週末 継続する意志

週末の2日間は陶彫制作に明け暮れています。土錬機で回して配合を終えた陶土をタタラにして、翌日成形をして彫り込み加飾を施す、こうして出来た成形を乾燥させ、仕上げに化粧掛けをして窯に入れる、これが制作サイクルです。この流れを週末のたびに繰り返しています。どんなに焦っても早く乾燥が進むわけではないし、窯の中の焼成時間も常に同じです。木彫なら猛烈に鑿を振るい、自分の都合で早く作業を行うことも可能ですが、陶彫はそういうわけにはいきません。自分の都合ではどうにもならない工程があるのです。制御できない素材に翻弄されながら何とかカタチを決着させていく、それが陶彫の面白さかなぁと思ってます。次から次へと進む工程は、自分の気分とは関係なく、自分にノルマを課してきます。ウィークディ明けの土曜日は疲れていると思っても、陶彫制作は待ってくれません。そんなことを思いながら20年以上も陶土と付き合っています。継続する意志はしっかり身についていると感じています。今日は朝から工房に篭って制作三昧でした。若いスタッフもやってきて、自らの課題に向き合っていました。夕方、神奈川県民ホールのギャラリーに若いスタッフを連れて出かけました。友人が書道展に出品しているので見に行ったのでした。勇壮な文字が書かれた友人の書を見て、自分も創作活動を継続する意志を再度確認した次第です。

「第一局所論」について

「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)第三章「夢とヒステリー」のまとめを行います。第三章の中心部をなす「夢の仕事」に関しては、既に内容をアップしていますので、それに続く「第一局所論」について書き、これをもって全体のまとめとさせていただきます。「第一局所論」とは何か、文中から引用します。「夢とヒステリーのような神経症は、無意識的な欲望とその抑制という同じメカニズムによって発生していることがわかる。~略~人間の心は意識、前意識、無意識の三つの場所=審級で構成され、それぞれの間に二つの検問所が存在していることが指摘されてきた。これが第一局所論と呼ばれるものであるが、この局所論は人間の心、知覚、記憶についてのさらに基本的なモデルに依拠したものである。~略~フロイトが考えた心のモデルでは、人間の心をさまざまな場所に分解して考えようとする。人間の心は、さまざまな部品で構成された装置のようなものであると考えるのである。フロイトは『心の仕事に従事している道具を、たとえば組み立て式の顕微鏡やカメラのようなものとみなす』ことができると考えた。~略~フロイトはこの反射装置で、『心的プロセスは、一般的に知覚末端から運動末端へ経過する』という想定を示したのである。」この知覚末端と運動末端の関係を調べていくうちに通常とは逆のプロセス、つまり退行もあると考えて、精神疾患治療の手掛かりにしたことが伺えました。

映画「放浪の画家ピロスマニ」について

1969年に制作されたグルジア(ジョージア)の映画「放浪の画家ピロスマニ」を久しぶりに観てきました。私は20代の頃から数回に亘って本作を観ています。そのつど印象が異なり、ピロスマニという孤高の画家にずっと魅力を感じています。ゴッホは職業を転々とし、父のような牧師にもなれず、生前絵が売れなかったことで有名ですが、ピロスマニは酒場を回り、食糧や酒と引き替えに看板や壁に掛ける絵を描いていたところは、ゴッホとは境遇的には違うかもしれません。ただ、若い頃の自分はピロスマニにゴッホと似た生涯を感じ取っていました。ピロスマニは一時中央の画壇に注目されたときもあったのですが、晩年は貧困の中で亡くなり、共同墓地に埋葬されたようです。2人とも己の絵画の素晴らしさを信じて疑わなかったことが似ていると思った要素でしょうか。ピロスマニの絵画はグルジアの身近な風習や歴史、人や動物をテーマにしています。素朴派に通じる世界ですが、イコンのような正面性の強い絵は、独特な趣があって一目見てピロスマニの絵と分かります。映画のそれぞれのシーンもピロスマニの絵のような画面構成をしていて、制作当初より40年経ってもその美しさは変わりません。広い草原に一軒だけある乳製品を売る店が、まさに絵画そのものです。村の居酒屋で歌い踊るフランス人女優に恋心を抱くピロスマニが画面に映し出されます。真意のほどはわかりませんが、そのモチーフが「100万本のバラ」という歌になったというエピソードもあります。「私の絵はグルジアには必要ない。なぜならピロスマニがいるからだ。」とピカソが言ったそうですが、映画そのものも時代を経てもなお新鮮な感動があります。

「夢の仕事」について

昨年11月から今年1月までの間に「夢の仕事」のまとめをNOTE(ブログ)に掲載していますが、これは「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)第六章「夢の仕事」をまとめたものです。今回の「夢の仕事」のまとめは「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)の単元をまとめたもので、出所は同じですが、解説書からの引用であることをご理解いただければと思います。「人間の心は意識、前意識、無意識の三つの審級で構成されている。無意識と前意識の間に、第一の検問所が存在する。この検問所は、無意識のうちに潜む欲望を意識にのぼらせることを望んでいる。ここを通過した願望は、前意識の領域に入る。前意識と意識の間にある第二の検問所は、この願望を検閲して、それが意識の領域に受け入れられるように、手直し、歪曲するのである。ここで夢の仕事が行われることになる。」引用した文章は、神経症と同じようにフロイトが図示したものに夢の分析をあて嵌めたものです。フロイトはこのように人間の心には、意識、前意識、無意識の三つの審級があると考えていて、これを第一局所論と呼んでいます。夢の技法の中に「圧縮」があります。顕在的な夢内容は、夢の潜在的な内容に検閲をかけて、それを偽装したものを「圧縮」と呼んでいます。「置き換え」という技法もあって、夢の内容と意味を他のものに置き換えるものです。「表現可能性」という技法もあって、夢見る人は直喩や隠喩の散りばめられた詩人の言葉のような文を、像によって描かれる夢内容に表現しなければならないことを言います。「二次加工」という技法は、夢の顕在的な内容の形式そのものにかかわるのではなく、すでに形成された夢内容にあとから働きかけるという特徴があります。いずれにしてもここに掲げた言葉は、「夢解釈」に出てくる内容で、言葉によっては前にNOTE(ブログ)にアップしたものと重複しているものもあろうかと思いますが、今は「フロイト入門」のまとめとして書かせていただきました。

魂の在り処

「祈るときは合わせた二つの掌のあいだに、口惜しくて歯ぎしりするときは歯と歯のあいだに、悔いて顔をしかめるときは眉間、あるいは瞼のあいだに、魂はある。」これは朝日新聞に掲載されていた「折々のことば」欄にあった印象に残った一文です。筆者は鷲田精一氏で、現代フランスの思想家の言葉だそうです。魂とは何か、私は魂という語彙に敏感に反応してしまうのです。以前に読んでいた西欧の哲学書や、現在読んでいる精神分析に関する書籍にも魂が出てきます。宗教では洋の東西を問わず、魂は人間の精神を形成する重要な位置づけがなされています。「仏作って魂入れず」という諺もあるくらいで、何か肝心なものが欠けていることを言います。創作活動をしていると目に見えない何か不可思議なものの存在が気になります。作品が生命を宿したように見えるのは何故なのか、同じような作品でも形骸化を感じたり、技巧ばかりが目立って退屈なものに見えたりするのは何故なのか、人の感じ方でどのようにも取れるところを、誰が見ても心が打たれるのは何故なのか、自分には不思議でなりません。作り手から言えば、苦心したものにそうした魂が宿ると信じたいところですが、そうとも言えないのです。苦心して作ったものは空回りしていて、見ていて苦しいと感じる時があります。苦心した次にやってくるものに自然な流れを感じ、無理なく作品が出来上がることがあります。暫し見ているとその作品に魂が宿っていると感じるのです。魂とは精神がのり移ったもの、これは疑えないことかもしれませんが、その判断はどこからくるのでしょうか。それを認めるのも人の魂なのでしょうか。

寒さ厳しい2月になって…

先月の前半は暖かかったのですが、このところ寒波がきていて寒さは一段と厳しさを増しています。朝の起床の辛さは、何回季節が巡ってきても慣れるものではありません。窯入れをしていると、出勤途中に工房に立ち寄らなければならず、そのために自宅を出る時間が多少早まります。それでも工房のある植木畑の梅の木に小さな蕾を見つけると、春は確実に近づいていると思っています。2月をどう過ごすか、陶彫制作をどこまで推し進めるか、毎年のように目標を立てていますが、どうも今年は例年に増して制作に邁進していかないと、完成間近になって相当辛い思いをすることになりそうです。目標としては擂り鉢状の新作を可能な限り作り続け、外側の円形部分の完成を目処にしたいと思っています。外側の円形部分は陶彫部品の他に木材を組んで台座を作ります。それも合わせて今月中に完成させたいと考えています。RECORDは今月も継続です。自宅での夜のRECORD制作が習慣化しているので、好きな音楽を聴きながらやっていきます。猫のトラ吉に邪魔されながら、寸時を惜しんで頑張りたいと思います。鑑賞では展覧会情報を張り巡らせ、これはと思う展覧会には足を運びたいと思っています。映画ではミニシアター系で観たい映画があります。テーマが暗いので家内が躊躇していますが、自分は必ず観に行こうと決めています。読書はやはりフロイト一辺倒でしょう。その他に従兄弟の結婚式や知人の書展があります。健康に留意して過ごしたいと思っています。

週末 1月を振り返る

早いもので1月の最終日を迎えました。2016年も光陰矢の如く過ぎていくように思われます。今月は正月の休庁期間や三連休があって、新作の制作工程を少しでも進めようとしていました。それが遅々として進んでいないように感じるのは、気が急いているせいかもしれません。週休2日間のうち、最近は土曜日に疲れが出て、なかなか思うように制作に集中できないのが焦る理由です。昨年までのNOTE(ブログ)のアーカイブを見ると、今年は本当に苦しいと思っています。来月は陶彫部品の制作に弾みをつけないといけないと自覚しています。疲労を言い訳にしてゆっくり休んでいるわけではないのに、どうして週末になると焦りだすのか、作品を通して求める世界が年々水準を上げているのか、無意識に自分の首を絞めているように思えてきます。創作活動は自分に楽しみを与えるものだという定説が、自分には信じられなくなっていて、自分の身を削るように感じます。それでも制作をやっていくのは何故なのか、自分にもわかりません。来月は何とかしたいものです。今月の鑑賞は展覧会には行っておらず、専ら映画を観ていました。娯楽性のあるものでは「スターウォーズ フォースの覚醒」を観ました。ミニシアター系では「消えた声が その名を呼ぶ」と「放浪の画家ピロスマニ」を観ました。読書はフロイト関連のものばかりで、「夢解釈」を中断して「フロイト入門」を読んでいるところです。精神分析の面白さに魅了されつつあります。RECORDは相変わらず日々苦しみながらやっていますが、陶彫部品の制作ほど焦りを感じません。毎晩1点ずつ制作するRECORDの厳しさに慣れてしまっていて、これが当たり前になっているのです。今月は職場で体調を崩す職員が複数いました。前半は暖かかった気温が一転して厳しい寒さに見舞われたことが大きかったと思っていますが、幸い私は元気に出勤しています。でも異様な疲労に襲われると、病気ではないかと疑うところもあります。身体には充分留意して過ごしたいものです。今日は工房で夕方窯入れをしてきました。来週工房は窯を稼動しているため、夜の作業は出来ません。この寒さの折なので好都合かもしれません。

週末 管理職研修から帰って…

昨日の勤務終了時間から東京浅草に向かいました。横浜市旭区には12の公的施設があって、一つひとつに管理職がいるので、私たちの仲間は12人いるのです。日頃は多くの職員の中で一人で仕事をしていて、大小の事案を判断しています。私たちは孤独な役職でもあり、そういう意味でも12人が集まる場はとても貴重な機会です。みんなが相談できる相手であり、支えあう同士です。私たちは12人で1年に一度宿泊して研修を深めます。とりとめのない話も大きな危機管理としての心構えもお互い確かめ合って、明日からの仕事の糧とするのです。昨夜は浅草の雷門近くにある「駒形どぜう」に行って鰌料理に舌鼓を打ちました。ホッピー通りにも足を伸ばし、ワイワイガヤガヤと夜更けまで話し合っていました。今朝、浅草から帰って、家の用事を済ませ、明日の制作の準備にタタラを3枚作りました。自宅で暫し休憩し、夜は恒例になったミニシアターに出かけました。観た映画は「放浪の画家ピロスマニ」です。これは1969年に制作された映画なので、封切りから40年近く経っていることになります。私の記憶ではオーストリアのウィーンにある映画館で初めて観て、帰国後に数回観ているのではないかと思っています。私は1980年から85年までウィーンに住んでいて、よく場末の映画館に通っていました。物語が虚覚えなのはドイツ語吹替版だったせいかもしれません。帰国して観た本作の日本語字幕を読んで、初めて物語が分かったような記憶があります。まるでナイーヴ絵画のようなシーンはよく覚えていて、草原の風景や服装等の風俗を改めて思い出しました。20代に初めて観た時と、現在の年齢で観た印象が異なっていて、自分の年齢に応じた感覚の差異に我ながら面白さを感じました。詳しい感想は機会を改めます。今日はたいして制作は捗らなかったものの充実した一日を過ごしました。

「夢解釈」執筆の動機

「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)を中断して、現在「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)を読んでいるところですが、いよいよ「夢解釈」をテーマとする第三章に入ってきて、フロイトが「夢解釈」を書き始める動機がわかってきました。まず夢とはどういうものか、文中から引用いたします。「神経症は想起することが不愉快な心的な外傷の記憶と、それを抑圧しようとする意識との葛藤が、身体的に症状として表現されたものだった。失錯行為は、無意識のうちに抑圧された欲望が作りだすコンプレックスと、それを抑圧しようとする意識との葛藤が、日常生活のうちに作りだす現象だった。そして夢は、わたしたちが無意識のうちに感じている欲望と、それを抑圧しようとする意識の間で、一つの妥協として作りだされるものである。」そんなことを念頭に入れて、フロイトが試みたことは自己分析でした。ところが、「自己分析というのは、精神分析においては困難な問題を提起する。~略~無意識のうちに抑圧されているものは、自分が意識したくないために抑圧されているのであって、それを自分で意識のうちにのぼらせるのは困難なことである。精神分析は原則として、分析者と被分析者との対話のうちで初めて成立する営みである。フロイトはそこで、自己に精神分析を実行して自分の無意識を直接に分析することを諦めて、無意識の表現である夢を分析することにしたのである。」というフロイトが辿った精神分析のひとつの試行結果として夢の解釈を始めたのでした。「フロイト入門」を読み終えれば「夢解釈」の再読を始めますが、執筆の動機がわかったことは、自分には意義があることだと思いました。

「機知」のメカニズム

現在読んでいる「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)の第二章「忘却と失錯行為」のまとめを行いますが、先日「遮蔽想起」についてNOTE(ブログ)に書いたばかりなので、それに続く「機知」について気に留めた箇所を選び、それをもってまとめとしたいと思います。文中から引用します。「(フロイトが刊行した)『機知』という書物は、『日常生活の病理学』とは異なり、失錯行為のように、無意識の現象を分析する書物ではない。むしろとくに活発な意識の働きが必要とされる意図的な行為についての考察である。それでいてフロイトは、意図して他人を笑わせようとする機知の行為にこそ、言い間違いと同じような無意識の働きが作用していることを明らかにしていく。」本書では、これに続きジョークやウィット、アイロニー、ナンセンスといった普段私たちが接している言語表現に対して、フロイトの解釈を加えています。さらに、こうした機知がどのように生まれ、享受されるのかというメカニズムが説明されています。「(心的な抑圧の原因として)語る相手の権力にたいする遠慮であることも、機知に頼るほうが効果が大きいという計算であることも、自虐的なあきらめである場合も、本人が克服できない困惑であることもあるだろう。」そこに第三者の存在も想定されています。「それでは第三者は機知をどのように楽しむのだろうか。フロイトは、機知の言葉を耳にすると快感がえられることを指摘しながら、『そのような快感の獲得には心的消費の節約が対応する』と主張している。」という文中の多くの引用記載をもって、まとめにするのはあまりに雑駁すぎて忍びないのですが、一応ここで区切りにしたいと思います。第三章はいよいよ「夢解釈」が登場してくるので、楽しみながら読んでいきたいと思います。

創作を補うメモ

陶彫部品による集合彫刻を作り続ける上で、私は自分なりのメモを用意しています。イメージされたものを具現化するために思索を深めていくのとは異なり、もっと感覚的に綴ったコトバによるメモです。それは創作の本流をいくものではありません。鑑賞者を自分のコンセプトに導くために謎を仕掛けているようなもので、造形の帰結点を覆い隠す役目をしているのです。鑑賞する側からすれば余計なことかも知れませんが、それも遊びの要素として捉えていただければ幸いです。ホームページでメモの内容を明らかにするのは躊躇されるところですが、とくに隠すことではないので書いてみようと思います。まず第一に「作品は完成形をもたないこと」です。私の作品は集合彫刻であるため部品の増減があります。展示する空間によって作品は変貌します。部品を一部自由に組み合わせられるように作っているのです。次に「作品は欠如していること」です。私は左右対称等に見られる完成された美が好きではありません。何かが欠如しているとそこに大きな広がりを感じ、鑑賞者個々の空想による補いを歓迎します。さらに「作品は非対象であること」です。カンディンスキーの絵画は非対象絵画と呼ばれています。何が描かれているのか説明ができないもので、それによって対象物ではなく色彩や構成が見えてくるのです。私の作品も「~のような」と形容される場合が多くあります。最後に「作品は制御できる部分と制御できない部分が混在していること」です。全て自分がコントロールできるものなら、作品世界は常に手の内にあって、退屈なものになるのではないかと思っています。偶然が生み出す想定外の造形を取り込んでいくことで作品のスケールが大きくなると思っています。こうしてメモを書いていくとどれも判然としないものばかりですが、私にはその方がしっくりいきます。前述した通りこれは造形の本流でもコンセプトでもありません。あくまでも創作を補う自分なりのメモです。ただし日々の制作には欠かせないものでもあります。

精神分析における「遮蔽想起」

現在読んでいる「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)の第二章「忘却と失錯行為」の中の「遮蔽想起」という箇所が気になっているところです。まだ第二章のまとめにはなりませんが、「遮蔽想起」の引用と感想を述べてみたいと思います。神経症治療において、幼児期の記憶が何らかのカタチで残り、心的な外傷を与えているというフロイトの理論では、それを「遮蔽想起」と呼んでいます。文中から引用します。「遮蔽想起は二つの重要な役割を果たしてる。一つは、遮蔽想起が『遮蔽する』役割である。別の出来事や幻想を『覆い隠す』役割を果たしているのである。もう一つは、遮蔽想起が『想起する』役割である。その背後に何らかの重要な記憶が存在していなければ、想起することもないのである。~略~フロイトは遮蔽想起の形成プロセスを時間的なずれによって二つに分類している。逆行性の遮蔽想起と先行性の遮蔽想起である。」まず、逆行性とは「思春期の出来事が発生した後に、それが幼年期の出来事として遡って記憶されている」ことであって、その反対である「幼年期にある重要な出来事が発生して、それが思春期の記憶として残っている」のが先行性ということになるようです。時間的に差のある2つの記憶が重なり、遮蔽想起が起こるというのに私は興味関心を持ちました。私は神経症に悩んだことはありませんが、別々の記憶の中から共通する強烈なカタチが立ち現れることがあるのです。記憶の加工があると以前から思っていましたが、それを正確に思い出すのは困難です。無意識に何かを記憶に留め、後は全て忘却していることがあるのかもしれません。遮蔽想起とは話が逸れますが、精神分析の治療を一度も受けたことがない者でも、自分を保つための防衛や忘却があっても不思議ではないと本書を読んで思うようになりました。自分が意識できうる顕在的な世界では、自分の身の置き場や社会性を意識して、自分はこうあるべき姿を常に考えて行動しています。過去の記憶の遮蔽等が少なければストレスも少なく、その分自分が正常だと自分に言い聞かせて生きているように思えます。それなら潜在的な世界はどうでしょうか。自分で己の無意識を推し量ることが出来ないので、無意識は常に自分にとって謎です。遮蔽想起はそうした無意識の中で登場してくるものとフロイトは説いています。これは面白い分野ですが、精神分析学の虜になったらヤバい気もしています。

15‘RECORD4月・5月・6月分アップ

ホームページに2015年RECORD4月分~6月分をアップしました。昨年の月々のテーマは漢字一文字で表していました。4月は「縫」、5月は「舞」、6月は「楔」にしました。4月の「縫」というのは、年度初めに人事異動があり、職場が新しく出発することを考えて、違う価値観を持つ人と人が糸で縫い合わされ協働していく様子を表したいと思ったことがテーマを選んだ理由でした。パッチワークのようにさまざまな色彩が加わることで、全体としては美しい世界が生まれると思っています。5月の「舞」は東京国立博物館で「鳥獣戯画」展を見て、その軽やかな動物の姿態が面白いと思って、5月のRECORDに兎や蛙の楽しく遊んでいる様子を盛り込みました。「鳥獣戯画」展を見る前は、5月の春風に舞う季節感を表現したいと思っていました。布や身体が舞っているイメージがありましたが、一日1点の制作ノルマはなかなか厳しくて、実際の制作とイメージが違いすぎる日々を過ごしていました。6月の「楔」では人間関係を描いてみようと思っていました。楔が打ち込まれると関係は強固になります。ですが、例えば橋や高層ビルは敢えて隙間を作って地震に対して揺れる構造になっています。その方が倒壊しないことが実験済みです。隙間のない関係を作ることは果たしてどうなのか、人間関係でも一考を促すことかもしれません。人と人が連携し協働する強さは、どんな匙加減でいけば効果が発揮できるのか、そんなことを考えていた時期でもありました。私のホームページを見ていただけるなら、このNOTEの左上にある本サイトをクリックすると入れます。それからRECORDを選んでクリックすれば、今回アップした4月分~6月分のRECORD画像が出てきます。ご高覧いただけると幸いです。

週末 留学の思い出に耽る

工房によくやってくる若手スタッフで、先日海外留学から帰国した子が久しぶりに顔を見せました。彼女は再び相原工房での制作を始める予定ですが、留学先で得た体験が今後どう作品に影響してくるのか楽しみです。私も留学経験がありますが、私に比べて彼女は留学時期として大変有意義だったと思っています。東京芸大大学院を休学して半年間インドネシアに出かけ、この4月から芸大に復帰して卒業制作に挑むことは、自己表現の方向を探る上で絶好の機会に恵まれていると思うのです。ジョグジャカルタで個人的な制作として始めた大きな描写表現を、現地のアーティストたちによって、作品をオープンスペースに移されて、そこで公開制作となったようです。つまりコミュニケーションとしての創作行為を余儀なくされたことになります。その濃厚な日々の経験は、きっと彼女にとって自己の枠を壊し、さらに大きな表現を獲得する契機になるだろうと推察しています。今日は工房で制作をしながら、私にとって留学とは何だったのかを考えた一日になりました。私の場合は大学卒業後に5年間の留学期間がありました。日本の大学で人体の塑造をやっていた私は、ヨーロッパの美術学校で人体による具象表現に意義を感じなくなりました。私にとって彫刻による人体表現は、高校時代に受験勉強の一環で突如登場したものです。人体表現の構築性や肉付けは西洋を起源としています。ヨーロッパは都市環境も具象的な人体表現によく合っていて、それだからこそ彫刻による人体表現が自然に知識や実習として入ってくるのです。日本でそんな当たり前なことを考えたことはなく、大学の工房では人体表現の巧みさを競っていた時代でした。人体表現で言えば、自分を取り巻く環境や生育歴にはないもので、その不自然さに当時は嫌気がさしつつありました。日本人として何をすべきか、自分に相応しい立体表現は何なのか、憂鬱に押しつぶされそうになりながら、街を散策していたことを思い出します。自分の当時の年齢は24歳、インドネシア留学から帰国した彼女もあの時の自分と同じ年齢です。本当の自己表現へ向かう道はここから始まるのかもしれません。

週末 疲労か?寒さか?

やっと週末の土曜日になりました。このところ横浜も寒い日が続いています。相原工房は造園をやっていた亡父の残した植木畑に建っています。農業用倉庫として建てられているので、内壁はなく外と室内の温度差がありません。畑には霜柱が立っています。工房は言うなれば雨風を凌ぐだけの構造であるため、大型ストーブだけでは室内を暖めることは不可能ですが、無いよりもマシかもしれません。新作の制作工程をしっかり組んでいるため、どんな過酷な条件でも今日のノルマを果たさなければならず、なかなか厳しいなぁと思います。何回もNOTE(ブログ)に書いていますが、土曜日は身体が思うように動きません。原因として考えられるのはウィークディの疲労かなぁと思っていますが、あるいは寒さも影響しているかもしれません。今日は土錬機を使って40kgの陶土を練り、さらに手で菊練りをして小分けにしました。ビニール袋で密閉しておくのです。そのうちいくつかを使って、大きなタタラを6枚作りました。明日の成形の準備です。真夏なら汗が滴る作業ですが、今は汗さえ出てきません。手のひらがガサガサになり、作業後はクリームが欠かせません。朝9時から作業して、昼食でちょっと休み、夕方4時に作業を終えました。もう集中力が持ちません。乾燥している作品に仕上げを施そうとしたのですが、明日に持越しです。最近は日曜日なら多少無理がきいて頑張れるような気がしています。しかしこの寒さで、どこまで頑張れるのか、甚だ不安ですが、明日は朝から工房に篭ります。

真冬の通勤時に思うこと

このところ橫浜も寒くなっています。毎年この時季は起床がつらく、つい布団の中でこのままずっと眠れたらどんなに幸せだろうと思ってしまいます。春眠暁を覚えずといった諺が脳裏を掠めます。無情な目覚ましのあと、さらに5分寝ていたいと思うのは私だけではないはずです。私の起床は6時です。一般職員でいた頃は5時に起床して職場に一番乗りしていた時期もありましたが、今はそんな元気はありません。管理職になっても社長出勤というわけにもいかず、遅くても6時半には自宅を出ます。バス停留所まで歩いて数分ですが、冬ざれた景色でまだ夜も明けない中を歩くのは辛いものがあります。バスは数分遅れてやって来ますが、停留所で待つ時間に風でも吹いていたら最悪なコンディションです。ちらほらと通勤する人々が集まってきて、一列になってバスを待っている姿は真面目な日本人そのものかもしれません。大抵は同じメンバーでバスを待ちます。途中から乗車してくる人の中に美しい女性がいて、その人に会えるのが小さな楽しみになっています。工房に来る若いスタッフに似た容姿なのが、ちょっと気になったところで、ただしスタッフのようなアートの雰囲気はありません。私はバスから私鉄、さらにバスへ乗り換えて職場に着きますが、後半の駅から乗るバスには大勢の中高生が乗ってきます。職場の近くに私立大学の付属中学校・高等学校があるためで、後半のバスは賑やかです。今日のNOTE(ブログ)はつまらないことを書きましたが、定年退職となるとこんな通勤風景もなくなってしまうのだろうと思う次第です。

3500日のメモ

表題にした「3500日のメモ」とは何か、このNOTE(ブログ)の昨日までの投稿数です。2006年の3月16日(木)から始めたNOTE(ブログ)で、その日は「初めてのノートです。」という表題をつけました。その年の8月あたりから毎日書いてはアップして、現在まで継続しています。NOTE(ブログ)を書く習慣ができたのは、つまり8月からということになります。NOTE(ブログ)はほとんど就寝前の夜に書いてアップしています。時々早い時間帯に書いているときがありますが、ウィークディは勤務時間終了後です。全体を眺めていると、週末は工房での制作について書いている場合が多く、制作工程の進捗状況を記録しています。アーカイブを見て、現在の状況と比較することもやっています。勿論作品によって木材を使ったり使わなかったりしているので、一概に比較はできませんが、制作当時を思い出すことは容易です。NOTE(ブログ)と同じように毎日やっているRECORDのテーマをアップしていることがあります。RECORDの制作状況もNOTE(ブログ)で思い出すことがあり、まさにRECORDとNOTE(ブログ)は両輪のような発信手段になっています。美術館や映画館に行って鑑賞した作品の感想も書いています。場合によっては再度取り上げて視点を変えて述べることもあります。気になる芸術家を取り上げるケースや新聞記事から得た情報も取り上げています。書籍に関しては、読書によって得られた知識に限らず、文中の各章のまとめを行い、自分なりの要点を整理することをやっています。日常生活の中では、職場のことや家族のこと、飼い猫のこと等さまざまな話題を取り上げていますが、NOTE(ブログ)がホームページとして拡散していくことを考慮して、出せない個人情報もあります。その世界で名を成した人は実名で載せることがありますが、これから期待される友人知人に関しては、本人に断った上で掲載させていただいています。今後も出来る限り毎晩NOTE(ブログ)を書いていきたいと思っています。

「ヒステリー研究」について

現在読んでいる「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)の第一章「精神分析の誕生」の中で、大きく頁を割いているのが「ヒステリー研究」についての部分です。「ヒステリー研究」はフロイトとブロイヤーの共著で、多くの症例を取り上げています。まずブロイヤーの診断を本文から引用します。「(ブロイヤーは)ヒステリーの症状が生まれる原因を考察して、それを人格の分裂に求めた。~略~ブロイヤーはこう結論する。『周知の古典的な症例において、二重意識として注目されるあの意識の分裂が、すべてのヒステリーの根本的な原因となっている。この意識の分裂の傾向と、われわれが〈類催眠状態〉という名のもとに呼ぼうとしている異常な意識状態を出現させる傾向こそが、神経症の根本現象なのである。』」これに対してフロイトが異議を述べています。「(フロイトは)ヒステリーの素因を、心が複数の人格に分裂していることに求めるべきではないということである。~略~神経症の直接の原因が心的な外傷であることを認めながらも、それがたんに『病的な』ものと考えるのではなく、『性的な』性格のものと考えるべきだということである。」さらにフロイトが追加したことを引用します。「(フロイトは)心の内部に、意識的な領域とは別に独立した無意識の領域が形成されると考えた。いわば心の中に腫瘍のような異物が形成されていると考えたのである」分裂ではないと異議を唱えたフロイトが「手当て」という治療方法を実践しています。「フロイトは、患者の心的な抵抗をみいだしたのである。『患者のうちに、病因となる表象を意識化させること(回想すること)に抵抗する心的な力があるのであり、私は心的な作業によってその心的な力を克服せねばならない』と考えるようになったのである。こうしてフロイトは、ヒステリーを発生させているのは、ブロイヤーの考えたように、意識の分裂ではなく、患者のうちにある『抵抗』する力であり、そして観念を想起することにたいする『防衛』であると考えるようになったわけである。~略~フロイトがそのためにとくに利用したのが、患者の額に手をあてて、自由に連想させることだった。」自由連想法による治療がこうして始まったのでした。本書はその症例をいろいろ掲載していますが、次の機会に第二章のまとめを行います。

精神分析の誕生

現在読んでいる「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)の第一章「精神分析の誕生」のまとめをします。今でこそ精神分析は一般的に使われるコトバになっていますが、フロイトが生きた時代では如何ばかりだったか想像を巡らせています。職場によってはメンタルな問題を抱える職員がいて、カウンセリングを心理療法士より受けていたりして、精神分析学が医療として認知されている現状があります。研究の余地はまだありそうですが、心の病は現代人にとって増加の一途を辿っていると言っても過言ではありません。本書から、まず精神分析という概念がいつ頃使われたのか、その箇所を引用いたします。「フロイトの精神分析という概念は、ロマン主義的な魂の心理学の系譜につながるものである。フロイトが『精神分析』という語を初めて使ったのは、『神経症の遺伝と病因』というフランス語の論文で、1896年3月に発表されている。~略~この精神分析という語は、人間の心の疾患を科学的な方法で、とくに薬物や手術などの外科的な方法で身体に働きかけるという方法で、治療しようとする科学的な心理学の方法とは異なり、人間に精神を司る魂を分析することで治療しようとする試みを示すものだった。これは魂『プシュケー』を分析することで、心の病を治療できると考える方法だったわけである。」フロイトはフランスでシャルコーやベルネームに師事し、催眠術によって治療する方法を学んでいましたが、ウィーンに戻ってから新たな方法で治療を始めることになります。その箇所を引用します。「フロイトがフランスで学んだ催眠術による治療方法を放棄することによって、真の意味での精神分析が誕生するのである。」さらに発展していく精神分析に関しては次の機会に改めます。

積雪の朝 工房に立ち寄る

今日は今季初めての雪が降りました。積雪の多い北国からすれば、別にたいしたことのない状況だと思いますが、首都圏は交通の乱れがあって大変な事態になっていました。私も通常通り自宅を出ましたが、ここは橫浜と言えど雑木林や丘が多いところなので、積雪で道が覆われていました。出勤前に植木畑にある工房に立ち寄ろうと考えていて、雪を踏みしめ、足跡を残しながら工房へ向かいました。工房では昨日窯入れをしていて、窯内の温度を毎朝確認しています。電力の関係で窯が作動している時は、全ての電源を落としてあります。早朝の工房は真っ暗で、その中で窯の温度表示だけがキラリと光っているのです。確認出来るとちょっと嬉しくなり、出勤に弾みがつきます。焼きものをやっている人間の性で、窯が頑張っていると自分も頑張らねばと思うのです。積雪の影響で案の定バスや電車の遅れがあって、職場に着いたのは勤務時間を少しばかり過ぎていました。余裕を見て自宅を出たのに、こればかりは何ともなりません。それより明日の朝、道が凍結しているのではないか心配でなりません。何年か前に坂道で滑って背中を強打した辛い経験があるのです。明日は遠回りをして階段のある道を選んで行こうと思っています。

週末 日曜日は+α

2日間の週末のうち土曜日はウィークディの疲労が残って、なかなか思い通りに作業が進まない現状があります。このところ計画の変更を余儀なくさせられていますが、その分日曜日は良く身体が動いて作業が進みます。土曜日の遅れを取り戻すことも可能です。日曜日は+α(プラス アルファ)というわけです。新作の締め切りがまだ切羽詰ったところまでいっていないので、今月の週末の2日間はこれで可としていますが、来月くらいから制作工程は次第に厳しくなってきます。二束の草鞋生活を30年近く送っていることと、一年1回の個展が10年も続いているので、制作工程が厳しさを増すのがいつごろか概ね見当がついています。+αとか言って自分で帳尻を合わせている場合ではなくなるのです。週末の2日間とも+αでやらないと間に合わなくなります。最近明らかになってきたことは集中力の持続時間が短くなってきたことです。ちょっと前までは余力を残して夕方の作業を切り上げていましたが、今は夕方まで作業をするのが精一杯です。土曜日は夕方まで作業できません。午前中は相変わらず頑張っていますが、終了時間が危うい状況になっています。加齢のせいとは思いたくありませんが、二束の草鞋生活にも限界があるなぁと思うようになりました。年齢的に遅い就職で漸く公務員になれた者が、定年前には責任ある管理職になり、自由気儘に彫刻を作っていた者が、東京銀座で毎年企画展をやっている彫刻家になった現在の環境を、自分は予想していなかったというのが正直なところです。それでも人生の目標は未だ到達できていないのですが、願いは叶うということを実感している今こそ双方の仕事に邁進していきたいと感じているのです。身体に鞭打つタイミングを計りながら、創作のさらなる上のステージにいきたいと思っているところです。

週末 土曜日は緩やかに…

今週は出張の多い1週間でした。やはり土曜日はウィークディの疲れが出ているようで、身体が思うように動きません。朝から工房に篭りましたが、緩やかな制作になっています。今日はここまでやろうとした計画を見直しながら、明日に期待をかけています。集中力も今ひとつで、陶彫成形をやりながら、いろいろなことが頭に浮かびます。陶彫部品を組み合わせる集合彫刻は、同じ単体はありません。カタチを僅かに変えることで複雑な表層を求めていますが、焼成を同じ時間と温度にして全体が統一できるようにしてあります。つまり、制作工程にはシステマティックにするところと創作を加えるところがあって、作業の退屈さを避けられるようにしてあるのです。多少集中力を欠いても制作を進められる職人的な工程があるおかげで、最近疲労が気になる土曜日には創作への圧迫感のない作業をしているという現状があります。制作中に脳裏を掠めるのは、今日のような疲れが出ている時、大抵過去への振り返りが多いと感じています。過去から現在に至るまで彫刻を作り続けていくことに、たとえ過去を振り返っても不満はありません。ただし、彫刻家としての在り方に自分なりの理想があって、現行の制作は理想とは程遠いものなのです。自分にはやり残していることが多いと感じていて、たとえば学生時代の4年間に何故いろいろな表現や技法に手を出そうとしなかったのか、無駄にした時間が多すぎたのではないか、現在は公務員との二束の草鞋生活の中で、懸命に個展の準備に取り掛かっているのに、過去の自分の怠慢を嘆いているわけです。過去多くの時間を無駄に過ごしたおかげで、現在の表現があるとも考えていますが、制作の休憩時間にふと眠ってしまうと、その隙間に現れる夢遊感覚の中では覚醒時の理屈は通りません。フロイトの「夢解釈」で言われていることは本当だと妙に納得してしまう自分がいます。工房に出入りしている若いアーティストたちは制作を重ね、発表の機会も多く、物思いに耽ったり、立ち止まることをしません。羨ましい限りですが、息切れしないよう祈るばかりです。そんなことを思いつつ、土曜日の緩やかな制作工程が過ぎていきました。明日は頑張ります。

映画「消えた声が、その名を呼ぶ」について

橫浜のミニシアターにはレイトショーがあって、勤務時間終了後に間に合う時間設定がされています。ウィークディでも仕事が終わってから、映画を観て非日常空間に浸ることが出来るのです。先日夜にシネマジャック&ベティに表題の映画を観に行きました。家内が同伴してくれて、上映後に感想を話し合いました。内容からして社会問題を満載した背景が伺えますが、家内は国を跨ぐロケーションの美しさに興味を示していました。映画は時を遡ること100年前のオスマン・トルコ内で起きたアルメニア人の集団虐殺(ジェノサイト)に物語の端を発し、引き裂かれてしまった家族を描いています。主人公は奇跡的に生き延びることが出来ますが、喉を切られ声を失います。隣にいた兄は殺されてしまいました。彼は灼熱の砂漠を彷徨い、再び戻った故郷は無残な収容所になっていて、義姉の変わり果てた姿と妻が亡くなった事実に絶望します。やがて戦争が終わり、石鹸工場に身を潜めていた主人公は、そこで双子の娘がまだ生きている知らせを受けて、愛娘を捜す旅に出るのです。遊牧民、売春宿、孤児院を隈なく捜しながら、国を渡り、娘達の足跡を追っていきます。船でキューバに渡り、さらにアメリカへ。主人公を突き動かしていたのは親子愛そのものです。その思いが報われるのかどうか、映画は終盤を迎えます。これはアルメニア人の悲劇的な宿命を描いた映画ですが、監督はアルメニアと現在も国際論争になっているトルコの出身で、タブーとされた事件を扱っているのです。現在のトルコが歴史の事実を直視するようになったことと、監督の言葉にある「私がテーマを選んだのではなく、テーマが私を選んだ」ことが、撮影に7年間もかけた本作の制作動機になったことと思われます。私は30年前に家内とトルコ国内を2ヶ月かけて旅したことがあって、ロケーションが実際の空気感をともなって自分に迫ってくる感覚を持ちました。遠い世界の話ではないと自分は実感し、隣国との関係が困難になっている状況は、日本に限らずどこでも同じと思いました。

空間に置かれた唯一無二

展覧会に行くと広い空間の中にたったひとつだけ彫刻が置かれていて、何と贅沢な展覧会だろうと思うことがあります。昨年末に出かけた「フリオ・ゴンザレス展」でも最初の空間に置かれた「ダフネ」は広い空間を独り占めしていた印象がありました。後で確認すると横に小品が置かれていたようですが、自分には「ダフネ」が広い空間の中で唯一無二の存在のように思えました。茶の湯の伝統のように、日本には余分な要素を切り捨て、簡潔の美を愛でる意識があります。そうした空間に置かれた唯一無二な芸術品は、その物質だけを鑑賞するのではなく、周囲の空気を取り込んだ場を鑑賞するものだと思っています。何かが置かれることによって、その空間が変容すると言えばいいのでしょうか。最小の物質で最大の空間を演出するというのが、自分が理想とする彫刻の在り方と考えていて、作品がどこに、どのように設置されるかが大きなポイントです。私が東京銀座のギャラリーせいほうで10年間も個展をさせていただいている理由は、ギャラリーの白い壁と広い空間にあります。銀座にあってこれだけ大きな空間を有している画廊は他に類を見ません。彫刻作品が纏う空気感がどのくらいの空間を求めているのか、作品の表現力によって違ってきます。自分は自作を大きな空間に唯一無二の存在として置いてみたい、そんなスケールを考えながら制作に励んでいるところです。

「フロイト入門」読み始める

現在読んでいる「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)を中断して、解説書を読むことにしました。かつてハイデガーやニーチェの哲学書を読んでいた時も、途中で解説書に手を出して内容を整理しました。今回読み始めた書籍は、「夢解釈」の解説書とはちょっとニュアンスが違います。「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)は「夢解釈」だけでなく、フロイトが発明した精神分析という分野やそれを取り巻くさまざまな心理学的理論を網羅していて、フロイトの歴史に残る業績全体を解説しているのです。書店の棚から本書を取り出して最初の頁を捲った時、ぐいと引き寄せられた文面が頭に残って、暫く書店をウロウロした後、また棚から取り出して即刻購入と相成ったのでした。自分が引き寄せられた文面は、人類史にあってそれまでの定説をひっくり返す革命が3つあったことを述べた箇所です。「第一の革命は天文学の分野で、コペルニクスの地動説によって引き起こされた。」人間が住む世界を中心に天体が回っているとそれまで信じられていたものが、実は地球は巨大な宇宙系の小さな一部に過ぎないという説です。「第二の革命は、生物学の分野で、ダーウィンの進化論によって引き起こされた。」人間は神によって神の姿を象って作られたと信じられていたものが、実は人間は猿から進化した動物の一種に過ぎないという説です。人間は何と高慢で自惚れの強い生き物だろうと感じてしまいます。「第三の革命が、フロイトの精神分析によるものだった。」これは理性の信頼を根底から覆すもので、これが近代の啓蒙の精神やそれを裏付けた哲学さえも揺るがせ、人間の心の病の治癒に進んでいくフロイトの理論に、今後の展開を期待させるものがあります。「フロイト入門」の導入部は、自分のような読者にはうってつけのもので、忽ちフロイトの世界観に興味関心を覚えてしまいました。「夢解釈」を通して知りえたフロイトを、その人間性や業績に迫る本書を手がかりに、もっと深く洞察できたらいいなぁと思っています。通勤の友としては、本書は「夢解釈」ほど気難しくなさそうなので、肩の力を抜いて読んでいこうと思います。

「夢の仕事」(f)まとめ

「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)第六章「夢の仕事」の(f)「不条理な夢、夢における知的な働き」のまとめを行います。「夢解釈」のような大著はなかなか頁を捲ることができず、一度離れると気持を戻すのが大変です。今まで読んでいる内容がどんなものだったか、思い出すだけでも労力を使います。年末年始は読書に向くことができず、仕事が始まって通勤時間が確保されてから、漸く頁を捲った次第です。気持が乗れば職場の休憩時間に読むこともできますが、「夢解釈」はそんな気構えでは内容が頭に入ってきません。遅ればせながら「夢解釈」の再挑戦を始めることにしました。不条理な夢という副題は、改めて言うまでもなく、今まで考察してきた夢は全て不条理と考えられ、夢内容においては頻繁に出会ってきたように思います。文面の冒頭にありますが、不条理がどこに由来し、何を意味するのかの探求を先延ばしにできないと書かれていました。ここでも今までの例に漏れず、多くの事例が列挙されており、論点を浮き彫りにしています。その中から、夢が不条理なものにされる契機が表れた部分を引用します。「夢が不条理なものにされるのは、夢の想念の内容に含まれるある一要素として『それは馬鹿げている』という判断が現れるとき、つまり、夢見る者の無意識的なある一本の想念の筋道が総じて批判や嘲りという動機から生じるときである。したがって、不条理は夢の仕事が異議を描出するための一手段となる。それは、夢の想念と夢内容とのあいだにおける素材の関係の逆転や、運動機能の抑止感の利用がそのための手段となるのと同じことだ。しかし、夢の不条理は単なる『否』と訳すべきではない。それは異議を唱えるとともに、また嘲弄し、嘲笑するという夢の想念の気分再現する。こうした意図によってのみ、夢の仕事は馬鹿げた事柄をもたらす。夢の仕事はここでもまた潜在的内容の一部を顕在的形式に変えるのである。」さらに健康的な人の見る夢にも言及した箇所を引用します。「夢の想念はー少なくとも精神的に健康な人間の夢について言えばーけっして不条理ではないという方向で、夢の不条理という問題を解決した。つまり、夢の仕事が、その表現形式を通じて夢の想念における批判、嘲り、嘲弄を描き出す場合、それは不条理な夢や、いくつかの不条理な要素をともなう夢を作り出すのである。」

三連休 窯入れの日

陶芸にしても陶彫にしても「陶」の醍醐味は最後の制作工程である焼成にあります。所謂窯入れです。私の工房は電力の関係で、窯にスイッチを入れると他の電気は使えなくなります。そこで三連休の最後は窯入れをしようと思っていました。ここから3日間は工房での制作はしないと決めて、夕方になって窯のスイッチを入れました。工房の窯は電気窯です。私がウィークディは公務員をやっている関係で、ずっと窯の傍にいられないことを考え、世話のかからない電気窯を選びました。「陶」の醍醐味は焼成にあると前述しましたが、パターン化された時間と温度で焼成している私は、その醍醐味を味わっていません。私は陶芸ではなく彫刻を作っているので、焼成に面白みを求めず、コントロールされた焼成で可としています。おまけに集合彫刻なので、尚更ひとつひとつの部品が個性的であっては困るのです。私の焼成に窯変はなく、釉薬も使わないので土と釉が織り成す景色はありません。それでも焼成された作品は、高音によって土が石化して鎧を纏った力強さが出てきます。醍醐味といえば、私の場合は最低の基準になりますが、以前はさまざまな実験を試みていた時期もありました。陶土にしても、単身ではなく割合を決めて混ぜ合わせると色味や強度が変わってきます。そこに釉薬をかけるとさらに変化が見られて、多くのテストピースが出来上がってきました。技術的には難しい貫入や油滴天目に憧れを持った時期もありました。しかしながら最初の志に従って、彫刻の一素材として「陶」を扱っていく方法に立ち戻って、焼成は基本的なものにしています。それでも無理な形態を作っているので、皹が入ることは暫しあるのです。私にとって陶彫とは何か、その答えはまだ見つかっていません。作品を作り続けることで、何かが見えてくるのではないかと期待しているところです。

三連休 集合彫刻の統括

三連休の中日です。今日も朝から夕方まで制作三昧でした。擂り鉢状の新作は陶彫部品を組み合わせた集合彫刻です。集合彫刻は私が20年以上も関わってきた表現方法で、部品をひとつずつ作って、それらを統括してひとつのカタチにしていきます。作品はひとつの形態になる場合と、壁や床に部品を広げ、その場を創出する場合があります。立体表現は周囲の空間を取り入れるため、部品を接合したり、拡散したりして、コンセプトに有効な手段を使うのです。集合彫刻のそれぞれの部品は単一ではありません。同じ部品にしてしまうと、作品そのものは簡潔になりますが、複雑なカタチの絡み合いがなくなって退屈になると考えます。作っている自分もそこまで禁欲的な造形ができないのです。全体として統括されているように見えても、近づくとさまざまなカタチが混乱していて混沌とした状況が見て取れる作品にしたいと思っています。部品を作っている時は全体を考えないで作っている時があります。現在はその段階です。今は小さなカタチの面白さに囚われていて、ある意味では健康的な創作活動です。全体を見通す段階になると神経を病んでくる時があります。ウィークディに私が勤めている職場に似ていて、部分に関わっていると仕事が多くても健康でいられます。管理職になり、常に全体を俯瞰していると神経を使います。全体を見て、進む方向が間違っていなければ、それで良しとしなければ、作品と同じで神経を病むかもしれません。人間関係で成り立つ職場はざっくりとした感覚で良いと思っています。判断さえ間違えなければ大丈夫と思うようにしています。ただし、創作活動はざっくりでは済まないところがあって、厳しい精神状態になることもあります。相談ができず、自問自答ばかりしているところが辛いところです。

三連休 陶彫に明け暮れる

三連休の初日です。この貴重な三連休をどう過ごすのか、考えているのは陶彫のことしかありません。陶彫成形をいくつ作れるのか、制作サイクルが出来つつあるので、それに従って作っていきたいと思います。今日は昨晩作った成形に彫り込み加飾を施しました。その後、タタラを3枚を作り、明日の成形に備えました。明日は成形1点の後で、40kgの土練りを行う予定です。今日は制作と併行して行ったことがありました。昨年末ロフトに作品を運搬しましたが、さらに小さな荷物をロフトに持っていきました。少しでも作業場所の確保が必要だったので、作業場所を片付けながら、作品保管の整理を行っていきたいと思います。整理は退屈な仕事なので、創作活動と併行して行うのが得策です。彫り込み加飾を施した作品を乾かしている時に、軽量な作品を少しでもロフトに運ぼうと思っています。目に見える空間が広くなるのは、制作をする上で重要なポイントです。彫刻は制作する周囲の空間も含めて、構成やら量感を考えていくので、作っている場所によって作品全体を左右することもあるのです。明日も時間を見つけてはロフトに作品を運ぼうと思います。

ウィークディ夜の工房

2016年になって初めての夜間制作が始まりました。暖冬とはいえ、夜になるとまだまだ冷え込む季節ですが、懐中電灯を照らして工房へ行く生活が戻ってきました。二束の草鞋生活だなぁと実感するひと時です。夜間制作は定期的にやってはいません。夜はRECORD制作があるし、NOTE(ブログ)の書き込みもあります。昼間の仕事は決して楽ではなく、職場全体に亘って責任が伴うので、神経を使うことが暫しあります。そんな中での夜間制作は、必要に迫られなければやれないというのが本音です。昨年は円筒形の陶彫小品40個を夜間に作りました。今年はどんな夜間制作になるのか、これから考えていきたいと思っています。今晩は大きめの陶彫成形を行いましたが、途中まで作ってあったものを、乾燥が進まないうちに仕上げておきたかったのでした。集合彫刻として陶彫部品を作っていくのは、制作段階があって一気呵成にはできません。その一段階を夜間制作で補うのもいいかもしれません。夜の工房は独特な雰囲気に包まれています。蛍光灯で照らし出された土塊を生き物のように感じる時があります。集中力が増す夜もあります。週末の昼間とはまるで違う世界です。ただし、自分は翌日のことを考えて早めに切り上げてしまうのです。昼間の仕事に影響しないように夜間制作を行うのもテクニックのひとつです。少しずつ確実に制作工程を進めていくことが大きな成果を生む手段なのです。昨晩は息切れするほど必死にやれたけど、今晩は疲れて何もやれないというのでは、陶彫による集合彫刻は完成できません。気分のムラを作らないように、せいぜい1時間か2時間程度がちょうど良いと思っています。しかも不定期でも仕方ない、安定した意志があれば再開できると信じています。ともかく昼間の仕事とのバランスをとりながら夜間制作を進めていこうと思います。

1月RECORDは「うまれる」

2016年のRECORDのテーマを「うまれる」にしました。年の初めということがあり、ここから造形を始めていく気構えとして、誕生というニュアンスが相応しいと思ったのが、テーマ設定の理由です。RECORDは昨日のNOTE(ブログ)にも書きましたが、2007年から作り続けていて、今年は10年目に入ろうとしています。日々作っている中には、余裕がある日や厳しい日もあって、どうしても一定した意思では取り組めない状況があります。さらに新しい表現を獲得したい意向があっても、なかなか出来ず、結局従来の方法で作ってしまいます。集中力をもって緊張感のある作品ができることがあれば、緩慢に流れてしまう作品もあります。そんな中で自分の癖や殻もできているなぁと感じることもあります。下書きの段階で、描いては消し、消しては描く行為を繰り返すと、似た構成やモティーフになる傾向があります。自分の中で無意識の取捨選択があってRECORD全体の構成やモティーフを仕上げていくので、自ら手枷足枷という縛りをつけなくても、同じような作品が出来上がってしまうのです。ここをどうしていくのか、表現の幅を広げたとしても、それは多少の変化であって、私という個人から離れることはないのかもしれません。いずれにせよ、これからもRECORDを継続していく意思は変わるものではありません。