元では食文化と住まいの形について取上げます。まず食文化では典型的なパスタを例に取ります。「ヨーロッパの汁物はだいたい、よく掻き回す。パスタの場合は十分に掻き回さないとパスタ同士がくっついてしまう。そしてそれを食べるときはスパゲティならフォークにくるくると巻きとって食べる。この『回す』作法は日本料理でやったら嫌がられる。『回す』というしぐさと『食べる』ことのあいだに距離がある文化と距離のない文化の差である。~略~ねじりドーナッツ、ひねりパスタなどから、マヨネーズの混ぜ方にまで及んだが、実はヨーロッパでは穀物生産とその加工でも『回す』ことが重要なのである。麦を刈り取るときは大鎌を腰にあてて回転させて刈る。直系2メートルから3メートルの円状の面積の麦が鎌の1回転で刈り取られる。」食文化はここまでにして、住まいの形に進みます。「ロータリー方式の都市は、本来、領主が城館がロータリーの中にあって、そこから放射線状に街路が出ていて、領主が城の天主へ上がれば、領内の動静が一挙に見渡せる構造だったが、円形の刑務所があって、中央広場にあたるところに望楼があって、ぐるりに円形に配置された部屋を見渡すようになっているものもある。劇場とは別の発想だが、管理のための円形構造なのである。~略~そもそも人が集まって形成した形が円形競技場であれ、円形劇場であれ、円いと同時に階段式で、立体的だったのである。広場がそもそも階段だった。ギリシャの場合には日本と同じく土地が狭く、人が集まる広場でも水平面を大きく取ることが難しかったという事情はあるだろう。しかしそれでも、擂り鉢状の広場に人々が集まって議論をかわすのが、ギリシャの、そしてヨーロッパの民主主義の形だったのである。」私はヨーロッパに住み、20代の頃に憧れた異文化は、螺旋形や渦巻きとともに脳裏に刷り込まれたのではないかと振り返っています。最後にまとめとなる文章を引用いたします。「衣食住の形をもってヨーロッパの形を求めると、頭上に渦を巻くかつら、食卓に重ねられるねじりパンや螺旋形の栓抜き、そしてベッドのコイルスプリングから始まってヨーロッパの家屋の構造を決定する螺旋階段まで、終始一貫して螺旋という形が存在するといえる。直線より曲線、ロココや世紀末の唐草模様、それが集約されて天へ昇る螺旋の形になるのである。」

「衣食住の形」について①

通勤中に読んでいる「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」(篠田知和基著 八坂書房)の第三部「衣食住の形」の前半のまとめを行います。テーマが衣食住のためか、本書の中では一番ボリュームのある単元なので2回に分けます。冒頭の文章から引用していきます。「人間という動物は単に食べて寝るだけのものではなく、政治、法律、軍事などにおいて特有の形を形成しながら発展してきたものだというなら、制度や発想法の形を考えなければならないともいえるのである。しかし、それはまた、何らかの形で衣食住にあらわれているのだという考えもあり、住まいにしても着るものにしても、自然条件に対する保護の装置としてだけではなく、敵から体や財産を守る軍事的な機能を持った装置としての意味も無視できないともいえるのである。」勿論政治面だけではなく、時代の世相や流行にも衣食住が反映されることもあります。次に衣装に関する文章で、気に留まった箇所を書き出します。「一概にヨーロッパ人といっても色々だが、おおむね金髪でも栗色でもやわらかく細い髪が軽くウエーヴをしている人が多い。そのウエーヴを鏝で強調してくるくると巻いて顔の両面にたらす形が19世紀中頃にフランスで流行したが、日本の平安時代の宮廷の女房たちが長い黒髪をまっすぐに伸ばして床に垂れるくらいにしていたものと比べると、ヨーロッパ女性の髪型は昔から巻き髪で、螺旋形にするか、でなければ、三つ編みにして、それを頭の周りに巻くことが多かった。」これは髪型に関する文章ですが、衣装に関する製造工程に触れた文章にも興味を持ちました。「糸つむぎをするのに、つむぎ竿に羊毛をからげ、そこから引き出した糸を紡錘を回しながら、巻き取ってゆくという作業、そのプロセスの一部、あるいはそのあとのプロセスとしてつむぎ車を使うこと、そしてその車の形状、それらは別にどうということもなく、羊毛と木綿の違いもさして影響せず、かなりな地方で同じようにおこなわれ、どこでも女性の仕事とされてきたことはその通りなのだが、それを絵にしてみると、羊毛をぐるぐるとからげて、螺旋形にしたものを片手に持ち、もう一方の手で紡錘をくるくると回しているヨーロッパの農家の女たちの姿は確かに『ヨーロッパの形』をあらわしているように思われる。」後半は食文化と住まいの形を扱います。

2019’個展オープニング

ついに14回目の個展のオープニングを迎えました。午前11時にギャラリーせいほうを開ける予定でしたが、私は10時40分に到着し、先日より鍵を借り受けているため、社員が出勤するより早く会場を開けました。11時前にはカメラマン2人が来廊して、ホームページ用や礼状用の撮影をしていきました。11時を回ると旧知の鎌倉彫の彫り師さんや横浜の管理職仲間や行政職の人など、さまざまな人が東京銀座まで足を運んでくれました。親戚もやってきました。中国語の堪能な学生が、来廊した四川からの観光客の通訳をしてくれました。中国人観光客が多い中で、たまたま知り合いに日系中国人がいてくれたことがラッキーでした。懐かしい人たちや現在の仕事仲間がこんな遠方まで来ていただけたことに感謝申し上げます。美術評論家の瀧悌三氏ともお話しすることが出来ました。瀧氏にしてもギャラリーの田中さんにしても、毎年のことなのでお互い気安くなっていて、軽い会話が出来ることを私は幸せに感じています。個展は芸術作品のセールスであるのと同時に、私にしてみれば疎遠になっている人たちと旧交を温めることが出来る絶好の機会でもあるのです。個展は私にとって自分自身の芸術的成果を確かめる場であり、人との繋がりを再確認する場でもあります。これがなければなかなかお会いすることができない人たちがいるのも確かです。個展発表まで辿り着くのは困難を極めることもありますが、いざ個展が始まってみると、やってよかったと思えるのです。数年前からオープニングパーティは止めていますが、東京銀座の帰路に家内とレストランに立ち寄って、ささやかな個展開催のお祝いをしました。次に私が会場に行けるのは土曜日になります。明日から金曜日までは公務員管理職になって職場に出勤いたします。非日常空間から日常生活に戻るのですが、多面的な二足の草鞋生活を私は余裕を持って楽しめるようになりました。

週末 個展搬入日

いよいよ14回目の個展のために作品を搬入する日がやってきました。朝9時半に運送用トラックが工房にやってきました。運送業者は2名、こちらのスタッフは後輩の彫刻家や学生2人、そこに家内と私を加えて5名で対処することにしました。梱包された作品の積み込みが終わって、積載したトラックが横浜の工房を出たのが10時半でした。そのトラックを追って、私の車に5人が乗って東京銀座に向いました。ギャラリーせいほうに到着したのは12時近くになっていました。梱包用木箱から陶彫部品を取り出し、木箱を運送業者に預かってもらうことにしました。これは以前からやっていただいているもので、懇意にしている運送業者だから便宜を計らってもらっているのです。運送業者が帰ったところで、スタッフを連れてレストランに行きました。これも定番になっているもので、老舗の銀座ライオンでランチをしています。銀座ライオンは創業120周年で、洋風で古めかしい室内が私は好きなのです。ギャラリーでの組み立ては1時過ぎに行ないました。大作「発掘~双景~」とやや小さめの「発掘~曲景~」は後輩の彫刻家と私が中心になって行ないました。女性3名は小品「陶紋」を置く台座を組み立ててくれました。最後は照明を考えながら決め、床に掃除機をかけて設置完了となりました。終了時間は3時でした。今年は例年より早く終わり、私はホッと胸を撫で下ろしました。個展は今までの結果を問うもので、展示が終われば、私の中ではもう過ぎ去った作品になってしまうのです。作品ひとつひとつは創作活動の通過点に過ぎず、満足のいかないところも目につきます。毎年のことですが、今回も気に入ったものが出来ず、それが課題となって次へ持ち越しになるのです。自分の作品を目の前に置いて、鑑賞していただいている人たちと会うのは、なかなか苦しいのですが、それでも現時点の自分自身を見てもらえる幸福を感じざるを得ません。私にはまだまだ伸びしろがあると言いたいのですが、言い訳をせず、さまざまな感想を受け入れていこうと思っています。明日はついにオープニングを迎えます。

週末 図録持参でギャラリーへ

週末になりました。明日が個展搬入日になります。明日ギャラリーせいほうは休館日ですが、搬入のために会場を開けます。そのために鍵を借り受けに東京銀座まで足を運びました。先日出来上がった図録も何冊か持っていきました。明日の搬入で梱包作品とともに図録は大量に届ける予定です。昨年も搬入前日にギャラリーせいほうに行って、田中さんと打ち合わせをしていました。あれから1年経ったのかと思うと、時間の経つ早さを感じます。今回は14回目の個展になり、思い返せば14年の間にいろいろなことがありました。何より東京銀座が少しずつ変貌していて、新しい店舗やビルが建ったり、一時は大変な賑わいを見せていた中国人観光客の姿が、やや落ち着いてきた印象を持ちました。老舗が並ぶ銀座には瀟洒で独特な雰囲気がありますが、それが変わっていくのを残念と思うのは私だけでしょうか。ギャラリーせいほうも彫刻を扱う画廊としては老舗だろうと思っています。私の学生時代、憧れていた彫刻家の面々がここで個展をやっていて、私はここから発刊されている「現代彫刻」を定期購読をしていたのですから、ギャラリーせいほうを老舗と呼ばないわけにはいきません。その頃、個展搬入を手伝っていた池田宗弘先生から先日手紙を頂きました。粘土を扱う彫刻家は腰を痛める人が多いから気をつけるようにという内容でした。池田先生は師匠というより親父のような存在で、私も先生の健康を心配しているところでした。さて、工房に帰ってきて、明日の準備をしました。陶彫部品の接合に使うボルトナットは初めから黒く塗装されたものを使っていますが、ワッシャーが地金だったので、それを黒い塗料で塗ることにしました。搬入に必要な電動工具やドライバー、接着剤などを工具箱に入れました。図録や芳名帳、外看板のポスターなども用意しました。これで何とかなるかなぁと思いつつ、明日手伝ってくれる若いスタッフに集合時間の連絡をしました。搬入がうまくいくことを祈りたい気分です。

鑑賞が与えてくれるもの

創作活動は技術と思索が基盤にあります。技術はイメージしたものに対し、素材を選び、その巧みな技を取得し、自分が思うようなイメージを具現化することです。技術ばかりに走ると、小手先の造形になってしまい、鑑賞する人の心に響いてくることはありません。数多くの展覧会に足を運ぶと、そうした作品を目にすることがあります。逆に技術が覚束なく、それでもイメージに近づけようと奮闘している作品に、作家の魂を感じることもあります。そんな作品に出合うと見に来てよかったと感じるのは私だけではないと思います。思索は、そもそも自分は何をしたいのか、造形という媒体を使って何を表現しようとしているのかを、自問自答する契機になるものです。思索は視覚表現だけに限らず、他の表現分野でも根底に流れるコンセプトであったり、哲学であったりして、創作そのものの問いかけを発する基本的な考え方でもあります。そうした創作活動を展開する上で、さまざまな芸術作品を鑑賞することは、思索を深める良い機会にもなります。たとえば美術の展覧会を取り上げると、展覧会場で私は作家の背景やらキャリアには囚われず、まず作品を見て、素直に感じ取ろうとしています。私は解説が流れる音声ガイドは借りません。作品に対する自問自答を妨げると思っているからです。おぉ、いいなぁと感じられればそれで満足なのです。鑑賞には訓練が必要だとも私は考えます。私が評価したのはどうしてなのか、何が良かったのか、私は自分自身でその答えを探り当てていきます。それが出来るか否かは、鑑賞する場を多く経験しなければ考えをまとめることが出来ないと私は思っています。作家の背景や時代考察などの解説は、鑑賞した後の裏付けとして図録によって確認していきます。NOTE(ブログ)には、展覧会に行った時の新鮮な思い、つまりファーストコンタクトに対する感想をまずアップし、次の機会に図録を読み込んで自らの考えとともに知り得た情報をアップしています。鑑賞が与えてくれるもの、それは自分にとって多くの学びであり、楽しみでもあるのです。

夏を満喫したい気分

来週から始まる個展の準備が整い、案内状の発送も終わり、図録も完成しました。私にとって7月個展が、創作活動では1年間のけじめをつける絶好の時なのです。もう次の制作は始まっていますが、ひとまず心穏やかに過ごせるのが個展が終わった後かなぁとも思っています。同時に夏を満喫したい気分になります。今月と来月は公務員管理職として研修会が組まれていたりして、職場には通常の出勤になりますが、学生時代に染み付いた夏休みというコトバが頭を過り、どこかへ出かけたくなるのは私だけではないはずです。私たちは夏季休暇として5日間の休みが取れます。さらに年休を使えば休暇を増やすことも可能です。家内の演奏日程と調整をして、今月から来月にかけてどこかで夏季休暇を取りたいと思っています。少し前までは夏休みというと読書をするイメージでした。ここ数年は夏休みだから集中して本を読もうという習慣が薄れています。読みたい書籍は山ほどありますが、哲学等の難解な書籍にはなかなか手が出せません。私の行動は、夏の定番である海や山には向かいません。以前はシュノーケリングや登山もやっていましたが、仲間も高齢化したため、誘われることもなくなりました。現在の自分にとってどういう休暇を過ごすのがベストなのか、仕事と遊びのオンとオフを切り替える大切さと、自分にとっての心地よい休暇をイメージしながら、今夏を満喫したいと思っています。

14冊目の図録が届いた日

個展の案内状は遅くても2週間前までに郵送しなければならないので、印刷を急ぎましたが、図録は個展会場で配布するため、個展開催までに出来上がっていれば基本的には大丈夫です。ただし、私の職場では職員に予め図録を配ってしまうので、早めに届いてくれたら有難いと思っていました。私の二足の草鞋生活を職員に示すことで、仕事一辺倒の職員が、多少なりとも余暇を楽しめる環境を作ってほしいと願って、こんなことをしているのです。今回の図録は14冊目になり、出来るだけ演出を控えたリアルな画像で撮影してもらいました。室内風景の写真は、ロフトが出来て新しく昇降機がついたので、そこに作品を置いて撮影しました。大きな作品の部分カットの画像は、作品の説明的要素よりも、画面の構成や角度の意外性などに注目して選んだものです。新しい試みとしては野外工房の床面を水で濡らして撮影したことです。水に映る作品が面白みを与えてくれるのではないかと思いました。小品5点は作品そのものに水をかけています。陶も石と同じく素材に水をかけると雰囲気が変わって美しく映えるように感じます。撮影日が梅雨時であることを逆手にとって、水を有効に使った演出で、季節感のある図録にまとめることを念頭に入れていました。私は蓄積を楽しむ傾向があるので、14冊という図録の積み重ねが自己満足を助長してしまい、つい笑みが出てしまいます。ただし、創作活動の蓄積は満足を生むものではありません。今度こそ満足いくものを作ろうと思っても、どこか足りない気がしています。創作活動はそれでいいのではないかと考えますが、撮影も自分でやったらいつまでたっても満足出来ないものになってしまうと思っています。カメラマンにお願いして、彼らの感覚で撮ってもらい、他者のセンスで図録にまとめてもらうくらいがちょうどいいと思っています。図録が誇りに思えるのはカメラマン任せで作っているおかげなのです。

7月RECORDは「螺旋の風景」

通勤中に読んでいる「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」(篠田知和基著 八坂書房)に影響されて、今月のRECORDは「螺旋の風景」というテーマにしてみました。螺旋や渦巻きは私の大好きなカタチで、RECORDにも度々登場しています。今月は設定を変えて螺旋や渦巻きばかりを毎日描いてみようと思っていて、飽きないようにあの手この手を考えているところです。螺旋や渦巻きはまとまりやすいカタチです。中心に向かっていくカタチは安定を与えてくれるからです。中心が失われると心理的な不安要素が出てきます。敢えて不安を掻き立てることを狙いとする芸術作品も多くあり、むしろその方が深遠な世界が覗けるとも考えられます。螺旋は上昇するカタチで、中世の絵画でテーマになっているバベルの塔もそのひとつです。「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」に出てくるさまざまな螺旋形態を自作の中に取り込んで作品化できるといいなぁと思っています。動物が成長していく過程で、骨や筋肉などに捻りが見受けられます。人間は螺旋を描きながら成長すると学生時代の彫塑実習で教わりました。植物も同様で、よく観察すると茎や葉に捻りが見られます。まっすぐ天に向かって伸びていく植物もありますが、捻ったカタチが美しいと感じるのは私だけでしょうか。RECORDは陶彫制作のスケジュールが厳しくなったり、個展の準備が立て込んだりすると、忽ち影響を受けてしまいます。一日1点ずつポストカード大の平面作品を仕上げていく作業は、実は大変辛いものであり、その日の気持ちの持ち方や体調によっても左右されます。それを10年以上もやってきましたが、意地でも継続していこうとする意志が芽生え、RECORDは私のライフワークになっています。旅行にもRECORD用紙を携帯しています。

映画「クリムト」雑感

先日、常連にしている横浜のミニシアターに映画「クリムト」を観に行ってきました。正式なタイトルは「クリムト エゴン・シーレとウィーン黄金時代」となっていて、グスタフ・クリムトだけではなく、その時代背景や同時代を生きた芸術家を巡るドキュメンタリーになっていました。折しも東京都美術館や国立新美術館では日本オーストリア友好150周年記念として、クリムトを中心とする大きな企画展が開催されていて、私も東京都美術館の「クリムト展」を先月見てきました。映画では旧態依然としたウィーンの芸術界に新しい風を吹き込んだウィーン分離派をクローズアップしていて、その面白さを若い頃にウィーンで堪能してきた私には、あっという間に過ぎた上映時間という感じを持ちました。ウィーンは疑似古典様式の建造物が街の中心を飾っていて、20代前半でウィーンに暮らし始めた私には、西欧の歴史を感じさせる重厚な建造物群に圧倒されていました。そうした環境の中でクリムトやシーレの作品は、エロスやタナトスを描いていていたため、当時は物議を醸したであろうことは想像に難くないところです。S・フロイトの精神分析学もここで誕生しています。O・ワーグナーの合理的な近代建築やG・マーラーの音楽など、時代が変わっていく状況が準備されていたおかげで、近代都市ウィーンは現在の私たちにとって大変魅惑的な都市に生まれ変わりました。ここでクリムトとシーレについての論評を図録より引用いたします。「クリムトは人であれ、自然であれ、美しいものへの憧れを語った耽美主義の人であり、装飾的な美しさによって美の王国を築き、そこに安住の地を見出した世紀末のデイ・ドリーマーであった。クリムトの生涯の半分の28年の短い生涯を、奇しくもクリムトと同じ1918年(これは第一次大戦終焉の年でもあった)に終えたシーレは、快楽よりも苦痛に、外面よりも内面に、安らぎよりも不安に人生の真実を見た画家であった。」(千足伸行著)シーレの絵画はクリムトのそれより現代に近づいているように感じるのは私だけではないと思います。

週末 梱包作業の追い込み

週末とは言え、今日も昨日とは別のメンバーによる地域会議がありました。私は来週の搬入を控えていて、時間が足りない中で地域会議に出席してきました。その関係で今日も昨日と同じく早朝6時に工房に出かけ、梱包作業に精を出しました。梱包用木箱を構成する横板が無くなり、昨日中に日用大工センターに追加の板材を注文していました。地域会議が終わった後、板材を取りに行って、夕方から工房で作業の続きをやっていました。梱包がほぼ出来上がったのは夜7時を回っていました。それでも最終的なチェックが必要ですが、それは来週の土曜日に行ないます。今回は梱包で右往左往してしまいました。6月の図録用撮影日も陶彫部品がまだ窯に入っていて、作品完成前にジタバタしていましたが、作品が出来上がっても余裕が持てず、結局搬入を予定している次の日曜日まで休む間もなく過ぎていきそうです。搬入前日は一度立ち止まって、あらゆるものに目配りすることが大事です。確認作業を怠ると、とんでもない事態になることは過去の事例から学んでいます。組立ての手順、それに要する電動工具、接合金具、修整用の接着剤など、前日は個展の空間をイメージしながら準備していくのです。図録が出来上がってきたら、ギャラリーせいほうに届けに行かなくてはならず、搬入前にもう一度、東京銀座に足を運ぶことになりそうです。このところ連日の多忙で身体は疲労をしているはずですが、何故か疲労を感じずにいました。しかし今日になって胃腸の具合が悪くなった時間帯がありましたが、それも束の間で、作業をやっているうちに治ってしまいました。気持ちの頑張りが体力を超えたのでしょうか。明日から金曜日までは公務が待っています。まったく違う仕事をしていくのも、搬入に向う切羽詰った気持ちのクールダウンになりそうです。二足の草鞋生活は大変な面もありますが、意識せずに2つの世界のバランスを取っているのかもしれません。

週末 地域会議&映画鑑賞

週末になり、個展のために搬入の準備している最中ですが、職場の地域が座談会形式の会議を計画していたため、今日はこれに出席してきました。公務員と彫刻家との二足の草鞋生活では、こうしたことで時間のやり繰りが難しく、ある面では仕方がないところがあります。今週末はまとまった休みが取れないことが予め分かっていたためにウィークディの夜に工房に来て、梱包用木箱をコツコツ作っていたのでした。ウィークディは仕事から帰って1時間程度工房で作業し、さらに自宅の食卓でRECORDを制作している生活が続いていました。木箱作りもRECORD制作も身体が休まる状態ではないので、疲労が溜まっているかもしれないと思うこの頃ですが、何故かいつもより覚醒していて不思議な力が湧いてきています。今日は早朝6時に工房に行って2時間ほど梱包作業を行い、9時前に地域会議に出かけ、昼過ぎに帰ってきて、再び工房にやってきました。そこで1時間くらい梱包作業をやって、午後は家内と常連にしている映画館に出かけました。映画「クリムト」は前から観たかった映画で、今日しか時間が取れなかったので、思い切って出かけたのでした。映画を観終わってから、夜になってからもう一度工房にやってきました。そこで2時間の作業をやりました。今日は早朝2時間、昼に1時間、夜に2時間の通算5時間を費やして飛び石で梱包作業をやりましたが、短期集中で何とか今日のノルマは果たせたかなぁと思っています。実は明日も職場の地域で別会議が組まれていて、また早朝から工房に行こうと思っています。映画「クリムト」は副題が「エゴン・シーレとウィーン黄金時代」とあって、ウィーン分離派時代のクリムトやシーレを巡るドキュメンタリーになっていました。本作の制作はイタリアで、主演男優もイタリア人でした。映画の中ではエゴン・シーレの強烈な画家個人の自己分析とエロティックな世界観が印象に残りました。私は1980年から5年間ウィーンで暮らしていたので、その空気感を思い出し、時折微妙な気分になりました。映像の編集で街の捉えがこんなにもハイセンスでシャープになるのかと感じ、私はこんなにも新旧取り混ぜたヨーロッパの文化が濃厚に詰まった街にいたんだなぁと改めて振り返っていました。映画の詳しい感想は後日改めます。

「音楽と絵画」について

「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)は、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を根拠に、フランスの現象学者が書き表したものです。今回は「音楽と絵画」についてのまとめを試みます。冒頭の文章に「〈壮大な芸術〉という発想は、音楽および音楽と絵画との関係をめぐる考察から生じている。」とありました。特殊な個々の芸術のどこに統一性を見出していくのか、次の一文を引用いたします。「眺めること、聴くこと、触れること、感じることーそれらの体験の多様性が識別されているにもかかわらずーを、〈同じもの〉たらしめているのは何なのか。それは諸感覚の主観性である。」主観性に辿り着くまでにカンディンスキーの造形思考に何があったのか、こんな一文もありました。「抽象の概念の形成において決定的な役割を演じたのは音楽である。重大な『精神的転機』のときに、知の全領域において、とりわけ絵画の領域において、客観性の危機にカンディンスキーが揺さぶられて、新しい『内容』(芸術はこれを表現することを使命としている)について自問したとき、まさしく音楽が、彼の精神に模倣すべきモデルとして現れて来たのであり、入りこんでいる袋小路から絵画がぬけ出ることをー要するにその真の目的性を確認することをー可能にしてくれる道案内として現われて来たのである。」さらにここでショーペンハウワーの哲学が登場します。私は著作「意志と表象としての世界」を既読していたので、言わんとする内容は理解できました。「ショーペンハウワーは、この世界は、二次的な表象、見せかけの模写でしかなく、対象化し得ない隠された内的な実在である〈存在〉という真の実在の対象化でしかないと主張していた。-彼が〈意志〉と呼ぶものはこれであり、生を指し示す名称にほかならない。」主観性や内的なものに関する哲学的視点を示したところで、次の一文を本章のまとめにしたいと思います。「絵と音楽は、情念的な主観性とこの世界に関心をもたないその内的な移り変わりとに両者とも準拠することによって、〈同一のもの〉となっているのである。抽象絵画の発展のすべては音楽の発展をモデルとしており、フォルムと色が諸物への自己の帰属を、外面的な自己の現われをうち捨てて、どのようにして生の情念の中に再び組み入れられているかを、われわれにはっきり見せてくれたのだった。」

「蛇の絡まる木」について

通勤中に読んでいる「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」(篠田知和基著 八坂書房)の第二部「蛇の絡まる木」のまとめを行います。ヨーロッパで紋章に多く見られる蛇の図像には、どんな由来があるのか、本書から紐解いていきたいと思います。「キリスト教が生まれた中近東でも蛇や竜は信仰されていた。その痕跡は『聖書』にも随所に見られる。まずは創世記のエデンの園である。~略~蛇としても冥界を指し示しはしても、地上においては豊穣や、あるいは沈黙の知恵、慎重さなどをあらわしていた。ヘブライ世界でも、もっとも価値あるもの、ここでは『知恵』を守る番人だった。それを『食べるな』という禁忌は、美しい女神の裸身を『見るな』という禁忌と同じもので、人間の知りたい欲求をむしろあらわしたものである。」続いて古代の蛇伝承を取り上げます。「ヨーロッパの蛇女神として有名なのはフランスのメリュジーヌで、下半身が蛇だったという。メリュジーヌ以外にも『マムシの女王』として知られるヴイーヴルの伝承があり、似た形象の人魚型妖精はギリシャからいて、下半身が魚の場合も、それが二股に分かれて絡み合っている形で想像されることが多かった。~略~ギリシャ神話はエジプトのような動物神の性格は持たず、人間的な行動をする人文神の世界のように思われているが、実はよく見るとそうでもなく、たとえばゼウスが戦った相手のギガンテース族は蛇だった。~略~蛇はヨーロッパではもうひとつ別な機能をあらわしている。特に蛇の絡まるカドゥケウスというものが、ヘルメスの持つ杖で商業の象徴であり、アスクレピオスが持っていれば医学をあらわす。アスクレピオスの娘のヒュギエが蛇を飼っていて、その毒液から薬を作っていた。」蛇は裸女とも関係が深いようです。「蛇をまといつかせていたのはクレオパトラだけではない。アレクサンドロスの母オリンピアの寝床にはいつも大蛇がいたという。蛇がいなくとも、裸の女性は蛇そのもののように描かれた。妖艶に裸身をひねるヨーロッパの女神たちは蛇である。」とぐろを巻く蛇から渦巻く形に象徴化されたヨーロッパ文様ですが、近代絵画などの例もあげています。「絵の世界ではゴッホの《星月夜》の渦を巻く天体である。合理的機械文明であるヨーロッパで、何でもないところに、意味のない渦巻きが付け足される。それをねじり柱の延長として考えてみる。遊びなのか、過剰なのか、蛇の尻尾のように余計なものなのか、あるいはゴッホの世界に見られるように、狂い出す精神の風景なのか、漱石が『あらゆるものがぐるぐると回り出す』と『それから』の終わらない結末で世界を幻視したときは、多分にそれに近かった。」まとめになりませんが、今日はこのくらいにしておきます。

「エコール・ド・パリ」の芸術家たち

「エコール・ド・パリ」とは、20世紀初頭にフランスの首都パリに集った異邦人芸術家たちのことを指しています。先日、東京都庭園美術館に「キスリング展」を見に行った折、「エコール・ド・パリ」の芸術家たちに興味が湧きました。当時のパリは芸術の中心であり、芸術家にとっては憧れの都市でした。ポーランドからやってきたキスリングもその一人で、パリの華やかさを体感しながら、彼は民族に纏わる事情も抱えていたことが図録で分かりました。図録から引用します。「ユダヤの血を引く者たちにとって、第一次世界大戦前から第二次世界大戦へと続く厳しい迫害の時代は、ルーツへの思いの深さとは裏腹に否定せざるを得ないという、辛い相克に苛まれた受難の世紀であった。モディリアーニやパスキンらと同じくユダヤの家系に、ポーランドの古都クラクフで生まれたキスリングの人生を振り返ってみると、そこには時代の折々にユダヤの血への葛藤に揺れ動いた心情が吐露されている。~略~このような時代状況のもと、キスリングは早い時期からユダヤ的なものから自己を切り離して、フランスに同化しようとしている。1910年代からキスリングは『モイーズ』というユダヤの偉大な指導者モーゼを想起させる名前を使うことを好まず、終生、絵のサインには姓のキスリングだけを使っていた。」(村上哲著)フランスへの同化、それは戦意高揚のための戦争画を描いた藤田嗣治にも言えることで、日本画壇の暴挙に嫌気の指した藤田は、レオナール・フジタとしてフランスに帰化してしまいます。いろいろな場面で「エコール・ド・パリ」の芸術家たちは祖国や民族が抱える諸問題も抱えていたと言えます。ただし芸術は、国籍や民族を超えて、美の価値観を共有する人々に認められることが証明されていて、私は芸術の素晴らしさを感じざるを得ません。

目黒の「キスリング展」

先日、東京目黒にある東京都庭園美術館で開催されている「キスリング展」を見に行ってきました。まとまったキスリングの油彩を見たのは実は私は初めてだったように思います。キスリングは、エコール・ド・パリを代表する画家なので、その画風は知っていましたが、多くの肖像画や静物画に接する機会が今までありませんでした。東京都庭園美術館はアール・デコ様式で有名な建物であり、その室内装飾にも贅を尽くしているため、そこに展示される作品は、周囲環境との調和を図る必要があります。そういう意味ではキスリングの世界は空間に合致しているように感じました。ユダヤ系ポーランド人であったキスリングは、東欧的な雰囲気と同時に「感情に通暁したリアリスム」(図録より引用)という言葉が相応しく、形態や色彩の洗練さが際立っていました。図録より絵画の特徴を書いた文章を拾ってみます。「キスリングが描く人物たちは、女性の場合がほとんどだが、常に様式化されている。往々にして遠くの内面を見つめているアーモンド形の大きな目、眉や唇の正確なデッサンといったように。~略~彼の作品には写実的で静かな世界と、親密だが年齢を感じさせない、無気力で魅惑的な雰囲気とが見られ、不安定さに繋がっている。綿密で洗練された写実ではありながらも、表された人物たちの不動性が、止まった時間と深い沈黙を伴う夢のような作用を引き起こし、主題の平凡さを超越させてしまうのである。」(マイテ・ヴァレス=ブレッド著)キスリングは、若い頃からパリ画壇で認められていたので、生活が困窮することがなかったようです。確かに魅力的な肖像画や静物画は、当時はよく売れただろうなぁと察します。彼はユダヤ人であったために、ナチス・ドイツの迫害を恐れて渡米しますが、戦後は再びフランスに戻ってきています。生涯を通してみると、キスリングは画家としてのやるべきことを全うした幸福で幸運な芸術家だっただろうと思いました。

14回目の個展を開催する7月になって…

7月になりました。毎年7月になるとNOTE(ブログ)に個展を開催すると書いていますが、今年も同じことを書きます。いや、こうしたことが書ける幸福を感じていると言った方が気持ちにフィットするように思えます。個展は今年で14回目になり、彫刻による個展が継続して開催できるのは、自分の体力・健康や意欲、そして何よりも周囲の協力なしでは考えられないと思っているからです。継続は力なりと言いますが、私の場合は継続は宝なりと公言したいのです。そのための準備に今月の前半を使います。後半は来年の新作に取り組みます。継続可能にさせるのはイメージの源泉にあり、次から次へと作品のイメージが湧き出ているうちは只管作り続けていくのが、自分に与えられた運命と勝手に思っています。この7月が新旧イメージのバトンを繋ぐ1ヶ月でもあるのです。今月は鑑賞でもまだ見ていない大きな美術展や映画があるので、時間を見つけては出かけていきたいと思っています。制作と鑑賞は創作活動を支える両輪で、技能と思索を行きつ戻りつしながら作品世界が深まっていくと私は考えています。そういう意味でRECORDも小さいながらも創作活動のひとつです。しかも時間を限って制作する厳しい条件を自分に課していて、ともすれば取り組みに気が重くなるところを下書きだけを先行させて、毎晩アイデアを捻りだせる環境を整えています。今月はRECORDの下書き先行を解消したいと願っています。読書は継続ですが、読みたい書籍をかなり買い込んでしまっていて、一度若い頃のように読書に埋没したいなぁとも思うところです。