勝手なイメージの重複

自分の中では記憶した時代が異なるのに、2つのモノの間に勝手なイメージの重複がある場合があります。たとえば大学時代に西武美術館で見た「エゴン・シーレ展」。展示作品の中に「小さな町」(1912〜13)というシーレの母の故郷であるクルマウを描いた作品がありました。三角屋根と小さな橋がパッチワークのような構成で表現されている絵画でしたが、それを見た時、日本のフォークソングの旋律が頭の中で繰り返し流れていたのを思い出しました。先日フォークソングの復刻版を聴いて、今度は「小さな町」が思い出されました。フォークソングは中学生の頃、ラジオの深夜放送で聴いていた六文銭の「橋」(作詞:白石ありす 作曲:小室等)です。「小さな頃見慣れた 三角屋根の家並が ほんの少しばかり 姿をかえ河岸づたい〜略〜あの橋わたれ」というフレーズがエゴン・シーレの絵画と自分の中で結びついてしまっているのです。自分勝手で個人的なコラボですが…。

本棚から溢れる本

一冊の本が読み終わる前にあれこれ本を買ってしまう癖があって、昔から読もうと思う本が山積みになっています。どんなにパソコンが便利になっても、本をめくる時のわくわくする気分は学生時代の頃と同じです。自分は「本の虫」ではないと思いますが、美術に関わる本は常時読んでいて、鞄に携帯しています。評論、伝記、小説の類まですべて美術系。装丁が凝っているものも多く、そうした本は知識が詰まった工芸品だと思っています。古いデザインの復刻版も出ていて、楽しみながら読書ができます。多忙な合間に読書するのは創作活動以上に自分にとっては難しい技です。車通勤になってから読書時間が減りました。でも本は増え続け、今では本棚に収まりきれず床に置いてあったり、自宅のそこいら中に本の山積みがあります。

杉の柱を焦がす作業終了

個展に出品する「発掘〜遺構〜」の台座部分にあたる杉の柱48本。先日から1本ずつ異なる文様の彫りこみを入れ、さらにバーナーで炙って焦がす処理をしていましたが、作業としては今日終了することができました。これからの予定は、この48本の柱をどう配置するか、上に陶彫作品を置いた時にイメージしたような効果が出るか、作品が転倒しないような安全性の確保はできているか等の全体計画を考えなければなりません。今日のところは柱の処理だけで精一杯だったので、全体を見るのは次回の週末になります。搬入まで1ヶ月少々ありますが、ウイークデイは公務があるため作業はできず、週末を数えると残り時間は僅かとなります。いつもこんな緊張を強いて搬入を迎えますが、今回も例外ではなさそうです。

週末の集中力

「P・ブリューゲル物語」で語られているブリューゲルのように常軌を逸して絵画制作に没頭するにはまだ及びませんが、銀座の個展が迫っている今週末は、自分もかなり集中して作業していると自負しています。作品を仕上げなければならない時は集中力が増すもので、時間はあっという間に過ぎていきます。こうしてみると週末という週末はすべて作品制作に費やしている自分は、凝縮して濃厚な時間を過ごしていて、集中力が途切れることがありません。むしろウイークデイの方が時間に緩急をつけて過ごしているのかもしれません。作業への集中はきっと習慣化していて、週末になると脳が指令を出して、自分は容易にその世界に入っていけるのだと思います。明日もそんな作業が待っています。                     Yutaka Aihara.com

絞首台の上のカササギ

ヨーン・フェレメレン著「ピーター・ブリューゲル物語〜絞首台の上のカササギ〜」(鈴木久仁子・相沢和子訳)を今日読み終えました。これは創作だと思っても、ブリューゲルの短くも過激な一生がいろいろな人との関わりの中に語られ、また性格描写も面白く、さもありなんと感じてしまいました。ドラマ仕立てに惹き込まれ、我を忘れてブリューゲルの生きた時代に思いを馳せました。40代で己の命を悟り、右腕が痛みで利かなくなっても、調子のいい時は絵画制作に没頭し、それがないと気が狂ってしまうほどの常軌を逸した創作意欲。本当にそんな人だったのか、資料が少ないことで返って、その人の一生に迫ってみたいと思うのです。「絞首台のカササギ」は物語の中では、子どもの頃に描いたデッサンをもとに、命を全うする最後に油彩としてまとめ上げたもので、ブリューゲルの一生を物語るテーマにしていました。本当に楽しめた一冊でした。

P・ブリューゲル物語

まだ読み終えてもいない本をブログに書くのは初めてです。厚めの本ですが、翻訳であっても読みやすく、さらさら読めてしまいます。こうした歴史に現れる断片を使って創作していくことは、読み側としては楽しい限りです。創造の力で、あたかも自分が16世紀のフランドルにいるような感覚をもてるからです。スペインの圧政が続いた時代に生きたブリューゲルは、パトロンである枢機卿に翻弄されて生きています。写真の無い時代には、絵画は記録として重要な役割があり、才能に恵まれたブリューゲルは絵画の仕事で充分に食べられているのです。本もラストまであと少し。読み終えた時に再度ブログに載せるつもりです。

デッサンの魅力

時々デッサンを描きたい衝動に駆られます。白い画面にペン、コンテ、鉛筆なんでもよいのですが、心にあたためているカタチを描きおこしてみたくなるのです。高校時代は在るがままのカタチをどう写実的に描くかに頭を悩ませました。美大受験にはデッサンの傾向があって、それをモノにするために日夜デッサンを描いていたのでした。ところが今は違います。イメージを描きとめておきたい衝動です。毎日RECORDもやっているのですが、デッサンはもっと大きな画面に描きたいと思っています。エスキースではなく、人に見せられる作品としてのデッサンです。その展開としてエッチングやリトグラフもやってみたいと思います。紙の上にある自由な世界。写実にもなれば、図面としての役割も果たしてくれるデッサン。今になって魅力を感じずにはいられません。                        Yutaka Aihara.com

仕事の持ち帰り

仕事から離れた時間は、できるだけ自分の時間にしたいと思うのは誰でも同じだと思います。年間にすれば仕事を持ち帰って自宅で処理しなければならない時間はさほど多くはないのですが、やはり持ち帰るとなるとシンドいものです。今晩は仕事に振り回されました。これがあるからこそ創作活動の時間の有難味がわかるのですが、創作と違い、仕事の時間は長く感じられてしまいます。次の週末を楽しみにしながら仕事をしていく生活も慣れたはずなのに、時折ぼやいてみたくもなります。自分は現実逃避も悪くないと思っています。そうすることで人はバランスをとっているのかもしれません。今日は逃避もできず、仕事一本の一日でした。

現れ出るイメージ

公務で気持ちがギュウギュウ詰めになっている時に、ふと思い浮かべるイメージがあります。それは壁であり、地層であり、連なる家並であり、迷路のように入り組んだ路地です。会議で眠くなる時もイメージが現れ出ることがあります。現実逃避かもしれませんが、ただ思い浮かべるだけではありません。これは作品化できるかどうかをイメージと同時に考えているのです。今までの作品はこんな些細な心の動きから始まっていると言えます。ただ過去に自分が住んだヨーロッパの都市や旅した風景が頭の隅にあって、イメージが具体的に現れるのは、このようなところが起因しているのは言うまでもありません。今日は隆起した土地と陥没した土地がイメージされました。その断面が何とも心地よく、また彫刻的な美しさもあって、この断面のイメージを何とか作品にならないものかと思案しているところです。       Yutaka Aihara.com

煤を払って週末が終わり…

今週末はひたすら杉の柱の炙り作業に徹しました。作業場の外は煤だらけになり、木材の焦げた臭いが周囲に漂っていました。終日作業しても48本は終わらず、また来週末も炙り作業になりそうです。かつて「発掘〜円墳〜」や「発掘〜地下遺構〜」を制作した時も、枕木を炙ってテーブル彫刻の柱にしたことがありました。古びた枕木に比べれば、杉の柱は炙った跡が鮮明にわかり、作業としてはやりやすい状態ではありますが、煤だらけの顔を鏡で見るにつけ墨や炭を作る職人の大変さがほんの少しわかった気がしました。杉材は焦がすと時々乾いた音がします。急に熱を加えたので木が割れているのです。そこはお構いなしに作業を続けています。彫り跡も残したままです。充分炙った後、木についた煤を払って定着液を塗って1本完成です。この繰り返しが48回あります。来週末も延々と続きます。

焦がした杉の柱

48本の杉の柱。7月の個展に出品する「発掘〜遺構〜」の陶彫部分を支える部分になります。陶彫は錆鉄の質に近い色合いを焼きしめて出しました。それを支える部分には杉材の荒彫りだけの処理では何か納得が出来ず、杉の柱を触りながらいろいろ思案していました。結果、杉の柱をバーナーで炙って陶彫の質感と合うようにしてみました。杉の柱は半分以上が焦げた状態になり、素材の変化に面白さを感じました。イメージとしては沈黙した都市空間を表現しているので、焦がした杉の柱はイメージをさらに鮮明に捉えられると考えました。火災や震災などの大きな災害が根底にあって、作品は現代に対する警鐘のようにも取れますが、実際には社会的で具体的なメッセージは明確化できていません。これは単純に造形作品として観ていただきたいと思います。

RECORDは「台形」

6月のRECORDのテーマは「台形」です。台形らしい台形を考え、画面の中に自然な収まり方をするようにサイズを決めました。とにかく安定している図形です。あまり面白味もなく展開にも欠ける図形ですが、そこを何とか構成で工夫して、新しい台形の可能性を見つけたいと思います。台形は立体で言う台座のようにも見え、台形の上に何かを置かないと空虚に見える図形です。その空虚感を出してみるのもいいかなと思っています。彫刻でも台座しかなかったりすると、そこに不思議な意味が与えられているような気がします。台座の上に彫刻が置かれると妙に安心します。台形は何かを支える図形であり、支えるものが存在しなかったりすると不思議な意味を持ってくるかもしれません。                         Yutaka Aihara.com

映画「ニキ フォル」

ポーランド映画で「ニキ フォル〜知られざる天才画家の肖像〜」を観ました。坦々と描かれた老画家の物語で、演じている俳優もかなり老齢な感じを受けました。地方都市を舞台に観光客相手に絵を売る老いた画家がいて、その彼がある画家のアトリエに居候を決め込むところから物語は始まります。アトリエのある画家には家族がいて、突然やってきた招かれざる客の老画家を追い払おうとするのですが、そのうち老画家と心を通わせるようになり、病院に入れるまであれこれと面倒を見る展開になります。老画家は温かみのある素朴派の画風で、そうした風情が映像全体を包みこんで、詩情豊かな雰囲気を出しています。冬ざれた街がとくに印象に残りました。      Yutaka Aihara.com

図録の最終撮影

今年7月21日から予定している銀座での個展。図録作りが最終段階に入っています。今晩はお馴染みのカメラマンが来て、追加撮影をしていきました。ギャラリーせいほうに今月末までには図録やDMを持っていかなければなりません。今回も前回同様に図録が楽しみです。個展はまだこれからなのに自分の足跡を残している実感とともに現在の作品の履歴が刻まれます。作品の反省も多々あるのですが、それは個展搬入の時にしておきます。いろいろ公務が立て込んで大変な時に、こうした自分の世界があるのは幸せなことで、またそれによって癒されもします。定年になれば創作活動一本でやっていく所存なので、今は二束の草鞋で頑張っていくより方法はありません。

満陽工房の周囲

昨日出かけた熱海市の池田満寿夫・佐藤陽子の「創作の家」。そこから車で20分程度走ったところに故池田満寿夫が主に陶芸を試みていた「満陽工房」がありました。山の中腹にある大きな町工場のような工房です。ただし工場とは違うのはカラフルに塗装された工房の壁でした。工房そのものは未公開で、隣接している記念館に陶芸作品が展示されていました。自分にとって有意義だったのは、たとえ外側からだけでも工房が見れたことでした。周囲の環境、工房の大きさから作家の創作の在り方を想像することができるのです。とくに周囲の環境は重要で、作品は環境によって影響を受けるからです。自由奔放な池田満寿夫の作風が、みかん畑の点在する山の中から生まれたという事実。しかも空は大きく広がり、眼下に川が流れる自然のままの環境。そんな場所に羨ましさを感じながら「満陽工房」を後にしました。 Yutaka Aihara.com

熱海にある「創作の家」

版画家として成功した後も小説家として活躍した故池田満寿夫。陶芸も制作して晩年はマルチアーテイストとして旺盛な創作意欲を見せていました。音楽家の佐藤陽子と熱海に住んでいたことは当時のテレビ等で知っていましたが、今日はその「創作の家」を見てきました。熱海駅より坂を登ること10分。目指す家は小高い丘の上にありました。玄関前に立つと左手に丹精こめた庭があり、家の中は2人が日常生活を過ごしていた気配を感じることができました。調度品は海外で収集した大きなソファやステンドグラスで、ダイニングも人を招く目的があったのか、かなり大きめなテーブルや椅子がありました。アトリエには絶作の油絵が立て掛けてあり、リアルな空気が伝わってきました。自宅を公開するというのは個人美術館や記念館とは異なり、当時のナマな生活が垣間見えて何ともいえない気持ちになります。マテイスが晩年住んだ南仏のような気分で、池田満寿夫はこの熱海に住んだのではないかと思いました。                           Yutaka Aihara.com

6月になって…

今日から6月です。先日まで雨模様で寒い日が続きましたが、今日は一変して夏のような太陽が顔を出しました。RECORDも5月分の正六角形を終え、新たな図形を考えています。7月の個展に出品する「発掘〜遺構〜」の一部に使う杉の柱は、なんとか今日荒彫りを終えることができました。さて、この48本の柱をどう処理すべきか、頭の中にイメージとしてはあるのですがイメージ通りになるのかどうか。杉の柱を1本ずつ彫っていくのは労働の蓄積として、ある意味では気が楽なのですが、これからが全体の関わりとして、作品に1本ずつ組み込んでいくので骨が折れるのです。発掘された状態をどう木で表現するのか、陶彫を支える部分をどうすべきか、今日一日は荒彫りした素材を触りながら何かを感じ取りたいと頭の中で試行錯誤を繰り返しました。6月は制作が佳境に入る期間です。搬入の7月20日まであと1ヶ月半に迫りました。

作品イメージの源泉

先日から紙切れに鉛筆で文字を書いたり消したり…。作品化を始めた都市との関わりは、自分のどんな記憶に由来しているのだろうと思いを巡らせているのです。通勤する道路沿いに高層マンションが立ち並び、朝はひっきりなしに往来する人々や渋滞する車。騒音から始まる朝の訪れ。自分もその中にいて、あくせくと道を急いだりしています。リアルな日常が分刻みの時間の中でどんどん流れていき、そこに立ち止まって深呼吸することもありません。都市の構造に組み込まれた自分を省みて思うのは、大勢の人を見ていながら人との関係は極めて希薄で、近所付き合いもない孤立した状態です。むしろ付き合いを遠慮し面倒なことに関わりたくない思いもあります。そんな都市を俯瞰できたのは改めて作品化を思い立った時だったように思えます。都市の遺構を作ろうとした時に、現在の都市生活に何か有事があったらどうなるのか、災害で多くの人が亡くなっている状況は海外のニュースで知ることはできても、果たして自分には当事者意識があるのか、そんなことも考えの中にあって、最悪なシナリオを描いた屍のような都市空間を作ろうとしたのを思い出しました。はて、これをどんなコトバで伝えようか。目下自分の悩みの種になっています。       Yutaka Aihara.com

発掘〜遺構〜に寄せるコトバ

7月の銀座の個展に出品する作品で、タタミ六畳の面積を有する「発掘〜遺構〜」に寄せるコトバを思案しています。図録の1ページ目に掲載するコトバです。この作品のイメージを辿り、初めにどんな思いがあったかを思い出しています。作品を制作し始めると、そうした思いに枝葉がでてきて始原的なイメージの振り返りが難しくなることがあります。作品を作る前に何かがあったはずなのに、目の前にある作品の具体的な形態ばかりに左右されてしまうのです。作り込めば作り込むほど、それは作品のための作品になってしまいます。コトバを生み出すには、造形作品が生まれた時に立ち戻らなければならないと思います。コトバを介してイメージの源泉を探ることは自分にとって必要なことなのです。                     Yutaka Aihara.com

シュレンマーの舞台空間

昨日見た「バウハウス・デッサウ展」で美術館の壁一面を使って映像作品が流れていました。オスカー・シュレンマーによる舞台工房の作品で、バウハウスを特徴付けるカタチが表れていました。シュレンマーは形態、色彩、空間、運動、言語、音、理念の7つが舞台を構成する要素としていたようですが、映像を見る限りでは運動する人の身体が中心となった舞台のように見えました。独特な衣裳に身を包んだダンサーが機械的で禁欲的な動きをしていました。当時は演劇上の実験としても画期的なものであったはずです。建築、美術や工芸、舞台までも統一したバウハウスの理念がいろいろな側面から見て取れる展示内容でした。                    Yutaka Aihara.com

「バウハウス・デッサウ展」

上野にある東京芸大美術館で「バウハウス・デッサウ展」が開催されているので見てきました。平日というのに結構人が入っていて正直驚きました。日本ではマニアックな分野だと認識していたのですが、時代はよもやバウハウスなのかと思わせる混み具合でした。展覧会を見て思ったことはバウハウスは造形美術の教育機関なのだと改めて感じたことです。学校である以上、学生に対し懇切丁寧な実習を課しており、それが自分たちが日本の美術学校で学んだことと大して変わらない、いやバウハウスがあったからこそ日本のデザイン教育が成立していると言った方が適切と思える事実を知ることが出来ました。色彩や紙立体や素材研究は日本の美大の工業デザイン等で学ぶカリキュラムで、しかもバウハウスの学生作品が普通に見えるのは、今もそれがコンセプトとして受け継がれているからだと思いました。デザイン教育の原点を見たような気がします。

風景のコラージュ

脳裏に焼きついた尾瀬や会津の風景をイメージの上で再構成して、自分の印象に残ったものをひとつの作品にまとめあげることは、絵画では常套手段です。いわゆる心象風景で、これは様々な作家がイメージを競い合うように作品を作り続けています。立体でも風景のコラージュはあります。ただし絵画より表現が不自由なため、素材が前面にでてしまい、ある場所を限定した風景を感じさせる作品は少ないと思います。風景の捉えが絵画とは違うのです。風景は前景にあるものと後景にあるものとの距離によって成り立っている場面を指すものです。そうした距離の認識を、ある場所を限定して作れるとしたら、その風景のコラージュが立体として可能なのかもしれません。 Yutaka Aihara.com

尾瀬の燧ケ岳

尾瀬を歩きました。この季節は水芭蕉が咲いています。湿原のところどころに小さな池があってその周囲に水芭蕉が群生している景色は何ともいいものです。とくに印象的だったのは湿原の向こうに広がる燧ケ岳の雄大な景観です。雪がまだらに残り、山肌と雪の筋が美しいコントラストを作っていて、自分もセザンヌのように大きく面取りをした画面で、この山を描いてみたい衝動に駆られました。青空にポカンと浮いている雲は、旧ユーゴの素朴派画家が描く絵にも似て、自然が作り出す美にため息が出るほど感動しました。縦横に走る木道はアースワークという現代アートにも思えて、自分の作品がちっぽけに感じてしまいました。                   Yutaka Aihara.com

会津高原へ…

仕事で福島県の会津高原に行ってきました。仕事とは言え、周囲の美しい自然を堪能してきました。午前中はやや雨模様でしたが、午後は晴れ上がり、透明な空気に覆われた新緑が目に眩しく映りました。田植えの時季でもあり、水を湛えた田んぼの畦道には小さな花が咲いていました。夜は満天の星空で、横浜ではこんなふうに星空を見上げることはないなと思いました。風景画家ならこんな自然を大気を感じさせる描法で表現したくなるんだろうなと思いつつ、印象派が自然の光を求めて屋外に出て行ったのがわかるような気がしました。                           Yutaka Aihara.com

上司の説得力

組織を運営する上で人をまとめていく仕事はいかがなものか、上司に言われた言葉を思い出します。それは「あなたの主張はわかりやすい。気持ちにストンと入ってくるけど、全体を見て話す時は、もう少し含みのある言葉があってもいいんじゃないか。優柔不断でないことは認める。あなたが作品を作る時、余計なものを排除して明快なカタチを掴もうとする姿勢があるから、それが公務にも表れてしまうんだ。」といったような趣旨でした。なるほど。上司は美術には関係の無い御仁ですが、自分にとっては説得力のある言葉でした。作品を分析されて話題に出されてしまうと自分は一瞬怯みます。作品で言えば、カタチを掴む前は充分に優柔不断なのですが…。確かに自分は組織で働く上で、短絡的な考え方をしてしまう嫌いがあります。早急に結果が欲しくて概括的になってしまうこともあります。そうした人間性は作品にも表れるものです。制作一辺倒ではなく、こうしたところにも自己表現の浅はかさが見えるのかもしれません。                 Yutaka Aihara.com

自分を見つめる時間

日頃の公務は自分を振り返ることもなく、組織運営のことを考えてみたり、眼前の仕事をやりこなすことで精一杯な一日を送っています。一日のうちでどのくらい自分を見つめられるのか考えてみました。自分に戻るひと時は通勤の車中、本を読む僅かな時間、RECORD制作時間、そしてこのブログを書いている時間くらいです。それでも自分は二束の草鞋のおかげか発想の転換が素早くできるので、挙げてみると結構あるのかもしれません。週末はすべてが自分のための時間です。自分を見つめる時間が欲しいと思いつつ今までやってきました。自分を見失うと価値ある生き方ができないような気がしています。逆に自分をずっと保っていると、公務でも悩まずにやっていける気がしています。自分を見つめながら、自分を確かめながらこれからもやっていきたいと願っています。

横浜の「佐伯祐三展」

会議と会議の合間に横浜駅にあるデパートに立ち寄って、そこで開催されている「佐伯祐三展」を見てきました。かなりまとまった油彩があって充実した内容でした。いずれの油彩も旧友に会ったような懐かしさを覚えました。高校時代、自分は佐伯祐三が大好きで、ペインテイングナイフで素早くタッチをつける佐伯祐三ばりの油彩をよく描いていました。佐伯祐三を通してユトリロやヴラマンクに興味を持ったことが思い出されます。佐伯絵画はやはりパリの街角の、時に憂鬱な雰囲気を醸している情景が何ともいいのです。日本の風景はやはり体質に合わないと見えて、一生懸命に描いたであろう下落合の風景や帆船も秀作とは思いますが、パリのカフェの踊るような筆遣いにはかなわないと感じます。壁の表情、落書きのようなポスターの文字、時に骨太な線が現れ、遠近をギクシャクさせて独特な空間を作り上げる佐伯絵画は、石造りの建物が並び、雲がたちこめて暗いパリの空に本当によく合います。今日は自分を振り返る展覧会鑑賞だったと思いました。       Yutaka Aihara.com

モノクロのもつ豊かさ

RECORDで有彩色と無彩色による作品をほぼ交互に作っています。そこで感じたことは無彩色、つまりモノクロのもつ色彩の豊かさです。いや、色彩を感じさせる豊かさと言った方が相応しいかもしれません。モノクロのもつ表現力はなかなかのものです。ピカソの「ゲルニカ」でも証明されていますが、モノクロはあらゆる色彩をイメージできると思っています。画面構成やひとつずつのカタチもはっきりして甘さに逃れることを嫌います。エスキースもデッサンもシンプルに人に伝えるものであれば、いろいろな色彩を使うより、モノクロの方がダイレクトに伝えられると思います。服装もモノトーンを基調としたものを着ると、自己表現したものを自分が黒子のように操っているように見えて、イメージの豊富さを人に感じさせる印象を持ちます。モノクロの雄弁さを改めて感じています。             Yutaka Aihara.com

個展案内状の写真

個展を開催する時に必ず案内状を作ります。これに載せる作品写真はかなり大切なものと考えています。いわば名刺代わりです。今こんな作品を作っていると一枚の写真で意志表明するわけですから、写真を選ぶのも慎重になります。個展の雰囲気を伝えるだけではなく、宣伝効果を兼ねたインパクトの強いものを選ぶのがいいと思っています。一度に1500枚を郵送して広報するので、時間が許せばこの人の個展に行ってみたいと思えるような視覚効果を狙います。案内状には個展情報だけではなく、ホームページのアドレスも掲載します。ホームページはつまりWebギャラリーです。実際の作品を見なくてもパソコンを通して作品の雰囲気やギャラリーの空間等は伝わると思っています。今回の案内状はどんなものか作品の写真を見ながら検討中です。Yutaka Aihara.com

図録掲載の文章

3冊目の図録となると、今度はどんな文章にしようか考えてしまいます。前に書き溜めたデータを読むうち、陶彫と関わったいきさつを書いた文章に手を加えることにしようと考えました。いわば陶彫による制作生活に入る前のプロローグです。図録の最終ページに掲載する文章はできるだけ制作に沿ったものにしたいと考えているからです。1冊目の図録に渡欧生活が自分にもたらした抽象のカタチのことをあれこれ書き、2冊目は集合彫刻を作る際の苦労と成果など、3冊目には陶との関わりを掲載することを決めました。掲載する写真にしろ文章にしろ自分の中でケジメをつけて、次のステップに結びつくものとして図録を捉えていて、そういう意味では図録は自分にとって必要なものとなっています。今回はどんな出来栄えになるか楽しみです。 Yutaka Aihara.com

新しい図録作成に向けて

今年は7月に銀座で個展を予定しています。個展の図録を作るために打ち合わせを持ちました。ずっと自分と仕事をしてくれているカメラマン2人と今後の予定を話し合いました。撮影は随分前に終わっているのですが、まだまだやらなければならないことがあります。図録に掲載する文章や撮らなければならない写真、しかもそのデータを加工してレイアウトすることを考えると時間はぎりぎりとなってしまいます。でも、こういう打ち合わせは自分にとって楽しい時間です。イメージした空間を創出しようとしているのですから、つまらないはずがありません。図録は今回で3冊目になります。図録に載せる作品写真の割付などを書き込んだラフスケッチ作成もだいぶ慣れました。作品はブルーを基調としたものにしようと決めています。今まではセピア色にしていたので、今回は印象を変えようと思います。        Yutaka Aihara.com