Archives for posts tagged ‘留学’

ハマム体験記

トルコで一度は行ってみたいと思っていたのが、公衆浴場(ハマム)でした。カッパドキア観光のついでに寄ったユルギュップという小さな町で、このハマムを体験しました。公衆浴場と言っても日本の浴場とは異なり、腰巻をつけて、大きな平 […]

2つの地下都市

トルコの地下都市を訪ねたのは20年以上も前のことなので、記憶が徐々に風化しています。訪ねた地下都市の名称はカイマクルとデリンクユでした。どちらがどうだったか忘れてしまいましたが、蟻の巣のように地下へ続く洞窟を地元の少年が […]

遺跡めぐり行脚

1985年晩夏、5年間住んだウィーンの住宅を引き払って、ヘレニズム時代の都市遺跡を見にトルコやギリシャに数ヶ月の旅に出ました。交通手段はもっぱらバスと徒歩でした。ヒッチハイクもしました。何といっても遺跡は町から離れた山や […]

パムッカレで失くした結婚指輪

TBS「世界遺産」を見ていたらトルコのパムッカレが映し出されたので、思わず声を上げてしまいました。20数年前にあそこにいた、と家内に言ったら、私はあの古代都市ヒエロポリスで結婚指輪を失くしたのよ、と答えて、共有する思い出 […]

ボスフォラス海峡のフイッシュバーガー

イスタンブールで病みつきになった料理はフイッシュバーガーでした。それも獲れたての魚をその場で揚げて、パンに挟んだ野趣あふれるものです。それはヨーロッパとアジアを繋ぐボスフォラス海峡のガラタ橋近くに舟を横付けして売っていま […]

キリムの魅力

イスタンブールに着いた初日に手に入れたキリムはかなり大きくて、これを巻いてリュックの上に括りつけて行動することになりました。数ヶ月の旅を考えると重荷でした。もともとキリムは遊牧民のものなので、野宿もできると思いつつ、色彩 […]

バザールのキリム商談記

1985年夏にウィーンからイスタンブールへバスで深夜に乗りつけて、閉まったホテルの玄関前に野宿した後、バザールに見物に行きました。イスタンブールは混沌とした賑やかな街でした。絨毯商は皆そろって日本語が上手なので、日本人が […]

ウィーンからイスタンブールへバスの旅

20歳代の終わりにウィーン生活を切り上げて帰国することになり、美術アカデミー修了を待って、数ヶ月の旅にでることにしました。1985年の夏から冬にかけてのことです。当地で生活費を賄っていたので、そんなに金銭的なゆとりがなく […]

ギュンター・ドメニクの銀行

かつて住んでいたウィーン10区のアパートから歩いて5分程度のファボリーテン通りに、エイリアンの棲家のようなメタリックな建物が出来ました。オットー・ワーグナーのような前世紀の建築群との調和を図った建築家がいる一方で、この建 […]

A・レームデンの風景

再びウィーン幻想派の話です。自分がいた頃の美術アカデミーにはハウズナーの他に、A・レームデンがクラスを持っていました。同じ幻想派でもハウズナーとはテーマが異なり、戦争体験を基にした風景を描いていました。学んでいる学生もレ […]

R・ハウズナーの顔

ウィーン幻想派の話です。ウィーン美術アカデミーに学んでいた20数年前に、ハウズナーを1度だけお見受けしたことがあります。ハウズナーはウィーン幻想派の画家の中でも最年長でリーダー的役割をしていました。画風が自分の顔を主なテ […]

E・フックスの銅版画

ウィーン幻想派の画家の中で、ウィーンの街中のギャラリーに作品があるのがE・フックスの銅版画です。フックスは煌びやかな油彩画を多く描いていますが、モノクロの銅版画にも力量のある画家だと思います。フックスの宗教性や神話性のあ […]

ウィーン幻想派との関わり

ウィーン美術アカデミーに学んでいた当時、同校にハウズナー教室とレームデン教室があって、とくにハウズナー教室には毎年のように邦人画家が聴講生としてやってきて制作をしていました。もうかれこれ30年も前になるのでしょうか、東京 […]

ジグゾーパズル的ブリューゲル

ウィーン美術史美術館にはブリューゲルだけの部屋があって、代表作がたくさん観られます。そんなことも知らずにウィーンに行き、この農民画家に出会った時は、息を呑むほど驚いて、ただひたすら見入ってしまいました。秋の枯葉色した画面 […]

P・ブリューゲルの世界

みやこうせいさんの写真を久しぶりに見て、ウィーン美術史美術館にあったP・ブリューゲルの絵画世界が現存しているかのような印象を持ちました。自分もかつてみやさんと一緒にそこにいたのですが、現在生活している日本社会とは遥かに離 […]

ウィーン分離派と邦人建築家

ウィーン分離派は、自分にとってどのようなものかを考えてみると、予備知識もないままウィーンに住んで初めて知った革新的な芸術運動で、その美的なるものに感動を覚えたのが分離派でした。現代は芸術の捉え方、表現方法も多様化して、美 […]

オルブリッヒのセセッション館

昨年のブログに、ウィーン美術アカデミーの窓から、鉄製の植物を模った球体のオブジェをのせた不思議な建物が見えていたと書きました。このブログでウィーン分離派のことにも触れたと思いますが、この分離派の中心的な活動の場であったセ […]

フンデルトワッサーの建築

自分がウィーン美術アカデミーに学んでいた頃、フンデルトワッサーが教室をもっていたので会いに行ったことがありました。フンデルトワッサーは絵画に留まらず、陶芸やタペストリーを制作していました。とくに建築に興味があって環境に関 […]

オットー・ワーグナーの住宅

ウィーンの中心に近いところに青果市場(ナッシュマルクト)があります。その青果市場から、オットー・ワーグナーがデザインした住宅2棟が見えます。当時流行したユーゲントシュテイール様式の植物模様が壁面いっぱいに描かれていて独特 […]

オットー・ワーグナーの郵便局

20代でウィーンに住んで、いろいろな芸術家から刺激をもらいました。帰国後、長い時間をかけて自分なりに刺激を受けたモノを噛み砕き、理解しようと努めてきました。これらが今の作品に繋がっていると思います。その一人が建築家オット […]

ウィーンムジークフェライン

ウィーンムジークフェライン(楽友協会)でのニューイヤーコンサートの模様が毎年TVで衛星中継されます。1980年から85年まで住んでいたウィーンで、このニューイヤーコンサートは何度も立見席で聴いていました。マゼールが指揮を […]

ルーマニア・クリスマス体験

ヨーロッパに住むとキリスト教の存在に圧倒されます。クリスマスの礼拝もそのひとつですが、ヨーロッパの宗教世界の原形が残っているかのような素朴な精神性をもっていたのがルーマニアで迎えたクリスマスでした。まだ共産圏だった頃のこ […]

オーストリア・クリスマス体験

ウィーンで迎えたクリスマスは地味ながら、しっとりとした落ち着いたクリスマスでした。イエス・キリストの誕生を祝う神聖な日だからこそ、家族で団欒をして心安らかに過ごすというものでした。日本のようにケーキのセールもなく、ショッ […]

プッフスバウム通り

10区のプッフスバウム通りというのがウィーンで長く住んだ場所でした。このあたりは外人労働者が多く住んでいましたが、治安は悪い方ではありませんでした。地下鉄Uー1の終点であるロイマン広場から何本か延びた通りのひとつがプッフ […]

下宿の引越し

ベートーベンは生涯50数回も引越ししたと言われていますが、それほどではないにしろ自分もヨーロッパでは数回の引越しを経験しています。初めはドイツのバイエルンにある全寮制の語学学校、次に語学学校のクラスメートでウィーンまで同 […]

空間演出という概念

立体作品は作られた物質だけでなく、周囲の空間をも作っているという概念をもったのは海外での生活体験からでした。日本の大学で彫刻を学んでいた頃は、彫刻そのものの構造や量感を捉えるのが精一杯で、その彫刻が置かれる場所や置かれた […]

平織り絨毯のインテリア

自分が行く前からウィーンで暮らしていた留学生仲間が、古くなった住居の壁に平織りの絨毯を張り巡らして独特な空間を作っていました。平織りは幾何模様があったり、動物や人物が象徴的に単純化されていたりして、その模様と色彩はまるで […]

フローマルクト

所謂「蚤の市」で、日本でも最近はあちこちでこうしたフリーマーケットが開かれています。その先駆けとも言うべきヨーロッパのマーケットはかなり歴史があって、自分の留学生時代には盛んに行われていました。ウィーンは毎週土曜日の午前 […]

アールヌーボー様式

ドイツ語ではユーゲントステイールと言っていました。20世紀初頭に流行した美術様式で、建築から工芸品にいたるまで、それとわかるフォルムをしています。植物の葉・茎や蔦の曲線をデザインに取り入れて、自然に独特な解釈を加えて優美 […]

プロレタリア・アート

1980年代にウィーンに住んでいたので、まだソビエト連邦を中心とする共産圏が隣国にありました。ハンガリーや旧チェコスロバキアに出かけていくと、広場にはよく労働者や兵士を賛美する具象彫刻のモニュメントが置かれていました。腕 […]

アールデコ様式

自分の作品が具象傾向から抽象化していく過程で、歯車という具体的なイメージを使ったのは、あるいは本当の意味で抽象化と呼べるかどうかわかりません。ウィーンではアールヌーボーやアールデコ様式がよく目につきました。歯車はアールデ […]