精神分析における「遮蔽想起」

現在読んでいる「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)の第二章「忘却と失錯行為」の中の「遮蔽想起」という箇所が気になっているところです。まだ第二章のまとめにはなりませんが、「遮蔽想起」の引用と感想を述べてみたいと思います。神経症治療において、幼児期の記憶が何らかのカタチで残り、心的な外傷を与えているというフロイトの理論では、それを「遮蔽想起」と呼んでいます。文中から引用します。「遮蔽想起は二つの重要な役割を果たしてる。一つは、遮蔽想起が『遮蔽する』役割である。別の出来事や幻想を『覆い隠す』役割を果たしているのである。もう一つは、遮蔽想起が『想起する』役割である。その背後に何らかの重要な記憶が存在していなければ、想起することもないのである。~略~フロイトは遮蔽想起の形成プロセスを時間的なずれによって二つに分類している。逆行性の遮蔽想起と先行性の遮蔽想起である。」まず、逆行性とは「思春期の出来事が発生した後に、それが幼年期の出来事として遡って記憶されている」ことであって、その反対である「幼年期にある重要な出来事が発生して、それが思春期の記憶として残っている」のが先行性ということになるようです。時間的に差のある2つの記憶が重なり、遮蔽想起が起こるというのに私は興味関心を持ちました。私は神経症に悩んだことはありませんが、別々の記憶の中から共通する強烈なカタチが立ち現れることがあるのです。記憶の加工があると以前から思っていましたが、それを正確に思い出すのは困難です。無意識に何かを記憶に留め、後は全て忘却していることがあるのかもしれません。遮蔽想起とは話が逸れますが、精神分析の治療を一度も受けたことがない者でも、自分を保つための防衛や忘却があっても不思議ではないと本書を読んで思うようになりました。自分が意識できうる顕在的な世界では、自分の身の置き場や社会性を意識して、自分はこうあるべき姿を常に考えて行動しています。過去の記憶の遮蔽等が少なければストレスも少なく、その分自分が正常だと自分に言い聞かせて生きているように思えます。それなら潜在的な世界はどうでしょうか。自分で己の無意識を推し量ることが出来ないので、無意識は常に自分にとって謎です。遮蔽想起はそうした無意識の中で登場してくるものとフロイトは説いています。これは面白い分野ですが、精神分析学の虜になったらヤバい気もしています。

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