週末の限りある時間

週末になると心が解放されて制作に没頭できる反面、時間を自分の中で封じ込めているようだといつぞやのブログに書きました。作品を制作している時の時間の経つのが早く感じられるのは集中している証でしょうか。我を忘れて木を彫りながら、杉材の節のところでは木槌に力が入り、柾目を見定めながら鑿を振るって、凝縮した時間を過ごしています。この仕事の蓄積があって完成に近づくと願っています。身体で感じる素材の実感がいいと思うのは製作工程からすれば昔ながらの方法だと思います。しかも限りある時間で何とかしなければと思いつつの実感です。昔の人が時間の観念を作り上げたおかげで、様々なことが一定のリズムで滞りなく行われてきましたが、心の解放とは裏腹に常に落ち着きなく時間に追われて制作している自分は一体どうしたものか、わからなくなることもあります。そういえば人生にも限りがありました。時間に追われるというのは、人生で何かを成すためには必ずや体感するものかもしれません。                     Yutaka Aihara.com

穴より現れ出るカタチ

会議中に不覚にも眠ってしまい、はっと我に返るとまだ時間は自分が感じているほど経っておらず、会議の話も辻褄が合っていることにホッとしました。以前にも会議中に寝てしまい、頭の中に壁が続いている情景が巡ってきたことがありました。これは作品になると思って描きとめました。今回は大地に同じくらいの大きさの穴が続いている情景が巡ってきました。穴は規則的のような、そうでもないような具合です。その穴からところどころ何かが聳えていて、これは何だろうと自分でもよくわからないイメージです。イメージはいつかどこかで脳裏に蓄えられた色彩や形態が現れるものだと思います。穴は染物工場の甕のような按配です。これも何かの折に描きとめておこうと思っています。                         Yutaka Aihara.com

ボツワナ伝統音楽と舞踏

今月は横浜で「アフリカ開発会議」が予定されている関係で、アフリカの様々な国のイベントや支援が、横浜市営地下鉄の駅などを中心に展開されています。職場でも「ボツワナ伝統音楽と舞踏」と称してダンスチームを招いてイベントを行いました。12名のダンサーは動物の毛皮で作ったコスチュームをつけ、手拍子、足踏み、歌で床に地響きが起こるような勢いで伝統舞踏を披露してくました。迫力満点の身体の動き、リズムは血沸き肉踊るといったらいいのか、凄いパワーで周囲の人々を興奮の坩堝に招きいれてしまいました。アフリカの仮面や彫刻に少なからず影響を受けている自分は、彼らの彫刻的な体格に造形的な美を見ていました。アフリカの人々は自分の姿に似た彫刻を作っているんだと改めて思った次第です。          Yutaka Aihara.com

自然災害に思うこと

中国であった大きな地震が連日報道されています。我が国でも阪神淡路大震災や新潟での大震災がありました。阪神の時は、京都の友達に会いに行った際に、神戸まで足を伸ばして惨状を見てきました。だいぶ復興が進んでいましたが、まだ電柱が倒れていたり学校に避難している人を見て、自分にいったい何ができるかを自問自答したことを思い出します。しばらくして淡路島に行った時に活断層が地面に現れた状態があって、見学できるようになっていたので見てきました。地球は生きていると実感して、その表面に巣作りをしている人間が小さく感じられました。自然の前で人間は無力です。たまたま地球の息づかいが荒くなった時に遭遇して、命を落としてしまった人々のご冥福を祈りたいと思います。中国で起こったことが対岸の火事とは到底思えない我が国に生きるものとして、何ができるのかもう一度自問自答したいと思います。                            Yutaka Aihara.com

等閑にしている読書

公務と創作活動を繰り返している日常の中で、ひとつだけ等閑にしているのが読書です。本を読む時間がなかなかとれず、読みたい本が山積みにしてあります。何回かブログにも書いていますが、ゆっくり本が読める時間が欲しいこの頃です。今読み始めているのはピーター・ブリューゲルに関する創作としての伝記物語。かなり面白くて本をめくるとあっという間にブリューゲルの生きた時代にタイムトリップしてしまいます。稀有な絵画的な才能に恵まれた農家の若者が様々な時代状況の中で、運命的なものに翻弄されながら生きていく姿に惹きつけられています。ブリューゲル絵画を論じた評論もいいのですが、こうした物語をブリューゲルの描いた絵を念頭に入れつつ読み進んでいくのもいいものです。読書がしたい、続きを読みたいと願いつつ、日々の仕事に没頭してしまう自分がいます。              Yutaka Aihara.com

ブレーキトラブル

昨年の7月3日のブログに「エンジントラブル」という文章があります。今度はブレーキトラブルです。ブレーキを踏むとゴオーという違和感のある音がするのでデイーラーに持っていきました。通勤に使っている車なので、またかという思いで修理に出しました。自分の車はアメリカ製です。外車は何かとトラブルが多いと聞きましたが、なるほどと思わざるを得ません。お洒落で、彫刻用素材も小さいものであれば積めるという魅力があって、この車にしましたが、次の車は国産にしようかと思案しています。自分はメカに強いわけではなく車のカタチにこだわってきました。ユニークなデザインが好きなのです。実用を兼ねた楽しいカタチをした車がないかと探していたら、この車に辿り着いたという具合です。車は実用もさることながら楽しむモノと思っていたのですが、ちょっと毎年のトラブル続きには辟易しています。 Yutaka Aihara.com

作品完成に関わること

昨日のブログの続きです。自分の作品はあくまでも完成させたいと願って作り続けます。出来うる限りのことを尽くして作り終えたと信じ、その時は完成という判断をします。後日これは完成に及ばずという結果があったとしても、その時は精一杯です。しかし先人の作品には未完成ながら創造的な思考が発見されたり、また新しい試行があったりして鑑賞に耐えるものも多く存在します。作品は完成させる必要があるのか、いつも自問自答しています。製作途中で不測の事態が生じ、完成できなかったとなれば未完成でも仕方がないと思いますが、作品を途中で放棄することはできません。自分はひとつ決着しないと次に進めない性分なので、次から次へと素材に手をつけることは今はできません。今はできなくてもいずれ複数の思考回路が動いて、車輪のように制作が回転することがあるかもしれないと内心では願っています。そうなれば完成にこだわらずにいられるのではないかと思います。生真面目にひとつひとつ作品を仕上げていく日常に嫌気がさすことがあるのも事実です。Yutaka Aihara.com

作品が完成する時

木を彫る行為の蓄積で作品が必ず完成に近づくと信じて、今日も鑿を振るっています。私の作品は初めにイメージがあって、それが完成された状態を示しているので、そのイメージに近づくために、各パーツに分けて日々の作業ノルマを課しているのです。作業工程の中でどんな状態になった時に完成という判断をするのか、そこがなかなか難しいところです。パーツを作りなおすこともあります。大きな構成からやり直すこともあります。初めのイメージを確認しながら、大鉈を振るう時はかなり勇気の要ることもあります。詰めの作業は自分との格闘になり、時間が許せばいつまでも果てしなく続くのかもしれません。展覧会搬入という外的要因で、ここまでというラインを引き、一応完成という判断を下すというのが、作品完成に関わる偽りの無いところです。でも本当の意味で作品は完成しているのか、つまり自分で納得ができているのか疑問に思う時がしばしばあります。そう考えると永久に完成はやってこないのかもしれません。過去の作品もすべて完成していると自己暗示にかけて、無理に断ち切っているとも言えます。          Yutaka Aihara.com

睡魔に襲われて…

公務と創作の二束の草鞋がオーバーワークになっているようで、いつでもどこでもちょい睡眠が出来るようになりました。公務員をしながら彫刻を作り始めた頃は、発想の転換や気分一新をいかにうまく行うかを自分の課題にしていたのですが、最近はそれも容易になり、むしろボーとしたり、眠ったりすることが短時間でできることを目指すようになりました。睡魔に襲われ眠り続けたい気持ちを揺り動かし、奮い立たせることが今は大変です。身体がぐったり疲れている時はヤル気も落ち込んでしまいます。最近はちょい睡眠をすると不思議に身体もヤル気も回復し、仕事を続けることができるようになりました。睡魔に襲われる時は、とても気持ちがよく、このまま果てしなく眠れたらとアブナイことを思うこともありますが、ずっと寝ていられない性分なので、また活動を始めてしまいます。明日は週末。また制作が待っています。                              Yutaka Aihara.com

RECORDは「正六角形」

5月のRECORDは「正六角形」をテーマに毎日ポストカード大の作品を作り続けています。六角形は今まで扱ってきた図形に比べると、おだやかなカタチをしています。正三角形や正方形のようなシャープな主張はありません。円のような究極さも持ち合わせていません。視覚的には画面に馴染み、幾何抽象の様々なカタチを組み合わせると埋没してしまう傾向さえあると思います。大小の矩形の中に六角形が隠させているという画面を作るのも面白いと考えました。おだやかな図形ゆえ、ほのぼのとした心象も表現できそうです。まだまだ可能性がありそうな図形です。この1ヶ月は正六角形にこだわって制作をしていきます。                     Yutaka Aihara.com

横浜の「木下孝則展」

地元の横浜美術館で開催されている、やはり地元の洋画家「木下孝則展」を見てきました。生前はよく知られた画家だったようですが、私には初めて聞く名前と画業で、鶴見にこういう方が住んでいられたのかと改めて知ったところです。いわゆる正統的な、と言ったらいいのか、ともかくアカデミックな作風で、自分が中高生でこれから美術の世界に入ろうとするなら感銘を受けたと思われます。自分にもそうした時代がありました。上野の美術館で印象派の絵画に憧れたことがあります。少ない筆遣いで、どうしてこんなに空気を感じさせることができるのか、「木下孝則展」にも同じような雰囲気を感じていました。絵画が絵画としての価値を持っていた頃の清楚にして気品に溢れた作品が印象的でした。                    Yutaka Aihara.com

美術家たちの「南洋群島」展

東京の町田市にある国際版画美術館で表記の展覧会をやっていたので見に出かけました。「南洋群島」という聞き慣れない名称は、赤道付近の島々のことで、第一次大戦後にドイツ領だった群島を日本が統治することになり、当時の美術家も彼の地に出かけ、作品を残したことが本展の展示内容になっています。ちょうどゴーギャンが行ったタヒチを連想させ、いずれの邦人美術家も島の風物を描いていました。土方久功、杉浦佐助、儀間比呂志の師弟3人が展示の中心となっていましたが、師弟といっても作風の影響は無く、3人3様の表現方法があって、当時の日本美術界の窮屈さからは程遠い自由な雰囲気を感じました。ただ、時代の影響があると思われ、先達のゴーギャンに比べると、日本が大正から昭和初期にかけて戦争の狭間に置かれた状況のせいか作品が多少暗く感じられました。展覧会に行く前は、明るい素朴さに溢れている作品をイメージしていたので、時代の風潮を纏った作品の数々に、邦人ならではの生真面目さを感じてしまいました。         Yutaka Aihara.com

「RECORD」6月・7月アップ

昨年の「RECORD」を少しずつホームページにアップしています。6月は画面に初めて木材を取り入れました。凹凸を構成要素にしています。レリーフの考え方とは異なり、画面から立体が立ち上がる設定にしました。レリーフはあくまでも絵画としての領域であり、絵画表現の空間や立体感を補助または発展させるものとして考えるのが妥当と思われます。薄くても平たくても立体認識があるものはレリーフではないと考えます。6月分のいくつかの作品は立体として作ったものです。7月分も思考的には継続した作品で、銅箔や銀箔も使用しています。ペンで描いた絵画的要素のある作品に部分的に立体的要素を取り入れたものもあります。試行錯誤があって、うまくいっているものや無理が生じているものもあって、この時期はかなり苦労していたように思います。なお、ホームページには最後にあるアドレスをクリックしていただけると入ることができます。                Yutaka Aihara.com

笠間の「荒川豊蔵展」

笠間の陶炎祭の出かけると必ず茨城県陶芸美術館に立ち寄ります。陶炎祭が行われている芸術の森公園にこの美術館があるためです。今回の「荒川豊蔵展」は人間国宝として永年陶芸の本流に身をおいた巨匠の作品を余すところなく伝えている内容でした。久しぶりに凛とした茶陶をじっくり観ることが出来ました。桃山時代の志野焼を復興した数々の名品は、これぞ茶陶と言える静謐で優美な雰囲気を湛え、しかも張り詰めた造形があって見事でした。茶陶は手びねりという最も単純な技法で作られ、それでも奥深く、この世界を極めようとすれば一生かかっても時間が足りないと思えるくらいのモノです。一度ならず試みた者であれば、今回観た茶陶の凄さがわかるはずです。粘土を扱い始めた若い頃は、茶陶なんて退屈と思えましたが、ようやく陶芸の深みがわかって、この自然に見える造形の成り立ちの何たるかを知ることが出来ました。                           Yutaka Aihara.com

毎年恒例の益子・笠間へ

4連休初日は例年の通り栃木県益子と茨城県笠間に出かけました。親友が彼の地に住んで陶芸家として陶器市(笠間では陶炎祭)に出品しているので、新作を見に行くこと、それから向こうで知り合った若手の陶芸家たちが今年はどんな作品を作っているのか、その仕事ぶりが見たいこともあって、いつもこの日になると出かけてしまうというのが恒例化している理由です。朝のうちは雨が降ったりやんだりの天気だったため益子の陶器市は客足が今ひとつ伸びず、そのおかげで例年よりゆっくりと見て歩くことができました。午後の笠間の陶炎祭(ひまつり)会場はすっかり晴れ上がって日差しが戻ってきました。親友と旧交を温め、夜は仮説ステージで「あがた森魚コンサート」をやっていたのでちょいと拝見。充実した日を過ごしました。 Yutaka Aihara.com

黒人彫刻

決してモデイリアーニに触発されたわけではなく、ちょうど「モデイリアーニ展」を見に行った日と前後して、自分はカール・アインシュタイン著「黒人彫刻(鈴木芳子 訳)」を読んでいました。「黒人彫刻」は短い論文ながら、内容の濃いもので、とつおいつ思案しながら読み進むうち、かなり読み応えを感じてしまいました。本書はルネサンスから脈々と続く西欧美術に一石を投じ、美術を近現代に導く方向を示していると思います。アフリカの各民族が作り出す神聖な造形は、自然との協調から生まれたもので、鑑賞者を意識するあまり真実の追求を忘れていた当時の西欧美術の退廃を打ち砕く起爆剤になったと思います。アフリカ彫刻は現代にあっても造形に刺激を与え続けています。ピカソやモデイリアーニばかりではなく、ドイツ表現派の作家たちにも広く影響を与えたプリミテイヴ・アート。造形の真の魅力は、人間の根源的な力が表れた時に輝くということを改めて感じました。        Yutaka Aihara.com

モデイリアーニとアフリカ美術

国立新美術館「モデイリアーニ展」は数々のモデイリアーニの代表作が見られるのと同時にアートショップが楽しい雰囲気でした。モデイリアーニのデッサンのレプリカが多く壁に掛けられ、そこに雑じってアフリカ彫刻や仮面がありました。それを組み合わせた演出が何ともいいのです。モデイリアーニはピカソやブラックと同じ時代に生き、彼ら同様アフリカ美術の始原的な生命力を発見した一人です。直観的なカタチの取り方、純粋を追求したフォルムはまさにアフリカ彫刻そのもので、デッサンを見ても形態の把握に勢いを感じます。叙情的な西欧美術とは違う考え方、感じ方を作品に持ち込んでいると思います。実際のアフリカ彫刻とモデイリアーニのデッサンを対峙して見られるのが奇妙にもアートショップなのです。そこでデッサンのレプリカを買い求める人が結構いました。演出効果かもしれません。          Yutaka Aihara.com

「モデイリアーニ展」へ…

高校生の頃よりモデイリアーニの画業は知っていましたが、自分は今までモデイリアーニに親近感を持てずにきました。いったい何故と自分を疑います。モデイリアーニは自分がファンになる要素をたくさん持った芸術家であるはずなのに、今までモデイリアーニに関する文献は読んだことがありません。遅ればせながら彫刻家として出発した夭折の画家の偉大な仕事を、今日からしっかり受け止めていこうと思いました。絵に登場するデフォルメされた人物は彫刻を作ることも可能な形態感をもっています。線は情緒に流れることはなく、いたってシンプルです。神秘性が漂うとすれば眼にあります。ブルーに塗られた眼。普通の眼を描いた作品もありますが、面長の顔に長い首、何も語らないブルーの眼、でもそれらが揃うと雄弁に語る絵になるから不思議です。パリの香り、というより自分には地中海やアフリカの雰囲気が漂っているように思えます。国立新美術館の「モデイリアーニ展」を見た最初の感想です。Yutaka Aihara.com

日光・月光菩薩像の背中

昨日NHKの番組で特集していた「薬師寺展」。日光菩薩像、月光菩薩像が揃って薬師寺を出るのは初めてだとか。光背を慎重に取り外し、東京へ運搬する様子をカメラが追っていました。その影響もあってか東京国立博物館は開館前から長蛇の列が出来ていました。自分もその中にいて、ぞろぞろと館内に入り、日光・月光菩薩像とご対面しました。薬師寺には前に何回か出かけて薬師三尊像を見ているのですが、印象がまるで違っていました。まず光背がないこと、それからNHK番組の解説にあった通り菩薩の背中がきちんと作られていて、仏というより人体彫刻を見るような感じを受けました。骨格や筋肉を考えた肉付けがされていて、白鳳時代にあってどんな人がこれを作ったのか、ダ・ヴィンチやミケランジェロを超える才能が我が国に存在した証になると思います。ホンモノに触れた感動で、人の混雑を忘れてしまうひと時でした。                           Yutaka Aihara.com

GWアート&クラフト

自分が美術や工芸を観る時は、ほとんど体力の限りを尽くしてしまうので、一緒に付き合う家内は随分シンドい思いをしているようです。一日のうちで美術館4つに画廊が…とか計画してしまうと最後には気力も体力も尽き果てて、印象がごちゃごちゃになってしまうと家内は主張します。でも圧倒的な情報量があった方が満足できる自分は、丸一日をフルに動いて、眼を凝らして美術館巡りを決行してしまいます。連休中は前半は美術館巡り、後半は例年のように益子・笠間に出かけて工芸を見て回る予定です。自分とって鑑賞後の振り返りを大切にしています。記憶に留った作品は何か、時間を置くと作品のもつ何かが頭の中で咀嚼され、自分の中で意味をもつものに生まれ変わるのです。自分の鑑賞姿勢は昔から変わりません。          Yutaka Aihara.com

RECORD・感情の表出

昨年2月より一日に一枚、ポストカード大の平面作品を作ることを自分に課して現在まで継続しています。HPにもアップしているRECORDです。昨年から今年の1月末までを一応区切りとして、現在は2シーズンに入っています。昨年のものはペン画によるものが多く、具象抽象問わず思いつきで描いていました。家内が作品を見ていて、時期によって感情の移り変わりがわかるというのです。確かにこの時期はこんな気持ちや思考があって作品が出来てきたと振り返ることが可能です。一日一枚というのは同じ気持ちで試みたとしても、多少感情移入による違いが表れています。今年はどうでしょう。今年は5日間を区切りとして、カタチの上でも表現方法でも完全なる連作を目指しています。あえてコントロール出来るところはストイックに努めているつもりです。どんなRECORDになるのか、1年間をまた振り返ってみる時が楽しみでもあります。              Yutaka Aihara.com

犬になった彫刻家

表題のタイトルの面白さについ魅かれて酒井忠康著「犬になった彫刻家」を購入してしまいました。この彫刻家とは今は亡き若林奮。自分が学生時代にキャンパスで何度かご本人の姿を見ていながら、若林先生に話しかけることが出来ず、でも個展があると必ず見に出かけていた注目の人です。彫刻を学び始めた自分は若林奮ワールドが理解できず、それでも何故か気になっていました。名の知れた美術評論家も自分と程度の違いこそあれ、同じ興味関心を抱いていたことが嬉しくて、本書を時間をかけてじっくり読むことにしました。これで若林彫刻の思考の一端を知ることが出来たこともありますが、筆者が様々な面から考察している(というか格闘しているようにも感じます)ことが刺激的で迫力のある内容になっていて、時間をかけるつもりが、あっという間に読み終えてしまいました。読み終えた後も繰り返し気になる箇所を振り返っているところです。久しぶりに面白い書物に出会えたと思いました。                              Yutaka Aihara.com

幻視体験未だなく…

長い会議が続き、そこで眠くなって見る夢はあるのですが、夜眠っている間に見る夢は最近はなくなりました。亡父や亡義母が夢枕に立つこともなく、金縛り体験もありません。家内は時々そんな体験を語ってくれるのですが、自分は人に見えないものが見えたり感じたりすることはまるでありません。闇の中で身の毛がよだつことは過去ありましたが、何かが見えたわけではありませんでした。幻視体験は未だなく、そうした世界を創造することは自分には出来ないのかもしれません。画家の中にはそうした不思議な体験をテーマにして幻想絵画を作っている方もいらっしゃいますが、自分は常に現実世界との関わりでしか作品を作ることが出来ません。空間や事物に対する自己解釈はあっても、それは超越的な世界ではなく、おそらく自分が幻想世界を作ったとしても白々しいものになってしまうでしょう。幻視というものが何か知らないで、追体験によって作品化することは自分にとって仕方の無いことだと思っています。                        Yutaka Aihara.com

頭の中のアトリエ

講演会などを聞いていて、ついうつらうつらと眠くなる時があります。講演の内容がしっくり心に入ってこない時は瞼が下がってきます。すると頭の中のアトリエの扉が開き、創作活動が始まります。最初に素材の感触がイメージされてくるのは、いかにも自分らしいと思います。今日はざらついた白い砂が壁を作っていて、それがどこまでも続いている風景が浮かんできました。白いという形容詞はあまりにも雑駁で、それがどんな白さか見当がつきません。頭に浮かぶのは純白ではありません。物語性のある白です。様々な色彩があって、そこに白を塗りこんで色彩を覆い隠した按配です。白は覆い隠すのに似合う色だと思います。白には何も無かった状態に戻す心理が働くせいかもしれません。そんな意味のある白い壁がずっと続いていました。現実に引き戻されると、頭の中の白い壁は象徴化されて、作品にしたくなるのです。イメージはそんなところから湧いてくるのかもしれません。    Yutaka Aihara.com

格子模様について

最近のRECORDは、格子模様の繰り返しの中に円形がある構成になっています。格子のカタチは自分の中でたびたび出現してきます。まず初めに格子を定規を使ってきちんと書き上げ、それをところどころ崩してみたりしています。格子模様の繰り返しは精神の安定と気持ちよさを与えますが、退屈と束縛も同時にもっていて、その行き詰まる感覚が崩壊に繋がっていくように思えます。最初からバラバラに崩壊しているのも退屈を与えます。束縛があるからこそ破れた自由さが生まれるのかもしれません。作品と同じく規制を強化したり緩和したり、そのバランスで社会が保たれているのかなと思います。                               Yutaka Aihara.com

和室の住まい方を考える

自分は建築家でも建築史家でもないので、和室に対する考察はきわめて表面的で、実直な感想しか持ち合わせていませんが、かねてより和室に対する関心はありました。我が家にも小さな和室があります。帰宅してすぐ寝転がる部屋が和室です。畳の気持ちよさがいいのです。和室には押入れがあって、寝具が仕舞ってあります。それを敷いて寝床を作ることができます。と思えば膳を出して座布団を敷けば食事やお茶、学習室にもなるという具合です。床の間は小さな美術館で、我が家では亡き義母の書が掛かっています。和室はいろいろな用途をもっています。狭小な日本の家屋にあって、空間を有効に使う工夫がなされているのが和室です。外界とは障子で隔てられ、その儚さは外と内の一体感をもたらせているとも言えます。それは優雅な雰囲気さえ感じさせてくれます。まだまだ和室を見直して新しい視点で住まう工夫があってもいいんじゃないかと思うのです。               Yutaka Aihara.com

車の中から見える風景

職場からの行き帰りに車に乗っていると、自分が走っている感覚よりむしろ左右の風景がこちらに向かってやってきて、また過ぎ去っていく感覚に陥ります。現実の風景が、窓越しに何かの映像でも見ているかのような錯覚となり、通勤で見慣れた日常的繰り返しの中で、リアルとシュミレーションの差がなくなり、自分の存在する立ち位置が掴めなくなります。車という文明の利器(機)は、私たちの風景の認識に大きな変化をもたらせたものではないかと思います。実際に車で通勤していると、見慣れた風景は見慣れているくせに印象は希薄で、何がどこにあったか厳密には覚えていないことが多いと思います。「見る」行為にも変化があらわれていると感じています。たまに歩くと道が道として存在しているのに改めて感じ入ったりするのは私だけでしょうか。時々は道路ではなく道を歩いて自分の位置を確かめたいと思うこの頃です。                             Yutaka Aihara.com

家具の在り方を考える

久しぶりに教え子の美大生が作業場にやってきました。プロダクトデザインを専攻している彼女は家具制作の課題を抱えてきました。自分が制作している彫刻の現場に家具を持ち込んできたことが契機になって、家具の在り方を考えてみることにしました。家具は収納として、または休息を与えるモノとして、または作業を行う機能として日常必要不可欠です。生活に密着して存在するものですが、アート的な発想も大いにあるべきと考えます。狭小な日本の住空間をいかに豊かにするか、空間を占領して存在するものであれば、アートのように新しい視点を加えることで、そこに住まう人の心理に働きかけて、安定した情緒が生まれたり、人との関わりや会話が弾んだり、思考が深まることがあろうかと思うのです。住空間の大切さを語る時に、家具のもつ要素を無視するわけにはいきません。ではどうしたら理想的な家具が創作できるのか。日常品としての使いやすさは自由な発想をある程度制限することがあるでしょう。そうした手枷足枷を巧みに利用して発想の転換を図るところに未来の家具の在り方があると信じます。造形作家側からの挑戦、デザイナー側からの挑戦があって、ユニークな家具が生まれることを切望してやみません。                             Yutaka Aihara.com

封じ込めた時間

平日は公務があるので、週末になると気持ちが解放され、創作に没頭することが出来ると今まで考えていたのですが、はたしてそうなのか疑問を覚えました。今日という週末をいつものように木を彫って過ごしたのですが、実際の気分は解放というより、自分の中で封じ込めた時間を生きている感じがしています。限りある時間をどう使うか、刻々と変化する時間にあって、ここまで木を彫っておこうとする意思が働き、ノルマを達成するように作業をしています。先日からブログに書いている「労働の時間」というコトバがとても気になって(または気に入って)決められた時間の中で決められた作業を滞りなくやる行為が、つまり自分にとって「労働の時間」というのかなと思っています。決められた時間は自分が封じ込めた時間でもあるのです。閉塞感を感じつつ、今日という一日を生きてみました。           Yutaka Aihara.com

空間を変容させる装置

自分が作っている集合体による彫刻は、部品と部品を繋いで、ひとつの作品としていますが、それは物量として見せているのであって、単体でも同じものだと思っています。集合体の特徴はあるにしても、最終的にはひとつのまとまりにしているのです。この集合体を拡散させて空間に配置したら、また別の空間が現れてくると思います。彫刻が空間を変容させる装置とするならば、置かれる場所・環境によって集合や拡散があってもいいのではないかと考えます。そのいずれにも耐えられる作品が作れることを願っています。現在進行中の「構築〜起源〜」は拡散に向かう集合彫刻のつもりです。空間を変容させる装置、あるいは環境によって提示の仕方を変える彫刻。大地に置かれる、横たわる、掘り込む、壁に掛ける、寄りかかる、埋め込む等あらゆる提示が可能な装置を作りたいと考えています。            Yutaka Aihara.com

哲学・詩作・そして実材

現代美術における彫刻の捉え方として、彫刻を設置することによって、その空間を変容させることが挙げられます。今まで見慣れてきた空間に対し、新しい視点を与え、また触覚的な要素を加えることで、新鮮な眼で世界を俯瞰できるようになると考えます。空間の変容は、彫刻家が考える哲学的な思索であったり、ユートピアを作り出そうとする詩的な感性だったりしますが、彫刻家は哲学者でも詩人でもないので、常に実材と向かい合い具体的にモノを提示することが彫刻家の彫刻家たる所以であろうと思います。実材を媒体として空間に働きかけていくことが彫刻家の仕事であると常々考えています。Yutaka Aihara.com