白金台の「ブラジル先住民の椅子」展

東京白金台にある東京都庭園美術館は、アールデコ様式の装飾が美しい美術館で、そこで展示される作品と周囲の装飾がどのような関係性を持つか、それも楽しみのひとつとして味わえる稀有な空間を有しています。以前、世界各地の民族が作った仮面の展覧会があって、アールデコ様式と土俗的な仮面に不思議な緊張関係が生じて、とても面白かったのを思い出します。今回の「ブラジル先住民の椅子」展も絶妙な緊張関係の空間の中で、展示品が置かれていて楽しく拝見できました。木彫の丸彫りされた椅子に単純化された動物の形体がついているのは、どんな意味があるのでしょうか。図録から関連する言葉を拾ってみたいと思います。「古代社会や未開社会の王、呪術師、戦士といった主権を握る(あるいは主権者たることを目指している人)人々は、この獣の領域とさまざまな象徴をとおして特別な関係を持とうとしてきた。」(中沢新一著)とあるのは椅子に座る呪術師や首長は、尋常ならざる獣の力に触れて、人々に対して己の主権を演出する目的がありました。さらに「動物性と政治論を結ぶ普遍的で奥の深い諸問題に、知らず知らずのうちに観る者を触れさせてしまうところにある。」(同氏著)のが、この展覧会の面白さだと言っています。ただし、現代も作られている動物を模した椅子はどうでしょうか。獣と主権者が切り離された現代にあって、もはやそこに腰掛ける者がいないために椅子は丸みを帯びて、腰掛というよりアートに近づいています。美術館の新館に現在も継続して作られている新しい椅子が数多く展示されていました。日本の彫刻家三沢厚彦氏の作品を連想させる作品だなぁと思いました。

上野の「縄文」展

同じ日に3ヵ所の展覧会を見て回った先日のことを、図録を眺めながら展示品をひとつずつ思い出し、自分なりに縄文について印象をまとめてみました。東京上野の国立博物館で開催されている「縄文」展は、副題に「1万年の美の鼓動」とあるように、縄文時代は旧石器時代が終わってから1万年以上続いた日本特有の時代を、土器を中心に展示した大がかりな展覧会です。日本列島は温暖で湿潤な気候になり、また島国であったことから他国の侵略もなく、安定した平和な時代の中で人々は土を焼いて土器や祭器を制作してきました。その土器に施された縄目文様を指して「縄文」と称しているのです。図録によると「縄文土器の文様は、土器の表面に爪や指頭、縄(撚糸)や貝に加え、木や竹で作られた棒や箆などの道具を使って描かれたり、粘土を貼り付けたりして表現されたものである。~略~縄文が土器の装飾として使われたのは縄文時代草創期後半からで、~略~器面全体を多種多様な縄文で埋めつくすように飾る特徴がある。~略~一方、中期になると、新潟県十日町野首遺跡出土の火焔型土器や王冠型土器に象徴されるような、立体的で力強い装飾をもつ土器が多くなる。~略~後期・晩期には立体的な装飾は影をひそめ、沈線によって構図を描く文様が重用される。」(品川欣也著)とありました。縄文土器には造形美の変遷があり、よく知られた火焔型土器や王冠型土器は、中期の頃に登場してきた土器であることが分かりました。縄文時代を彩ったもうひとつの表現である土偶にはこんな一文がありました。「縄文時代の祈りの美、祈りの形の代表が土偶である。~略~(遮光器土偶は)顔からはみ出すような大きな目が特徴であるが、デフォルメされた身体表現や全身を覆うように施された磨消縄文手法で描かれた文様もまた魅力の土偶である。」(同氏著)これは人間なのか、異星からきた生物なのかと思わせる幻想的な表現に目を奪われたことが思い出されます。縄文作品の数々を美的な視点で見ると、世界に類を見ない斬新な表現があり、現代アートに通じる象徴性や抽象性を、私は感じ取ることが出来ました。私たち日本人のルーツが縄文ならば、私たちは世界に誇れる美意識を持っていると言っても構わないのではないでしょうか。

個展お礼状の宛名印刷

先月の個展のお礼状が出来上がってきました。お礼状の画像は「発掘~角景~」で、カメラマンに撮影してもらったものです。今年の個展の目玉は何と言っても「発掘~根景~」でしたが、「発掘~角景~」は我ながら遊び心に溢れた作品だったと振り返っています。と言うのはテーブルの上面に有機的な抽象形を彫り込んでいるのです。厚板の彫り込みはなかなか楽しくて心が躍りました。そこに砂マチエールと油絵の具を施し、テーブルの下に吊り下がる陶彫部品との調和を図っています。日本の原風景に棚田がありますが、作品のイメージにそんな風景が織り込まれていました。20年以上も「発掘」シリーズをやっていると、当初イメージしていた地中海沿岸のヘレニズムの遺跡は姿を変えて、アジア的な遺跡や風景に変わりつつあります。最近現地で味わったアンコールワットやボロブドゥールの巨大な遺跡群にイメージが移行しているのは自然なことかなぁとも思っています。「発掘~角景~」は西欧的なものからアジア的なものへイメージが移り変わる過渡的な作品なのです。お礼状の画像はシンプルなものに仕上がりました。すっきりした陰影が自分では良いと思っていますが、これはカメラマンのセンスです。案内状も図録も私一人のセンスで出来るものではありません。寧ろ他者のセンスを入れた方が面白くなる場合が多々あるのです。毎年芳名帳を見ながら、宛名印刷をやっていますが、住所や氏名が読み取れない方もいらっしゃって、その方には失礼をいたしております。今晩で全て宛名印刷は終わらず、明日以降もやっていきます。

出雲の「県立古代出雲歴史博物館」

先日、島根県の出雲大社を訪れた際、広大な敷地内に「島根県立古代出雲歴史博物館」がありました。炎天下を避けて同館に入った時は、空調が効いている室内にホッとした記憶が甦ります。同館の展示物で印象的だったのは出雲大社の精密な神殿模型で、建築学の研究者たちによる5体の推定復元案は見れば見るほど興味関心が尽きませんでした。古代日本の形成発展に出雲神話が重要な役割を果たしていたことは、天平時代にまとめられた「出雲国風土記」で明らかになっています。さらに平安時代に書かれた「口遊」には、巨大な建造物に「雲太」「和二」「京三」が挙げられています。「雲太」とは出雲大社本殿、「和二」とは奈良の大仏殿、「京三」とは平安京の大極殿を指します。大仏殿の高さは約45mで、出雲大社はさらに高かったという伝承は本当でしょうか。発掘調査で出雲大社境内から巨大な杉柱を3本組んだ遺構が発見されて、考古学や建築学の分野で論争が起きました。私はこうした推定が大好きで、自分でもあれこれ考えてみたくなるのです。その他同館で印象深かったのは、夥しい数の銅鐸や銅矛・銅剣の展示です。壁一面にぎっしり並べられた銅矛・銅剣に圧倒されながら、整然とまとめられて埋めてあった青銅器は、なぜそうした方法で埋めなければならなかったのか、謎に包まれています。時代は弥生時代、大陸から製造方法が齎され、日本では武器よりも祭器に利用された形跡があるようです。これも建造物同様、私の眼を釘付けにしてしまいました。個人的に「島根県立古代出雲歴史博物館」は刺激的だったと思い返しています。

「怪談四代記」を読み始める

現在読んでいる書籍は、現象学に関する難解なもので、数行読んでは暫し考えなければ頭に入ってきません。意味を咀嚼するのに時間がかかるのです。毎年ひとつは哲学やら心理学に挑んでいて、そこで学んだことは創作行為の思索に少なからず影響を齎せています。若い頃は途中で放棄してしまうことがあって、自分の中途半端な知識欲に嫌気がさしていたのでした。年齢とともに難解な書籍に対する粘り強さと、理解力が育ってきて、容易に諦めることがなくなりました。社会人としての余裕でしょうか、それとも過去を繰り返すまいとする意志でしょうか、読書歴はまさに自分の人生の歩みのようなもので、苦あれば楽ありの道をマイペースで辿っていると感じています。今の自分にとって苦行は現象学理解であるならば、楽なことも必要かなぁと思っていて、今回は「怪談四代記」(小泉凡著 講談社)を読むことにしました。この文庫本は島根県松江に行った折、小泉八雲記念館で購入したものです。著者はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の曾孫にあたる人で、小泉家の思い出話が満載している上、曽祖父の痕跡を訪ねて海外に渡ったり、因縁のある人や場所に思いを馳せたりして、ハーン研究には大変有意義なエッセイになっています。現在の状況を明朝体、手紙や取材した昔話を教科書体で示してあって、分かり易く気楽に読むことが出来ます。どんどん先を読める楽しさに、もはや現象学に戻りたくない気持ちも生まれていますが、とまれ、過去を繰り返すまいとする意志も頭を擡げてきています。これを読んだら再び現象学理解、そしてまた怪談話に戻ろうと思っています。中学生時代に親しんだ小泉八雲著「怪談」の日本語版も松江で購入してきているので、今から楽しみで仕方がないのです。読書は苦あれば楽あり。当分、通勤の友には困らないかなぁと思っています。

週末 4つ目の陶彫成形

昨日は岩波ホールで一日を過ごしてしまったので、今日は朝から工房に篭りました。気温は高くても、このところ空気が乾燥してきたのか、肌に触れる暑さが変わりました。相変わらず作業で汗は流れますが、シャツを替えるほどではなくなりました。今日は新作の陶彫部品4つ目の成形に挑みました。集合彫刻は地味な作業が続きます。コツコツ作っていかなければならない制作工程があるのです。成形の次は彫り込み加飾になりますが、数日置いた方が、陶土が若干固くなって彫り込みが容易になります。土練り、タタラ、成形、彫り込み加飾と制作時間をずらしていくのが理想です。そのために制作サイクルを設定して、次から次へ際限なく制作をしていくのです。陶彫の作業は自分の都合ではなく、陶土の乾燥具合に合わせてやっていきます。それだからこそ我を忘れるほど作業に没頭することがあるのです。素材をいつまでも放っておけるなら、その時の気分次第で作業を止めることができますが、陶土はそれを許してくれません。自分を律するために、怠け者にはちょうどいい素材だろうと思っています。新作は陶彫の山を2つ作る予定です。ほぼ同じ大きさの麓に、高さが異なる山2つ。全部で40個程度の陶彫部品が必要です。今日作ったのが4つ目なので全体の10分の1に当たります。今月はもう一回週末がやってくるので、さらにもうひとつ陶彫部品を加えられます。全部で5個が7月から始まった新作の成果になります。もちろんこんなペースでは間に合いません。制作サイクルのペースアップをしていかなければならず、来月あたりから例年通りの厳しい週末を迎えることになるのです。頑張らなければ、と思いつつまだまだ衰えない意欲にホッとしている自分がいます。

週末 映画「祈り 三部作」鑑賞

週末になりました。今日は創作活動を休んで、東京神保町にある岩波ホールに映画鑑賞に出かけました。家内は演奏活動があったため、私一人で丸一日をかけて映画を観てきました。現在、岩波ホールではテンギズ・アブラゼ監督の「祈り 三部作」と称した代表作品3本をまとめて上映しているのです。朝11時から夕方6時半まで、ずっと映画鑑賞しているのは至福の時間かなぁと思いました。内容は「祈り」(1967年)、「希望の樹」(1976年)、「懺悔」(1984年)の3本で、どれも印象の強い作品ばかりでした。映画と映画の間は総入れ替え制で、約40分の余裕があり、岩波ホールを出て軽食を済ませるのにちょうどいい時間でした。3本の映画は制作年代が異なり、10年前後を経て撮影されたもので、最も古い「祈り」は、モノクローム作品でジョージア(グルジア)にあるコーカサス山脈の険しい岩肌と、そこに点在する石造りの村々の荒涼とした風景が舞台でした。キリスト教とイスラム教という宗教の両側面を扱っていて、ナレーションは詩的な独白、抑えこんだコトバで物語が綴られていきました。私には難解な場面も散見されましたが、主張したい要素が象徴的に凝縮されていたような感覚も持ちました。これは日本初公開だそうで、「祈り」だけを観に来る鑑賞者もいたようでした。「希望の樹」と「懺悔」は嘗て岩波ホールで上映されたらしいのですが、私は初めてでした。2本ともアブラゼ監督の力量が遺憾なく発揮された秀作でした。「希望の樹」は村の古い因習や貧困のために、純真な若者である男女の愛が潰されていく物語でした。悲劇に終わる物語ですが、私には印象的な場面が残り、深く脳裏に刻まれてしまいました。若い頃旅した東欧やトルコ、ギリシャで接した人々の情の濃い交流を思い出しました。「懺悔」は全体主義の粛清の時代に、独裁者と翻弄される人々を描いたもので、ジョージア(グルジア)は旧ソビエト連邦を構成していた国だったので、反スターリンとも取れる寓話を作り上げたのでした。制作当時は公開は認められず、岩波ホールでは2008年になって上映しているようです。ジョージア(グルジア)映画と言えば、私は「放浪の画家ピロスマニ」を思い起こしますが、ジョージア(グルジア)に映画が誕生して110年にあたる今年、こんな企画をしていただき、日本とは宗教も文化も異なる国を知ることが出来ました。3本の映画とも詳しい感想は後日に回したいと思います。

小泉八雲記念館・旧居にて

先週、島根県松江に旅行した際に、小泉八雲記念館・旧居を訪ねました。小泉八雲はパトリック・ラフカディオ・ハーンとして1850年にギリシャの島で生まれました。父はアイルランド人、母はギリシャ人でした。当時のアイルランドは独立前だったので、ハーンはイギリス国籍を有していました。16歳の時、遊戯中に左目を失明、ハーンの写真が右から撮影されたものが多いのはこんな理由があるとは、私は知りませんでした。単身アメリカに渡り、ジャーナリストとして認められたハーンは、カリブ海のマルティニーク島で多様な民俗文化に接し、やがて「古事記」を通して日本文化に辿り着き、1890年に日本の土を踏みました。アメリカの新聞社を辞め、島根県尋常中学校英語教師となり、そこで知り合った士族の娘、小泉セツと結婚、日本に帰化したのでした。これが新聞記者ラフカディオ・ハーンから作家小泉八雲になった経緯です。ハーンはセツが話して聞かせる伝承文学に惹かれ、「怪談」をまとめあげました。「ヘルン氏(ハーン氏)は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であつた。」(西田幾太郎)と言われる通り、「怪談」は日本の伝承文学として不動のものとなっています。私は中学生の時に「怪談」を読みました。これは英語で書かれたものだったので、英語を学ぶ第一歩として原語読破を試みる友人がいましたが、私は敢えて苦労はせず、日本語のものを読みました。その中の「耳なし芳一」の話は、夢に出てきて魘されてしまったことを思い出します。小林正樹監督による映画「怪談」も観ましたが、映像より自分のイメージの方が強く、今も当時の文章より紡ぎだしたイメージを思い起こすことが出来ます。さすがに私の書棚には中学校時代の書籍はなく、小泉八雲記念館で「怪談」を含めた数冊の書籍を購入しました。50年を経て再読する小泉八雲ワールド。旧居では坪庭で蛙が鳴いていて、不思議と心が癒されました。そこにあった机が妙に背が高かったのは、目が悪かった小泉八雲が原稿用紙に顔を近づけて執筆したことによるもので、作家の癖が分かって親近感を持ちました。

夏の休庁期間の最終日

今年は職場で長い休庁期間を設定しました。私たち職員は週末以外は勤務を要する日でしたが、夏季休暇や年休が取得し易い環境を作ったのでした。管理職といえども私も長い休みを取らせていただきました。期間中は県外に旅行に行ったり、創作活動に励んでいました。職場を離れることで夢現な生活を送らせていただきました。気分が爽快になっていたところに、夕方になって職場を統括する本部組織から連絡があり、私の職場で用務を受け持つ職員のお子様が交通事故で被害に遭ったことが分かりました。幸い命に別状はなくホッとしましたが、職場が留守番電話の対応をしていたため、本部へ連絡がいき、私の携帯電話が鳴ったのでした。今年の長い休庁期間での連絡はこの一件だけでした。今日で夏の休庁期間が終わり、次の休庁期間は冬の年末年始です。まとまった休みが取れる環境は、今後も他の職員にも必要だろうと思っています。私が自ら長い休みを体験して、本当にそう思いました。創作活動に関しては、この休庁期間で作った陶彫部品は2つです。7月末に作った陶彫部品を合わせると3つになりますが、制作目標ではもう少し多く作る予定でいました。酷暑を言い訳にしてしまいますが、工房に長く留まれなかったのが原因です。蒸し風呂のような中で、陶彫のあらゆる作業は苦戦を強いられました。若い時はもう少し頑張れたように思いますが、20年以上も前のイメージで今も作業をやっていくのは危険かもしれません。新作は40個くらいの陶彫部品で形成していく集合彫刻です。部品の数がハッキリしないのは、完成に近づくに従って部品の追加や訂正があるためです。原初のイメージを効果的に生かすため、細かいところは決めていないのです。この期間に6つ作れればと思っていたのですが、結果は半分になり、この皺寄せが年末年始の休庁期間にやってくるのではないかと危惧しています。これからはまた例年通り週末だけの制作になります。今月はまだ終わっていないので、残りの週末でどこまでやれるか頑張っていこうと思います。

制作休んで都内の展覧会巡り

夏季休暇で創作活動に本腰を入れているところですが、今日は一日制作を休んで、家内と都内の博物館や美術館に出かけました。一日3箇所の展覧会を巡るのは久しぶりでした。まず最初に訪れたのは東京上野にある東京国立博物館。マスコミでよく宣伝されている「縄文」展を見てきました。「一万年の美の鼓動」という副題が示す通り、貴重な縄文土器や土偶が多数展示されていて、日本人独特の美意識を改めて感じることの出来る絶好の機会でした。縄文土器は嘗ては考古学の資料くらいにしか扱われていなかったのが、芸術家岡本太郎の著した「縄文土器論」等で美的価値が認められるようになりました。美術作品として眺める縄文土器は、私たちの美的感覚を刺激し、燃え上がる生命力を読み取ることが出来ます。私は陶彫を作っているおかげで、古代人の造形力に人一倍強い感動を覚えます。詳しい感想は後日改めるとして、この日はお盆休みのため、博物館は大変混雑をしていました。午前中は入場制限もあり、会場内も大勢の鑑賞者で溢れていました。人を掻き分けて見た土器や土偶でしたが、人混みが気にならなくなるくらい展示品に魅せられてしまいました。次に向ったのが東京目黒にある東京都庭園美術館でした。ここで開催中の「ブラジル先住民の椅子」展も、縄文と同じ始原的な力に溢れた椅子の数々を見ることが出来ました。木彫による椅子は、家具なのか彫刻なのか、いずれにしても型はあるものの制作者の個性が感じられる作品ばかりでした。この動物を象徴的に模した椅子は現在も作られていて、新館には現在の作品が多数展示されていました。この展覧会も詳しい感想を後日改めたいと思います。最後に向ったのは東京六本木の森美術館でした。六本木ヒルズ52階にある森美術館は、ユニークな企画が多いため、いつも気にかけている美術館のひとつです。今回の「建築の日本展」も企画の面白さと大掛かりな再現展示で見応えのある展覧会になっていました。日本の建築ではなく「建築の日本」としたところにこの展覧会の意図があるように思いました。つまり副題にある「その遺伝子のもたらすもの」というわけで、現代日本建築の活況の淵源を、古代から現代に至る繋がりの中で見ていこうとする姿勢です。これも縄文と同じ日本独特な風土や資源、そして日本人の持つ造形力に焦点を当てている展覧会と言えると思います。これも詳しい感想は後日改めます。今日は内容の濃い3つの展覧会を見て回りました。それぞれのインパクトの強さに些か疲れました。3冊の重い図録を携えて帰ってきました。これからそれぞれの展覧会ごとに印象をまとめていこうと思います。

映画「万引き家族」雑感

昨晩、常連にしている横浜のミニシアターに映画「万引き家族」を観に行ってきました。映画の帰りは家内と映画の話題が尽きず、この映画がそれだけ面白かった証なのだと思いました。足の踏み場もない雑多な家具什器に囲まれた狭い平屋に、祖母、父母、母の妹、長男という家族が住んでいました。まず映画で描かれるのは街のスーパーマーケットで鮮やかな手口で万引きをする父子の連携、その帰路に父が気を留めた幼い女の子の虐待を受けているらしい現場、その子を連れ帰り、何と家族に加えてしまうのでした。そこで明かされていくのは、この家族は全員が血縁関係はないということ。社会や家族から疎外されたり、捨てられたりした者が集まった偽の家族だったのでした。素性とは関係なく気儘に言い合いをしたり、慰めあううちに、女の子の心は次第に解かれ、明るくなっていきました。血縁は家族を繋ぐ絶対条件なのか、「万引き家族」は人間臭い温かさや気楽な関係によって、家族のあり方を見つめ続けた映画でした。この家族は祖母の年金を頼りにしていました。言うなれば年金の盗人集団です。父は日雇いでしたが、足を骨折。母は工場勤務でしたが、クビになりました。母の妹を名乗る若い子は風俗で働き、長男は小学校へ行かず、万引きで生計を助ける日常がありました。ある日、一家で海に出かけ、遊ぶ場面が描かれました。そこで波と戯れていた家族を見て、他人同士は「期待しないからいい」という祖母の何気ない台詞が印象的でした。その祖母が亡くなり、家の軒下に埋葬して隠蔽を図る家族。長男が女の子を連れて駄菓子屋で万引きを始めると、妹にそんなことはさせるなと老店主に諭され、次第に万引きに懐疑的になっていくのでした。そこから歯車が狂い始めてきます。長男は万引きで逃走する時に足を折り、店員に捕まって入院。児童相談所の職員から聞き取りで、父母の素性が明らかになってきます。盗みや死体遺棄など欺瞞の上の成り立っていた日常。警察や行政の型に嵌った問いかけで、映画の鑑賞者である私たちはこの家族に対する微熱のある思い入れが醒めてくるのを感じます。犯罪はやってはいけないけれど、人と人との関係はどうあるべきか、女の子がいなくなって慌てた両親のインタビューが放映されて、女の子は両親の許に帰りますが、そこでは親に相手にされず、女の子は孤独に戻っていくのでした。この映画はベテラン俳優の力量が発揮されたところと、子ども達の自然な演技が見事に発揮されたところが相俟って、高い完成度を誇っていると感じました。国際的な賞に輝いたのも頷ける映画だったと思っています。

連続して制作が可能な日々

「働き方改革」により今年は職場が長めの休庁期間を設定し、私も夏季休暇5日間の他に年休をいただいて、今週は創作活動に邁進しようと思っています。連続して制作したのは年末年始の休庁期間以来です。たとえ数日でも毎日制作が出来ると弾みがついて、陶彫制作には大変有効です。もちろん二足の草鞋生活がなければ、年間を通して日々制作しているわけですが、今は限りある時間を有効に使うことに神経を注いでいるのです。今日の午前中は土錬機を回し、混合した陶土に手で菊練りを施していました。先日、新しい陶土が栃木県益子町から届いたので、早速保存用の陶土を作ることにしたのでした。土練りは毎回陶土40キロくらいで行います。これは陶彫部品2個分に充たる分量です。私は土練りした陶土を長く保存せず、こまめに土練りを繰り返す方法を取っています。陶土を成形し易い状態にしておくには、これが最良のやり方かなぁと思っています。朝晩凌ぎ易くなったとはいえ、まだまだ酷暑が続いていて、工房にいると汗が噴出してきます。午前中でシャツはびっしょりになり、菊練りしている陶土の上に汗が滴り落ちていました。工房には扇風機と小さな冷蔵庫があります。冷蔵庫は水分を冷やしておけるので助かります。昼に一旦自宅に戻り、シャツを替え、飲み物を追加しました。午後は昨日作っておいた大きなタタラを使い、陶彫成形を行いました。この作業でも汗がシャツに染み出してきます。土練りのような単純な肉体労働より、神経を使う成形作業の方が、噴出す汗が多いのではないかと思いました。朝8時半から始めた作業を午後3時に終えることにしました。工房にいた時間は6時間少々、暑い中での作業としてはこれ以上無理できないかなぁと判断しました。夜は家内を誘って、久しぶりに横浜のミニシアターに映画を観に行ってきました。観た映画はカンヌ国際映画祭でパルムドール賞に輝いた是枝裕和監督の「万引き家族」。人と人との絆とは何か、ある一家の秘密が紐解かれていくうちに、思わず心が引き込まれていきました。現代日本の人と人との関わり合いを、一緒に暮らす家族を通して抉り出していく設定は、家内や私に何かを考えさせる契機を与えてくれました。詳しい感想は後日に回します。今日は夏季休暇らしい充実した時間を過ごしました。

週末 休息を入れながら制作再開

昨日までの一週間は島根県や山形県に出かけていて、楽しかった分、疲労も溜まりました。今朝は飼い猫のトラ吉を預けた近隣にある動物病院へ行きました。そこはホテルを兼ねていて、大変重宝しているのです。果たしてトラ吉はどうなっているのか、1週間はトラ吉にとって長かったようで、人懐こさが倍増していました。猫はどのくらいのことを記憶しているのでしょうか。暫くして自宅に帰ってきたことを認識したらしく行動が次第に落ち着いてきました。トラ吉は常に私たちの傍にいて、1週間預けられたことで、私たちとの距離が短くなったような気がします。私は久しぶりに工房に行きました。7月に作っておいた陶彫部品がいい具合に乾燥していました。新作の方向性を決める大事な第一作で、乾燥が進んだ成形を見ていると、これでいけると確信しました。明日から新しい部品の成形を始めるので、今日は大きなタタラを複数枚作りました。今日は酷暑が一段落して、やや気温が下がりましたが、それでも陶土を掌で打って伸ばしていくと、汗が噴出してきました。旅行の疲れがあって、今ひとつ調子に乗れず、明日の成形の準備が終わったところで、工房を後にしました。制作中に度々休息も入れました。陶土に触れていると不思議と元気が湧くのですが、作業はいつもの半分くらいに抑えました。夏季休暇5日間に加えて今年は年休4日間をいただいています。夏季休暇は島根旅行で3日使い、山形旅行は年休で処理していました。明日から夏季休暇の残り2日間と年休2日間を取得する予定です。これを創作活動に充てようと思っているのです。陶彫部品の成形や土練りがどこまで出来るのか、またその4日間のうちの1日を割いて家内と都心の展覧会を回ることにしています。出来るだけ制作を先に進めようと思っていますが、今年の異常な酷暑はどのくらい続くのでしょうか。涼しくなってくれれば、さらに長く工房に留まる事が出来て制作が進みます。こればかりは天に祈るしかないのですが…。

山形県へ② 「山の日」に蔵王へ登る

昨日から山形県上山市に来ています。今日は「山の日」です。山形県と宮城県に跨る蔵王にサイトユフジさんの案内で登りました。私の家内はユフジさんと大学の専攻も同じで、直系の後輩になるのです。空間演出を学んでいるのに、ユフジさんはテンペラ画家になり、家内は胡弓奏者になりました。因みに同じ職種の後輩は、同じ専攻出身で木彫家になっています。私だけが彫刻専攻でそのまま彫刻家になっていて、まさに王道を歩んでいるのが私のちょっとした自慢です。蔵王の頂上には御釜と呼ばれる火口に水を溜めた名所があります。私は小さい頃、両親に連れられてここにやってきました。あれから何年過ぎたのか忘れましたが、生憎今日は霧に覆われて御釜は見えませんでした。そのまま蔵王温泉に行き、スカイケーブルに乗ってドッコ沼湖を見てきました。冬になれば有名なスキー場がオープンし、大勢のスキー客で賑わう場所も、夏は人が少なく、この季節に客を呼び込むための工夫が必要かなぁと思いました。蔵王から降りてきて、嘗てユフジさんが勤めていた東北芸術工科大学に立ち寄りました。広大なキャンパスに恵まれた施設があって学生に羨ましさを感じました。今日は土曜日で、しかもお盆のため人影がありませんでした。昼食は「山形一寸亭」という肉そば店に行きました。待ち時間がある人気店のようで、期待通り冷やした肉そばが美味しいと感じました。山形県は野菜や肉が豊富で地酒の種類も多く、健康的な食事が目に付きました。そういえば有名な米沢牛も山形県産だったなぁと思いました。帰りの新幹線の時間を見測りながら、夕方になって山寺に案内されました。奥の院まで歩く時間的余裕がなく、根本中堂に参拝して山寺を後にしましたが、時間が許せば登って見たい衝動に駆られました。かみのやま温泉駅でユフジさんと別れて、帰途につきました。2日間に亘った山形県への旅行が終わりました。前半は島根県、後半は山形県と旅行してきましたが、印象に残る場面が多く、充実した1週間だったと思い返しています。お世話になったサイトユフジさん、有難うございました。

山形県へ① お世話になった人の墓参り

お盆休みが始まるため、山形新幹線の指定席確保が困難で、朝から予定していた山形県行きが午後になりました。山形県上山市にはもう30年以上も交流のある画家サイトユフジさんが住んでいます。ユフジさんとは20代の頃、私が滞在していたウィーンで知り合いました。ユフジさんは蟻や蜜蜂を大量に画面に描き込む精密画家として内外で活躍していました。テンペラ画やその他の混合技法を使った精密画はウィーンを代表する幻想画家たちが得意としたもので、街のギャラリーにはそうした絵画が溢れていました。ユフジさんがウィーンを滞在先に選んだ理由がわかりました。当時、ユフジさんの奥様が大使館に勤めていて、私にはサイト夫妻の生活は安定した優雅なものに見えました。私は5年間の滞欧生活でしたが、サイト夫妻は10数年ウィーンにいました。サイト夫妻がウィーンを引き上げてきた年に、私は横浜で彼らに会いました。お子さんが学齢期に達したことが帰国の理由になったようです。ウィーンでは幾度となく料理を振舞ってくれたり、アドバイスを頂いた奥様のみえ子さんが3年前に亡くなり、私はどうしてもお墓参りがしたかったのでした。今回それが叶いました。午後2時半にかみのやま温泉駅に到着、ユフジさんが出迎えてくれました。墓地は山形市内のほぼ中央にありました。スゥーデン大理石に「花の碑」というコトバを刻んだ瀟洒な墓石に花を手向けてきました。夕食はユフジさんのアトリエ兼住居にお邪魔しました。「男の料理ですが…」と言っていたけれど、なかなかどうして愛情の篭った手料理を振舞ってくれました。ユフジさんのアトリエ兼住居は小高い丘の上に建っていて、まさにアトリエ中心の間取りになっていました。ユフジさんの絵のモチーフになりそうな雑貨や資料が、適度に使い易い配置で空間を占めていました。生前のみえ子さんはアジア系雑貨を扱う店をやっていたようで、そんな話で尽きない夜になりました。アトリエの在り方から創作姿勢まで、ユフジさんは恩師の池田宗弘先生によく似ていると感じました。大学の教壇に立っていられたことも、奥様を先に亡くされたのも同じです。しかも私たち夫婦は奥様がいなくなって漸くアトリエを訪ねているのです。これも同じです。ユフジさんと池田先生に接点はありませんが、私はユフジさんを兄、池田先生を父と考えることにしました。仕事から帰ってきたお子さんに車でホテルまで送ってもらいました。ホテル到着は深夜で日付が変わる間際でした。

Exhibitionに2018年個展をアップ

今年7月の個展も無事に終えることができました。既に来年に向けて新作に取り組んでいますが、まずは今年の個展が終わってホッとしているところです。私のホームページにExhibitionがあり、毎年個展会場の撮影をカメラマンにお願いし、それをアップしているのです。今年の会場風景の画像が出来上がったので、ホームページにアップしました。画像で見ると「発掘~根景~」は随分大きかったんだなぁと改めて思っています。テーブルの設置を数人がかりで行い、困難な場面もあって苦労しました。これ以上危険なテーブルを作るのは止めようと思ったほどでした。相変わらずギャラリーせいほうは白い壁が美しく、また広い空間があるので作品が映えます。図録撮影のために野外工房や室内工房で組立てた「発掘~根景~」と、ギャラリーで見る作品が違って見えるのが不思議です。彫刻は置かれる場所によって作品が変わると言っても過言ではありません。そういう意味でギャラリーせいほうは絶好の空間を有する画廊なのです。ここで今まで13年間、13回も個展が開催できたことを幸せに思います。画廊主の田中さんの企画許可もさることながら、まず自分自身が健康でないと継続は難しいと思っています。加えて意欲の継続も問題です。どこで意欲が絶えるのか、自分では今のところ分かりませんが、個展開催中も次の新作を作り続けている姿勢があればこその13年間だったと振り返っています。習慣になっていると言えばその通りですが、横浜市公務員管理職との二足の草鞋生活も、自分の創作活動の中に組み込まれていて、この調子でいけば当分大丈夫なのかなぁとさえ思ったりしています。私のホームページに入るのは左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉にExhibitionが出てきますので、そこをクリックすれば2018年個展の画像を見ることが出来ます。画像は動画でもご覧いただけます。ご高覧くだされば幸いです。

島根県へ③ 出雲大社参拝

島根県観光も今日が最終日。島根県でどうしても欠かすことが出来ない場所が出雲大社です。私は伊勢神宮には数回訪れているのに出雲大社は初めてでした。やはり横浜からすれば出雲大社が遠方にあるというのが、なかなか来られない理由です。出雲大社参拝と言うのが今回の旅行の目的でした。日本人としてどうしても一度は訪れておきたい場所が出雲大社だと私は思っていて、昔から日本人としてのルーツを探ることに興味関心を持っていました。「平成の大遷宮」を以前テレビで見て、平成20年4月から工事が始まり、御本殿の麗しく清新な容姿に生まれ変わった状況に感動を覚えました。60年に一度8年にも及ぶ御社殿の御修造遷宮等が行われるのは、世界的に見ても珍しい社殿の在り方ではないかと思えます。出雲大社は常に蘇生する伝統に支えられてきたのです。「八雲立つ出雲の国が神の国・神話の国として知られていますのは、神々をおまつりする古い神社が、今日も至る処に鎮座しているからです。そして、その中心が大国主大神さまをおまつりする出雲神社です。」と参拝案内にあります。出雲神社がいつ造営されたのかは謎に包まれていますが、大国主大神が築いた「豊葦原の瑞穂国」が私たちの祖なのでしょうか。それはともかく出雲大社へ入ると不思議な気分になれたことは確かでした。御本殿の切妻屋根が美しく流麗な景観を持っていて、見ているだけで爽やかな快さがありました。有名な大注連縄は神楽殿にありました。神門通りで名物の「割子そば」を食べました。次に向ったのは「古代出雲歴史博物館」で、出雲大社から歩いて数分のところにありました。ここでは展示してある銅剣、銅鐸、銅矛の数の多さに圧倒され、古代本殿の復元模型に興味を覚えました。詳しいことは後日改めます。夕方、帰りの飛行機が関東に接近している台風13号のため、飛ばないのではないかと危惧されました。羽田ではなく関西国際空港に行き先を変更する可能性があるとアナウンスがありましたが、実際は雨風の中を30分ほど遅れて羽田空港に降り立ちました。途中機体はかなり揺れましたが、無事に到着できて内心ホッとしました。出雲大社のご加護があったのでしょうか。島根県3日間の旅行は充実していました。夏季休暇前半が終了してしまいました。

島根県へ② 松江城と周辺散策

島根県に来て2日目です。出雲市にあるホテルを出て、レンタカーで松江市に向いました。途中に大きな宍道湖があってドライブコースとしては最高でした。今日は松江城とその城下町散策をしようと決めていました。堀川を巡る遊覧船があると情報を得て、松江城近隣の駐車場に車を留めて、乗船券を購入しました。船は内堀と外堀を巡る1時間程度のコースで、城の周辺を堪能できる情緒のある観光スポットでした。そこから見えた伝統的な家屋は小泉八雲の旧居や記念館であることを知り、訪ねてみたいと思いました。川辺に佇む水鳥や亀に癒されつつ堀川巡りを終えました。松江城は黒塗りを基調とした平山城で、急な階段を登ってみると天守が広いと感じました。天守の平面規模では全国2位だそうで、街全体が一望できる心地よい場所にありました。2階分を貫く通し柱を効果的に配置し、上層の重さを分散させながら下層を支える構造となっていることが松江城の特徴で、こうしたことに興味が湧けば、城マニアにもなれるかなぁと思いました。城を出ると、迎賓館として建てられた興雲閣があり、そこで休憩した後、小泉八雲の旧居や記念館の方へと歩いて向いました。小泉八雲は私が中学生の頃に愛読した作家で、代表作「怪談」は自分が中学生であったにも関わらずビジュアル化したい衝動に駆られた書籍でした。当時は宮沢賢治の童話も同時期に愛読していて、私は勝手にビジュアル化したい東西巨頭と呼んでいました。小泉八雲(ラフカディオン・ハーン)については稿を改めたいと思います。その堀川の並びには武家屋敷がありました。今月にリニューアルしたそうで土壁や畳が新しくなっていて、武家屋敷なのに新築の匂いがしていました。さらに歩いていくと松江歴史館があり、和菓子職人が実演をしていたのに吸い寄せられて、喫茶室で和菓子と抹茶をいただきました。炎暑の中を歩いてきたので、ホッと一息つきました。城下町はどこも和菓子が有名で、松江も例外ではありませんでした。松江歴史館の裏に聞きなれない演芸館がありました。ホーランエンヤ伝承館という建物でした。松江では10年に一度多くの船に乗った豪華絢爛な大名行列があるそうで、その映像を伝承館では流していました。長い練習期間と派手な衣裳、映像を見ると大変な賑わいで、かなり大きな伝統行事であることが伺えました。夕方、駐車場に車を取りに行って松江を後にしました。出雲市駅前にレンタカーを返さなければならず、その後は一条電車というローカル線に乗ってホテルに帰ってきました。

島根県へ① 足立美術館雑感

島根県へ行ってみようと思った理由の1つが、足立美術館の存在でした。美術とはあまり縁のない知人たちが、美術館の庭園の豪華さに驚いた話をしてくれるので、まとまった休暇を取って一度足立美術館に足を運ぼうと思ったのでした。横浜からすれば遠方にある美術館で、過去複数回出かけたことがある香川県イサム・ノグチ庭園美術館に匹敵する場所だと感じました。朝10時20分に家内と羽田空港を発ち、11時40分に出雲空港に到着しました。レンタカーを2日間借り、まずは安来市にある足立美術館へ向いました。都心に比べると車が少なく、高速道路沿いの自然も豊かで快適なドライブでした。目指す足立美術館は広大な田畑の中に建っていました。「庭園もまた一幅の絵画である」と実業家であった美術館創設者が申す通り、その5万坪の巨大日本庭園は、鑑賞者を圧倒するのに充分な迫力を持っていました。枯山水、白砂青松、苔庭や池に回遊する鯉など、あらゆる日本庭園の美が結集していました。借景に使われる山々や遠方の滝なども演出されたものではないかと思いました。また木々一つひとつの刈り込みや敷き詰められた白砂の美しさを見ると、どのくらいの頻度で手入れをしているのか、職人は何人いるのか、とりわけ松の手入れは機械が使えず、職人の手作業にかかっているため、その手間が半端ないことを私はよく知っています。亡父が造園業に携わっていたので、ついこんなことを考えてしまう自分がいました。美術館内のガラス張りの喫茶室「大観」で食事をとって、横山大観を初めとする日本画のコレクションを見ました。秀作が多いのに驚きました。また河井寛次郎や北大路魯山人のコレクションも充実していました。鑑賞者の中には外国人観光客が多くいるのも頷けました。米誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」で15年連続でランキング1位、仏の旅行ガイドで三ツ星になるなど、足立美術館は海外での評価が高く、庭園の行き届いた管理維持力が賞賛されているようです。3時間近く美術館にいて、隣接する安来節演芸館に立ち寄って、宿泊地である出雲市に戻って来ました。夕食には出雲名物の「割子そば」を食べました。蕎麦好きの私は出雲独特な黒ずんだ麺に風味を感じました。

週末 夏季休暇をどう過ごすか?

明日から夏季休暇を取ります。来週は島根県2泊3日と山形県1泊2日の旅行へ出る計画です。島根県へは飛行機で、山形県へは新幹線で行こうと思っています。例年東南アジアへ旅立っていたのですが、今年は国内旅行に決めていました。それぞれ目的別に行く県を決めました。旅行から帰ってきてから、新作に取り組みます。工房は空調がなく耐えられない暑さになるので、制作三昧は無理だろうと判断しました。今日も工房で作業できたのはせいぜい1時間程度でした。工房にいると忽ち汗が滴り落ちて、頭がボーとしてきます。今月はこのまま酷暑が続くのでしょうか。新作の陶彫部品をあと5点作る予定でいますが、この暑さの中では厳しいかもしれません。今日の夕方は自宅の冷房の効いた食卓で、RECORDの山積みされた下書きの中から、遅れを取り戻そうと気合を入れて制作をしていました。あまりに暑い日は陶彫の作業を諦めて、自宅でRECORDをやろうと思います。夏季休暇の旅行中は陶彫制作もRECORD制作も出来ません。またもやRECORDは下書きばかりになってしまいます。携帯するのに絵の具は難しいため、鉛筆による下書きが先行してしまうのです。それにしても工房がこんなに暑いと思ったことは過去にありませんでした。工房は農業用倉庫として建てたものなので、ほとんど気温は野外と変わりません。夕方まで工房にいると野外の方が涼しいと感じることもあります。そんな理由で余裕を持っていると、締め切り間近になって慌てることになります。酷暑であっても夏季休暇中に新作を先に進めておきたいと考えています。

週末 研修から帰り、陶土が届く

昨日から横浜市の管理職で宿泊を伴った研修を行っていて、今朝自宅に帰ってきました。私がこの役職になる前は、毎年上司が参加していた宿泊研修は慰安旅行くらいにしか考えていませんでしたが、実際にこの立場になってみると、講演会や小グループによる意見交換を行っていて、しっかり研修をしているのがわかりました。外側から眺めているのと内側に入ってみるのでは大きな違いがあります。この宿泊研修が終わると、漸く夏休み気分になってきます。来週から職場は休庁期間に入り、私も夏季休暇を取らせていただきます。今日は昼ごろ、陶土が工房に600キロ搬入されました。栃木県益子町にある明智鉱業から送っていただいた陶土です。例年冬に陶土が不足してきて、明智鉱業に注文のFAXをしていますが、「発掘~根景~」は相当な分量の陶土を使ったため、早くも陶土が足りなくなっていたのでした。明智鉱業からは20年以上にわたって陶土を購入してきています。東京銀座のギャラリーせいほうもそうですが、明智鉱業ともつき合いが古くなりました。因みに横浜の懇意にしている運送会社とも、撮影をお願いしているカメラマンとも古いつき合いになりました。20年以上前は益子町に出かけていった折に、明智鉱業に立ち寄って、あれこれ陶土の種類を物色し、いろいろな陶土を少しずつ購入し、混合のテストピースを作っていました。現在の赤錆色の混合土に落ち着くまでに何年かかっただろうかと思い返していますが、東京銀座の個展は全て変わらない混合土で焼いたもので発表しています。600キロの陶土がやってきたことで創作へのパワーが湧いてきます。新作も決してサイズが小さいわけではありません。あるいは「発掘~根景~」以上に陶土を使うことになるかもしれません。

8月RECORDは「収」

私は律儀な性格なので、箱の中に何かがきちんと収まっているのを快く感じます。陶彫による集合彫刻にしても展示が終われば分解をして、自分が作った木箱に収めて、工房の倉庫に仕舞ってあります。今月は適度な大きさの箱にモノが収納されている状態を表現してみようと思い立ち、まずはRECORDでやってみることにしました。学生時代に美術雑誌で見たオブジェは、鞄に収まっていて運搬可能な作品であると説明がありました。鞄を開けるとその中に展開する造形的な世界観が、何とも素敵でした。碁盤の目のようになった棚に、ひとつずつ異なるオブジェが置いてあって、それぞれにドラマがあるような作品を見たこともあります。関連があるようでいて、まるでないような不思議な感じがしました。作者の中では統一したコンセプトが流れているのかもしれません。区切られた空間にモノが収まっていると、思わず注目してしまう心理が働くのを利用して、ボックスアートが登場してきました。アメリカ人造形作家コーネルのボックスアートに魅力を感じるのは、箱の中の空間という区切りが関係していると私は思っています。そこで、今月のRECORDのテーマを「収」にして、自分なりのボックスアート平面版を作ってみることにしました。今月は夏季休暇があるので、今まで遅れた分のRECORDもその際全て完成させていこうと思います。

AKARIの展示について

先日、出かけた東京オペラシティ アートギャラリーの「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へー」展。日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチは、従来の彫刻の概念に囚われないさまざまな表現媒体によって、世界的な評価を得た巨匠です。その中でプロダクト・デザインに属する作品があり、若い頃に一時プロダクト・デザイナーを志したことがある自分は、憧れにも似た気持ちを持っています。私が注目したのは日本の提灯を造形化したAKARIでした。図録によると「照明によるモダン・デザインを考案することを目指していたノグチは、美濃地方の良質な和紙と竹を用いた提灯製作に魅せられた。」とあり、伝統的な岐阜提灯がAKARIの下敷きにあったことが分かりました。1985年の東京での展覧会で、建築家磯崎新が会場を手がけた演出方法が図録に掲載されていました。「桂離宮などからヒントを得た和室や、御影石のスレートを用い水面に見立てたコーナー。AKARIを蚊帳のように布や格子で隠したり、壁にアブストラクトな切り込みを入れて背景にあるAKARIを借景のようにトリミングしたり、意外性に富む展示であった。」(木藤野絵著)AKARIは竹の構造体に和紙を貼り、その中に照明を仕込んだモノで、柔らかな光とフワッとした軽量感に包まれた造形です。西洋的な空間よりも、和室の畳の上に置かれることで、美しい空間を醸し出すと私は思っています。薄暗がりの中に点在する光の揺らぎ。私は幼い頃に近所の祭礼で見た提灯行列を思い出し、「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へー」展の中では、遠い記憶を擽られるような異質な感じを持った一室だなぁと思いました。

造形感覚を刺激する8月

8月になりました。私は夏季休暇5日間と年休4日間をいただいて、通常の勤務から離れ、造形感覚を刺激する機会を得たいと考えております。例年東南アジアへ数日間の旅行に出かけていましたが、今夏は海外には行きません。東南アジア各地の世界遺産や有名な博物館は、それなりに刺激的で私に豊かなイメージを齎せてくれました。今夏の前半は島根県の出雲大社と足立美術館、後半は山形県に行く予定です。山形県はウィーン時代に知り合った画家サイトユフジさんの郷里です。サイトさんの奥様が亡くなられたのでお墓参りを兼ねています。サイト夫妻にはウィーン時代にお世話になっていて、私の個展にも山形県からわざわざ来られたので、一度お訪ねしようと思っていたのでした。旅行の合間は制作三昧の予定です。夏に少しでも陶彫制作を進めておかないと秋以降工程が厳しくなってしまうのは自明です。RECORDは今までの下書きを何とか完成させたいと願っています。鑑賞は東京で大きな展覧会が複数開催されているので1日かけて回りたいと思っています。映画鑑賞も東京や横浜にあるミニシアターに出かけていきます。読書は現象学関連の書籍に引き続き挑みます。これらは今月では到底読み切れないだろうなぁと思っています。暑い8月に熱い心で刺激を求めるつもりです。 

酷暑の7月を振り返る

今日は7月の最終日です。7月は毎年ギャラリーせいほうで個展を企画していただいているので、私にとっては年度替わりのような気分がしています。新たな作品を作り始める1ヵ月でもあるのです。実際の制作はもっと前から取り組んでいますが、新作に心底埋没できるのは今月からです。新作の陶彫部品のひとつを成形してみました。この方向でいこうと決めるのも今月です。ここから来年7月の個展に向かって走り出すのです。個展準備に追われた1ヵ月でもあったので、鑑賞の機会は充分ではなかったと思いますが、それでもお台場の「デジタル アート ミュージアム」でチームラボによる映像体験をしてきました。「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へー」展(東京オペラシティ アートギャラリー)、職場の人による絵画グループ展(横浜関内)、大学の同期だった彫刻家のグループ展(東京京橋)にも足を運びました。映画鑑賞では「ビューティフル・ディ」(シネマジャック&ベティ)、「ゲッベルスと私」(岩波ホール)に行きました。多忙にも関わらず、まずまずの鑑賞だったかなぁと振り返っています。RECORDは厳しい状況に追い込まれています。個展準備の時は、日々制作すること自体に無理が生じ、また下書きだけのRECORDが食卓に山積みされているのです。これは仕方ないかなぁと思いつつ、来月はこれを解消したいと思っています。読書はフッサールの現象学に取り組み始めましたが、難解な語彙とその意味するところに悩まされ続けています。途中放棄だけは避けたいと思いながら、少しずつ読み進めています。現在は日本人哲学者によるフッサールの現代的解釈を読んでいますが、次にフッサールの翻訳本に挑みたいと思っています。

初台の「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へー」展

最近まで読んでいた「イサム・ノグチ 庭の芸術への旅」(新見隆著 武蔵野美術大学出版局)の印象も覚めやらぬうちに、東京初台にある東京オペラシティ アートギャラリーで表題の「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へー」展が開催されていたので、早速見に行ってきました。世界的に活躍した日系アメリカ人の彫刻家イサム・ノグチは度々私のNOTE(ブログ)に登場していますが、作品を見るたびに新たな発見がある不思議な巨匠だなぁと思います。図録から文章を拾ってみると「『眼』に偏重したモダニズムに反旗を翻して、ノグチは、五感、そして誰にでも容易に体験出来る、『触覚的記憶』に彫刻の基盤をおいた。幼い頃からの遊び場、その音や声、そして光や涼やかな空気を、呼び起こす場。ノグチにとって、そして私どもすべての人間にとっての、母の温かい背中、自らの肉体の奥底に今も疼く、記憶の原古里としての『母』へと回帰できる、稀有で特権的な庭なのであった。」(新見隆著)従来のモダニズム美術の枠に収まらないノグチの表現は、常に私を魅了し続けてきました。展示はノグチが若い頃滞在した中国の北京で描かれたドローイングから始まり、日本で作った陶彫作品の数々、和紙を使った照明器具AKARIのバリエーション、庭を想定した広場のプラン、ノグチの代表作品群とも言える石彫の数々がありました。「触覚的記憶」と言うならば、表現媒体全てがそれを追求しているように思われます。私にとって新たな発見は、AKARIと石彫との間に流れている色香のような空気感が、清涼な感覚を呼び起こして、その作品周辺に豊かな空間を感じさせてくれたことでした。こんなに多くのAKARI作品群と石彫作品群を隣り合わせてみる機会がなかったので、その重量差もさることながら、双方に流れている風のような色気漂う気配が、何とも快くて心が解放されました。まだ語り足りないことがあるので、また機会を改めて同展の感想を述べてみたいと思います。

週末 台風一過で暑さ甦る

関東を襲った台風が西へ向い、横浜では台風一過により、夏の暑さが甦ってきました。午前中はまだ雨が残るものの、午後になると太陽が照りだし、気温が上昇しました。この酷暑はいつまで続くのでしょうか。今日は工房に若いスタッフがやってきました。彼女の通う大学はまだ夏休みに入っておらず、課題提出が迫っているとのこと、この際工房で集中して一気に課題を仕上げたいと考えていたのでした。私は新作を始めたばかりで余裕があり、制作時間は彼女に合わせることにしました。結果、夕方5時まで工房にいて、この暑さにもかかわらず長い時間を工房で過ごしていました。昨日、入念に土練りをしておいたので、陶土は扱い易くなっていました。座布団くらいの大きめなタタラを6枚作りました。今までも陶彫部品の成形はタタラ作りと紐作りの併用でやっています。タタラだけでは大きな陶彫部品はカタチを保てず、部分的に紐状にした陶土で補っているのです。とくに角度が変わるタタラとタタラの接着部分を裏側から紐で補強しています。新作ごとに陶彫部品のカタチが違うので、その都度考えながら補強をしている按配です。陶芸には見られない困難さがあると言えますが、焼成に釉薬を使わないために、窯入れで悩むことはありません。話は変わりますが、昼ごろ近隣のスポーツ施設に行って、水泳をしてきました。私の習慣として定着してきましたが、水泳が終わってプールサイドに上がる時に、左膝を思い切り床にぶつけてしまいました。結構痛かったのですが、見たところ膝に変化が無かったので大丈夫と思いつつ、工房に帰ったら「膝から血が出てますよ」とスタッフに指摘されました。それから膝は打ち身のような痛さがとれず、やれやれと思いました。制作を再開すると、午後の暑さが容赦なく襲ってきて、夕方5時には集中力が途切れてしまいました。スタッフを車で送り、今日は暑くて痛い一日だったと振り返りました。

週末 陶彫新作の第一歩

今月最後の週末になりました。今月中にどうしても来年用の新作に取り掛かりたいと思い、今日は新しい陶彫部品を作るための第一歩を踏み出しました。陶土は継続的に使わなくては硬くなってしまい、造形が出来にくくなります。今月の個展で発表した陶彫作品の余った陶土は、湿り気を逃さない工夫をしていたにも関わらず、連日の猛暑で硬くなっていました。余った陶土を一旦細かくして、新しい陶土と混ぜて土錬機にかけることにしました。陶土が継続的に使用されていくことで、制作サイクルが回っていきますが、個展の準備で時間をおいたため、もう一度手間を掛けて陶土を良好な状態に戻す必要を感じました。最初の取り掛かりはこんなものかなぁと思いつつ、土錬機を回しました。私は陶土を単身では使わず、別々の陶土を混ぜ合わせています。通常は混合のために3回土錬機にかけますが、今回は余った陶土が大量にあったので、4回ほど土錬機にかけました。最後は手で菊練りをし、小分けしてビニールに包んでおきます。ビニールで密閉しておいても出来るだけ早く使わないと、今回のように硬くなってしまうのです。今日の作業はそこまでにしました。台風が関東に近づいていたため、工房周辺が暴風雨になっていました。例年の台風と違い、太平洋からいきなり関東に上陸する台風の進路予報だったため、早めに工房を切り上げようと思っていました。夕方は予報どおり横殴りの雨になりました。自宅でゆっくりする口実にもなって、ソファに横になっていました。明日の横浜は台風一過になりそうで、いよいよ新作の成形を始めます。

映画「ゲッベルスと私」雑感

貴重な映像で綴られたドキュメンタリー映画「ゲッベルスと私」。現在、東京神保町にある岩波ホールで上映されています。ナチス政権が齎せた悲劇、その内容はどうだったのか、103歳の証言者が語る台詞に戦慄を覚えたのは私だけではなかったはずです。「私がやっていることはエゴイズムなのか。」「あの体制に逆らうのは命がけで、最悪のことを覚悟する必要がある。そのような実例はいくらでもあった。」「悪は存在するわ。何と言えばいいのかわからないけど神は存在しない。悪魔は存在する。正義なんて存在しない。正義なんてものはないわ。」「私に罪があったとは思わない。ただし、ドイツ国民全員に罪があるとするなら話は別よ。結果的にドイツ国民はあの政府が権力を握ることに加担してしまった。そうしたのは国民全員よ。もちろん私もその一人だわ。」彼女の台詞を拾うだけでも戦時中から戦後にかけての状況が垣間見れます。彼女が秘書を務めたゲッベルスは国民啓蒙・宣伝大臣の役職にあり、ユダヤ人の気質を伝染病に例えて排除しようとした演説で知られています。映画ではオリジナルの音声を流していました。ホロコーストの実際の映像もありました。103歳の証言者ブルンヒルデ・ポムゼルさんに対し、映画の作り手が情報操作をすることもなく、ポムゼルさんの言葉はそっくり映画を観ている私たちの解釈に委ねられていると思いました。私が以前読んだ反ナチス運動の「白バラは散らず」のショル兄妹にも触れる箇所がありました。ポムゼルさんの友人だったユダヤ人女性を、戦後になって探していくうちに有名なアウシュビッツ強制収容所も登場してきました。ポムゼルさんは戦後5年間収監されていて、ユダヤ人が殺されたかもしれないシャワー室で、自分は温かいシャワーを楽しみにして過ごしていた事実に慄く台詞もありました。一人の女性が語るだけの映画で2時間弱を要していましたが、それは何と短く緊迫した時間だったかと感じました。もう一度観るのは辛い映画かなぁと思いました。

ミニシアターの先駆的存在

東京神保町にある岩波ホールは、昔から時々出かけていました。最近は地元の横浜にあるシネマジャック&ベティに通っていますが、商業ベースに乗らない映画を観るとなれば、岩波ホールと決めていた時期がありました。歴史を紐解くと、岩波ホールは1968年にホールが完成し、1974年に映画の上映が始まっているようです。私はいつ頃、岩波ホールに行ったのか覚えていませんが、最初は大学の女友達に誘われて行った記憶が残っています。今日は職場に出勤せず、外部機関で朝から会議がありました。午後の会議が早めに終わったので、久しぶりに神田の神保町に出かけました。映画の最終上映時間に間に合うかなぁと思い、電車に飛び乗りました。現在、岩波ホールで上映しているのはオーストリア映画「ゲッベルスと私」で、ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書をしていたブルンヒルデ・ポムゼルの長いインタビューをまとめたドキュメンタリーです。ゲッベルスはナチス政権の国民啓蒙・宣伝大臣の役職にあり、ヒトラーの片腕として大衆を扇動した悪名高い人物でした。撮影当時の彼女は103歳という高齢で、深く刻まれた顔の皺が、モノクロの映像を通し、何かを訴えかけてくるようでした。彼女の凛とした語りからナチス政権に翻弄されたドイツ国民の姿が浮き彫りにされてきて、私は胸に迫るものを感じました。映画と映画の休憩時間に女性ジャーリストによるトークショーがありました。カンボジアやイラクを取材している彼女の見た国民性や人権問題に「ゲッベルスと私」の感想を絡めて、現代に於いても考えさせられる話題を提供していただきました。映画の詳しい感想は後日改めます。ミニシアターの先駆的存在である岩波ホール。今夏はもう一度ここに来ようと思っています。

お台場の「デジタル アート ミュージアム」散策

私の職場では、秋のイベントでプロジェクション・マッピングを制作発表しています。今年もプロジェクション・マッピングチームが立ち上がり、秋のイベントに向けて構想を練り始めました。私たちはまだ素人集団ですが、先月東京お台場に「デジタル アート ミュージアム」が開館し、プロ集団であるチームラボによる映像を駆使した世界を体感したいと思い、私たちのチームで行ってみることにしました。520台のコンピューター、470台のプロジェクターを使った、圧倒的なスケールで展開する映像空間をほとんど一日がかりで満喫してきました。「デジタル アート ミュージアム」はりんかい線の東京テレポート駅から歩いて数分の便利なところにありました。入場券はネットで申し込みました。当日券はないと聞いていたので、予め人数分を予約したのでした。総勢9人で朝11時に入場し、途中退場して隣接しているビーナスフォートにあったフードコートで食事を済ませ、午後1時ごろ再入場し、夕方4時まで館内にいました。「境界のないアートに自らの身体を没入させ、世界を自らの身体で探索し、他者と共に新しい体験を創り出していく。そのような約50作品による、境界のない1つの世界、チームラボボーダレス」というのがキャッチコピーにあったコトバでした。そのコトバ通り、部屋によっては浮遊感があったり、竹林の揺らぎや滝の落ちる状況を映像で表現したり、鳥獣戯画が動き出したり、日本の原風景を新しい表現媒体で捉えていくチームラボの姿勢が素晴らしいと感じました。数多くのスポットライトに覆われた部屋は、まさに光の彫刻で、計算されつくした演出に時が経つのを忘れました。私たちのチームの表現はそこまで至りませんが、最後にチームラボの制作スタッフの方々と話が出来て、とても良い機会を与えていただきました。