「あそぶ神仏」読後感

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)を読み終えました。著者の辻惟雄氏は「奇想の系譜」を著した人として、江戸時代に埋没してしまった稀有の画家を発掘し、私に近世美術の面白さを示してくれました。それからというものの辻氏に取り上げられた画家の展覧会に私は必ず出かけ、その表現力を堪能してきました。本書も本物を味わうため地方に出かけたくなる作品が多く取り上げられていて、本当に楽しく読むことが出来ました。本書のあとがきに意外なことが書かれていました。「正直にいうと、私は仏教美術が苦手である。仏像や仏画の魅力はむろん否定できないが、それを学問するとなると、儀軌や図像の複雑な迷路に分け入らねばならない。~略~だが、近世美術のなかで馬齢を重ねるにつれ、それが意外に宗教性の強いものであることに思い至るようになる。」また、別稿のあとがきのなかでこんなことも書かれていました。「僧の堕落と幕府の宗教統制によって、江戸時代の仏教・神道は低迷したといわれる。だが、円空・白隠など本書にあげた画僧や修験僧たちの活気と個性、それにユーモアあふれる仕事ぶりを見ると、低迷という言葉がむしろそらぞらしく、逆に意欲的であったというべきであろう。」本書の解説の中で矢島新氏が指摘している箇所にも気が留まりました。「昭和初期の柳宗悦による民芸の提唱や、戦後の岡本太郎による縄文土器の称揚も、『稿本(稿本日本帝国美術略史)』に代表される取り澄ました史観への反発ととらえることができる。木喰の発見者でもある柳は、はじめ西洋の心理学や宗教哲学を学び、文芸雑誌『白樺』の活動を通して西洋美術に親しんだという経歴を持つが、学生時代に日本の工芸史を学んだ経験はなかった。岡本は言うまでもなく前衛芸術家であり、パリ大学で民族学を学んだ経験はあったが、日本の美術史に関しては素人に近かった。かつて著者は柳や岡本の発見を『眼の革命』と呼んだことがあるが、専門分野ではなかった故に既成のフィルターを取り払って虚心にモノを見ることができ、そうしたある種の自由さが眼の革命につながったという面はあるだろう。辻の唱えた『奇想の系譜』も、眼の革命と呼ぶに値する革新的な主張である。柳や岡本の声が美術史学の外側からであったのに対し、近世絵画を専門とする研究者の立場からの、すなわちアカデミズムの内側からの異議申し立てだった点が意義深い。」本書を読んで感じたことは、まだ発掘されていない画家や彫刻家が地方にひっそりと隠れているのではないかということです。現代の造形価値観で見ると、こんな凄い人がいたんだという発見があると楽しくなるなぁと思っています。

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