「運命空間」の人間群

通勤の友として現在読んでいる「触れ合う造形」(佃堅輔著 西田書店)の最初に登場する芸術家がムンクとロダンです。ノルウェーの画家ムンクとフランスの彫刻家ロダン。この2人の巨匠の間に何かしら共通点があったとは、自分はまるで知りませんでした。苦悩する人々を表現した作品に似通ったテーマが認められますが、私はまったく別々の情報から知り得た画家と彫刻家だったので、同時代を生きたことも知りませんでした。ムンクが奨学金を得てパリにやってきて、そこでノルウェー人彫刻家を通して初めてロダンの作品を知ったようです。ロダンの内面から表出された人体塑造は、ムンクの人物表現に投影されていて、人間のポーズから精神性に対する追求が始まったように思えます。こんな一文がありました。「ロダンの芸術がムンクにとって重要だった本質的な観点を、展望しながら要約するならば、次の点が確認されるのである。それは何よりもまず、ムンクに影響を及ぼしたロダンの主題とモティーフ、内容に関するもの、思想の豊かさ、象徴主義である。ロダンにおいてエロス、移ろいゆくものと死をふくめて生命の実存的なものが、高い相対的価値を占めている。二人の作品は、この緊密な複合体をめぐっているのだ。さらに、ムンクに強い印象を与えたロダンの作品における造形力と彫塑的なものがある。~略~ムンクは彫塑的表現への志向をますます強めて、独自なモデリングを首尾一貫して試みるようになったのである。」ムンクの彫刻作品を私は知りませんでしたが、空間に対するムンクの関心はロダンからきていることを悟りました。さらに「アイゼンベルトは、ロダンに人物たちのまわりには、『ある種の運命空間』が不可視的に生きている、あるいは空間的関連を暗示的にモデリングする浮彫りや群像作品に見られるように、可視的にも『ある種の運命空間』が生きているという。それは単に印象主義的な雰囲気とロダンの場合に特徴付けられたものではない。それはここでは、むしろ、より濃密な空間なのであって、この暗闇から人物たちが《地獄の門》における身体のようにあらわれ、そしてこの空間のなかへ、またふたたび深く沈みうるのだ。ロダンの身体は、宇宙的と感じられたこの空間のなかで、しばしば『漂っている』」

「抽象」の意味するもの

職場の休憩時間に読んでいる「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の中で、「『抽象絵画』という表現において『抽象』の意味するもの」という章があります。抽象的と言われる所以は、帰属している実在性から切り離されていることですが、抽象絵画においては、目に見えている世界を一種の純化によって、幾何学的な基準へ移行することと本書では述べています。さらに本書の一文に頼れば「(絵画の)革新の試みの前提として役立っているのは、相変わらず外部の実在性であり、その実在性の何らかの解釈である。キュビズムの抽象化は具象的な企てに帰属しており、その企ての実現の一様態として理解されるべきである。」となります。それに比べてカンディンスキーが唱える抽象は、おのれ自身へのたゆみない到達の渦中にある目に見えない生のことです。それを文中から引用すると「『抽象』は、もはやここでは単純化や複雑さの過程の果てに、現代絵画の歴史をなすような歴史の果てにこの世界から生ずるものを表すのではなくーこの世界の手前にあって、存在するためにこの世界を必要としない〈それ〉を、つまり光も世界もない、自己の徹底的な主観性という夜の中に包み込まれている生を表すのである。」と書かれています。そうであれば、カンディンスキーにとって絵画の出発点は何でしょうか。「それは感動すなわち生のより激しい形態ということである。芸術の内容とはそうした感動である。芸術の目的とは他者にその感動を伝えることである。芸術の認識はすべて生の中で発展する。それは生自体の運動、増大する、より激しくおのれを感受する運動である。」カンディンスキーの有名な著作に「芸術における精神的なもの」があります。その中にも抽象の意味するものを伝える主旨があり、本書ではこんなふうに扱っています。「自然主義に抗して、芸術の固有の次元が『精神的なもの』すなわち目に見えない生ー芸術は目に見えない生の自己拡大のプロセスと同調し、絶えずつき動かし刺激することによって、その生と一体化するーであることをあきらかにしなければならない。」

週末 大きな陶彫部品のやり直し

今日は仕上げをして化粧掛けを施した大きな陶彫部品を窯に入れようとして失敗し、やり直しを決めた辛い一日でした。NOTE(ブログ)は日記の役割があるため、制作の失敗も書き残しておく必要を感じています。アーカイブを見ると、陶彫部品を交換したり、泣く泣くやり直しを決定することも書かれてありました。新作は難しい造形による陶彫部品が多く、壁に当たりながらも着々と進めてきました。順調と思えた制作工程でしたが、ここにきて足踏みをすることになりました。破損した陶彫部品は新作の床に置く一番大きな部品で、最初に作ったものです。窯に入る大きさとしては最大限で、それだけに作る時もシンドい思いをした記憶があります。もう一度同じものを作るとしたら、どのくらい時間がかかるのか、気が滅入るところですが、逆にこの失敗をプラスに捉えて、失敗作よりも丈夫で優れたものを作ればいいのではないかと考え直すことにしました。次の週末は職場独自の設定で三連休になっています。この三連休を使って新しく成形し直そうと思っています。現在進行中の根の部分は休庁期間にもっていくことにしました。制作に失敗はつきもので、毎回何かしらトラブルに見舞われています。慣れたとはいえ、気落ちすることは否めません。気持ちをリセットして取り込もうと思います。

土曜出勤の一日

私の職場では年間何回かは休日出勤の日を設けています。今日の土曜出勤は今月25日(月)と差し替えています。天皇誕生日の23日からクリスマスの25日までを三連休にしたいという職員の要望があって、今回の措置になりました。連続して休める環境を整備することは、管理職として必要な手立てです。そうでなくても通常の職員の出勤状況を見ていると、勤務時間をオーバーしている職員が複数います。新聞報道でも過労死ラインを超えて勤務している私たちの職種の実態が話題になっています。どうしたらワークライフバランスに合った仕事が出来るか、本腰を入れて考えていかなければなりません。今日は土曜出勤で職員に負担をかけましたが、続く三連休でゆっくり休んでもらいたいと思っています。土曜日であれば職場をオープンにして地域の方々を招き入れることが可能です。今日はそんなイベントもやっていました。今日は夕方から工房に行く予定でしたが、家内と母の介護施設に出かけ、いろいろ用事をしていたら、工房に行くきっかけを失いました。工房は仕事から帰ってすぐ出かけるのがいいのです。勢いがあるうちに創作活動をやらないと、腰が引けてしまうのです。今晩やろうとした作業は明日へ持越しです。

「触れ合う造形」を読み始める

「触れ合う造形」(佃堅輔著 西田書店)を読み始めました。「19世紀末ー20世紀初頭、芸術家たちの『生』」という副題がついています。本書で取り上げられているのはムンク、ロダン、キルヒナー、シャイアー、ブライル、ヤウレンスキー、カンディンスキーという多彩な顔ぶれですが、彫刻家ロダンを除けば、北方ヨーロッパで活躍した芸術家ばかりで、ロダンを含めて私の趣向に合った人たちと言えます。本書は、職場に持ってきているミシェル・アンリによる「見えないものを見る カンディンスキー論」に比べれば、平易で読みやすいため、通勤の友にしようと思っています。私が興味を示す芸術家の活動は、日本の美術系出版物の中では馴染みが薄く、あまり取り上げられない芸術家たちばかりです。こうした書籍は一握りの読者にしか支持されないかもしれませんが、欧州ではナチスの弾圧にも関わらず、多くの美術館に本書で語られている芸術家のコレクションが収まっています。著者によるこんな一文がありました。「本書は、芸術家たちが、その時代の多くの芸術家の作品や、あるいは、彼らとの親密な交友関係から、いかに触発され、自己の芸術の養分とし、自己の世界を実現していったかにスポットを当てようと試みたものです。」芸術家同士の触発が本書のテーマになっているようで、楽しみながら読んでいきたいと思っています。

「オブジェを持った無産者」読後感

「オブジェを持った無産者」(赤瀬川原平著 河出書房新社)を読み終えました。著者である故赤瀬川原平は、尾辻克彦という名前で芥川賞を受賞したり、話題となった随筆を出して、文才に長けた造形作家であることは疑う余地はありません。話題となった「老人力」はとてつもなく面白く、出版した年の流行語大賞を取っていました。テレビに主演したご本人の弁は、ウキウキするような楽しさに溢れていました。その赤瀬川原平による最初の出版物が「オブジェを持った無産者」です。ところが既読の書籍にみる平易で楽しかった文章が、初期の頃は超現実的な難解さで、時に暴力的な詩情を感じさせていたので、少々面食らってしまいました。若い頃は既成概念をひっくり返す前衛美術家としての意思が宿っていたのだろうと察します。あとがきにこんな文章がありました。「私が文章を掻きまわすようになったひとつのポイントは、1960年に”ネオ・ダダ”のグループをつくったときの、はじめての解放感である。いったん『絵具』を手離してみると、ヌレ手にアワという感じで、あらゆるものがひっついてきた。そしてそのとき、ことさら廃品によって作品としていた勢いもあるかもしれないが、いわば落ちているものはなんでも拾えるという私の中での群集心理によって、道ばたを闊歩していた。」さらに一冊の書籍がまとめられたのは、「千円札裁判」によるものと著者は述べています。社会的制約と表現の自由、当時の前衛芸術運動がここから展開していきました。私がもう少し早く生まれていれば、なんて思う時代がそこにはありました。

映画「ボブという名の猫」雑感

先日、常連になっている横浜のミニシアターに「ボブという名の猫」という猫を主人公にした映画を観に行きました。我が家にも映画に出演したボブと同じ茶トラのトラ吉が居候しています。トラ吉は野良猫でしたが、今ではすっかり飼い猫の風貌になり、私の足元に纏わりついてきます。そんな縁で「ボブという名の猫」を家内と観に行ったのでした。映画の内容は、薬物依存症だったストリートミュージシャンがホームレス同様の生活を送っていたところに、NGO団体職員によって住居を与えられたことに端を発し、そこに迷い込んだ野良猫によって、彼の生活が劇的に変化していく様子を描いていました。これはイギリスであった実話で、今もモデルになったミュージシャンとボブは健在で、ボブとの生活を書き綴った書籍を携えて日本にもやってきたようです。私は映画の中で物語の中核を成す薬物中毒に関心を持ちました。主人公ジェームスは自堕落な生活が齎した薬物中毒だったのか疑わしい要素があり、繊細過ぎる性格だった上に、父との葛藤があって自暴自棄になったのかなぁと思いました。薬物中毒から立ち直るのが大変厳しい状況も描かれていて、ボブがいたからこそ強く前向きになれたのではないかと思いました。パンフレットにこんな一文がありました。「傷ついたボブと自分を重ね合わせたジェームスにとって、ボブを見捨てるということは自分を見捨てるということであり、父親に見捨てられたという古傷が疼いたのかもしれない。そしてボブを大切にすることで、ジェームスは自分の人生を大切にしはじめる。」(村尾泰郎著)これがこの映画の主張するところだろうと思います。NOTE(ブログ)を書いている私の膝に飛び乗って邪魔をしているトラ吉を見ながら、状況が状況だったらトラ吉も私に生きる活力を与えてくれるのかなぁと淡い期待を持ったところです。

汐留の「表現への情熱」展

先日、東京汐留にあるパナソニック汐留ミュージアムに「表現への情熱」展に行ってきました。副題を「カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち」と称していて、カンディンスキーという画家の名前に反応して、これは見に行かなくてはならないと思ったのでした。私はドイツで活躍したカンディンスキーとフランスの宗教画家ルオーの接点が分からなかったのですが、1907年にモロー美術館で働いていたルオーが、そこでカンディンスキーと会っている記録があるのです。副題にある通り、色彩の冒険や実験を繰り返していた2人の画家が、色彩を通して共感していたと想像をすれば素晴らしいことだぁと思っています。図録の中で、年代順にカンディンスキーとマティスとルオーを並べた図表があって注目しました。その解説にこんな一文がありました。「『抽象絵画』誕生前後のカンディンスキーとルオーには一見共通点がなさそうだが、しかし二人には色彩や形態や主題の違いを超え、マティスには感じられなかった、絵画の奥に潜む宗教的とでも呼べるような感情、カンディンスキーのいう『内的必然性』のようなものが感じられる。」(後藤新治著)こうした共通部分の浮き彫りは、今回の展覧会の意図するところで、大変興味深いテーマと言えます。ただ、2大巨匠を検討する上で、実は私は今もルオーが理解できずにいて、ルオーの代表作を見てもピンとこないことを白状しなければなりません。ルオーらしさが表出する文章を図録から拾っていくと「画家の内から湧き出る感情や憤りを瞬時に写し取るかのように、素早く荒々しい。また、色彩も反自然主義的な傾向を強め、鮮烈な赤、濃淡の差の激しい多様な青そして沈むような黒が時に画面の主役を演じる。形態のデフォルメも甚だしくなり、美術学校時代のような緻密な対象の再現描写は跡形もなく消え失せている。~略~罪を赦し創造主や自然に対する愛を賛美する画家の最晩年の境地は、黄色や赤、オレンジを中心とする光り輝く色彩と、彫刻のように塗り重ねた絵具の豊かなマティエールに支えられて高らかに歌い上げられるのである。」(萩原敦子著)とありました。主題や理論は分かっていても、今だに心に響いてこない作品を前に佇む私は、いずれルオーの魅力を感受できる時が来るのでしょうか。ルオーが理解できれば、カンディンスキーを筆頭とするドイツ表現派との検討や思索が、私なりに生まれてくるのではないかと思った次第です。

京橋の「サイトユフジ展」

一昨日、東京の京橋にあるギャラリーユマニテで開催中の「サイトユフジ展」に行ってきました。サイト(斎藤)さんは山形県出身でオーストリアのウィーンに長く滞在し、ウィーン幻想派が好んだ古典技法を自らも取得し、細密な絵画表現に挑んできました。現在もテンペラを使った絵画を制作されていたので、サイトさんの絵画を見ていると当時が思い出されてきました。海外生活は、雑多な情報が入らないため、静かで落ち着いた環境で制作が出来ます。サイトさんが大きな画面に小さな蟻の群がる風景を蟻一匹ずつ丹念に描き込んで表現したり、画面いっぱいの蜂の巣に蜂の大軍を描き込めたのは、そうした環境が大きかったのではないかと思っています。今回の新作にはドイツの画家デューラーの版画から触発された動物のサイが描かれていて、西洋古典の中に現代性を求めるサイトさんの世界観がよく表れた作品だなぁと思いました。最新作では、対象が昆虫や動物ではなく、夥しいアルファベットが散りばめられた作品があって、具象から一歩抜け出した展開になっていました。アルファベットは文字として意味を与えられたモノがあったり、無意味な羅列もあったりして、文字としての記号を問う危うさが絵画空間に浮遊していました。画家クレーによる象形文字のような絵画にも通じる面白さがあり、私は最新作を歓迎しました。サイトさんに会えば、ついウィーン時代の話になってしまい、亡くなられた奥様のことを思い出してしまいます。近いうちに山形に行って奥様のお墓参りをさせていただこうと思います。

週末 ロダンに思いを馳せた夜

今日は制作に関してはとりわけ新しいこともなく、大きなタタラを数点作って、陶彫成形を1点作り上げたくらいでした。彫り込み加飾は後日にして、夕方早めに作業を切り上げました。冬の寒さが到来し、風の強い一日になりました。昼頃スポーツ施設に水中歩行に行くついでに、工房のストーブ用の灯油を購入して来ました。いよいよ工房も寒くなってきて、朝は野外工房のコンクリートが凍てついた氷で覆われていました。周囲は霜だらけでした。どうも横浜は東京の都心より寒いような気がしています。夜はNHKの「日曜美術館」を見ました。夜8時からの番組は再放送で、先週の日曜朝9時に放映したものですが、私はこの時間は工房に行っているので、いつも再放送しか見られないのです。今晩取上げられていた芸術家はオーギュスト・ロダン。19世紀から20世紀にかけて生きた近代彫刻界の巨匠です。今年が没後100年だそうで、生涯を扱った映画も作られています。私が彫刻を学び始めた10代の終わり頃、上野の西洋美術館にロダンの代表作を見に行くたびに、その凄さに驚嘆していました。体内から盛り上がる肉塊、ドラマチックなポーズ、どれをとっても習作の域を出ない自分には遠く及ばない表現力を感じていました。ヨーロッパ生活を始めた20代の頃に、私はパリのロダン美術館を訪れました。ロダンにも人間臭い一面があって、その苦悩が理解できたのはずっと後になってからでした。ある年齢から私はロダンが目に留まらなくなりました。情緒に流れる肉付けや行き過ぎたポーズに逆上せあがった自分が、20世紀以降の大きな彫刻の流れの中で、ロダンの世界観から距離を持ち始めたのでした。ロダン晩年の大作バルザック像の本質そのものを捉えた抽象性が気になって仕方がなかった私は、ロダンの許を離れていったブランクーシにその答えを見出そうとしていました。現代彫刻の扉を開けたブランクーシを追って、私はブランクーシの出生地ルーマニアにも出かけました。それでもロダンの偉大さに抗えない自分がいます。上野の西洋美術館の前を通ると、ついロダンの野外彫刻を見てしまうのです。「地獄の門」は今でも磁石のように私を引っ張るのです。

週末 制作と鑑賞で充実した一日

創作活動は制作と鑑賞が両輪となって進んでいくものと私は考えています。週末になると美術館や映画館に頻繁に足を運んでいて、今日も鑑賞では充実した一日を過ごしました。私は制作工程を考えながら週末の作業をどこまでやるのか自分で決めています。それはどんな予定があっても遂行していきます。今日は東京の画廊や美術館へ行く予定があったため、今朝は7時から工房に行き、陶彫部品の彫り込み加飾を行いました。ほぼ2時間で今日の作業は終了しました。朝10時頃、家内と横浜の自宅を出て、東京京橋にあるギャラリーユマニテに向いました。同画廊で「サイトユフジ展」が開催されていて、サイト(斎藤)さんから案内状を頂いていたのでした。サイトユフジさんは大学の先輩にあたる人で、特に家内は専攻も一緒でした。当時世界を席巻したウィーン幻想派に憧れてウィーンに渡り、サイトさん夫妻は長くウィーンに住んでいました。私もウィーンではお世話になりました。彼は昆虫の集合凝縮した情景を絵画で細密に表現していて、国内外で発表をしていました。親しくお付き合いさせていただいた奥様が他界され、現在は山形県にアトリエを構えていられます。画廊でサイトさんと話していると、ギャラリーせいほうの田中さんがひょこり顔を出しました。偶然にも思わぬところで楽しい時間を過ごすことが出来ました。「サイトユフジ展」については後日改めて感想を書きたいと思います。次に新橋まで銀座通りを歩き、パナソニック汐留ミュージアムで開催中の「表現への情熱」展を見てきました。「カンディンスキー、ルオーと色の冒険者たち」という副題があったため、久しぶりにカンディンスキーの作品が見たくなったのでした。企業が経営する美術館の中でパナソニック汐留ミュージアムは面白い企画が多く、私は同美術館によく出かけます。「表現への情熱」展も感想は後日に改めます。夕方一旦自宅に帰り、夜7時過ぎに家内と車で横浜の中心に向いました。常連になっているミニシアターに映画「ボブという名の猫」を観に行ったのでした。このところ毎週末に映画館に出かけています。そのうち2本が猫に纏わる映画です。我が家にトラ吉が居ついてから、私たちも猫ブームに乗ってしまいました。昨年作られたこのイギリス映画は実話を基にしています。薬物依存症だったストリートミュージシャンが野良猫を拾ったことで、人生が変わっていくストーリーでした。詳しい感想は後日に回します。結局、今日は朝7時から工房で作業を開始し、映画鑑賞から自宅に戻ったのは夜中の12時近くになっていました。丸一日を制作と鑑賞で過ごした最良の一日でした。

12月RECORDは「きずく」

今年はひらがな3文字のテーマでやってきました。今月のテーマが3文字のラストになります。ひらがな3文字はなかなか難しいテーマ設定でした。今月テーマにした「きずく」は、過去のRECORDでは再三出てくるので、新しさはありません。何かが築かれていくのは、創作の中核をなす陶彫でも構築性を扱っているので、自分にとっては得意とするものです。土台からひとつずつ素材をもって立ち上げていく行為に、自分は己を重ねて合わせているのかもしれません。このところRECORDに奇抜な発想は期待できず、イメージが定番化している嫌いはありますが、それでもその時々に考え抜いた絵柄で何とか制作しています。10年も休まずやっていると、似た絵柄になってしまうのはやむを得ないとも考えています。その日のうちに完成させることを目標にしているRECORDですが、また悪い癖が出て、下書きを終えると安心してしまい、そのまま睡魔に襲われ就寝してしまうので、2017年のRECORDは2017年のうちに決着をつけたいと思っています。

「マリアツェル」のシュトレン

シュトレンはドイツ語で「坑道」という意味です。文字通りトンネル状をした菓子パンを指しますが、自分が滞欧生活を切り上げてきた30年前は、日本でのシュトレンの知名度はありませんでした。ドイツ語圏の国々ではクリスマスの時期になるとシュトレンを売り出すベーカリーが増えて、この季節の保存食として楽しんでいました。シュトレンはドイツのドレスデン発祥と言われていますが、1329年ナウムブルグの司祭へのクリスマスの贈り物が最古の記録としてあるようです。川崎市多摩区中野島にある洋菓子店「マリアツェル」で、シュトレンをまとめて購入するのが、我が家の恒例行事になっていて、今年も多量に頂いてきました。「マリアツェル」の経営者であるパティシエは、私と同じ頃オーストリアのウィーンにいて、私たちはよく遊んでいました。彼は菓子修行、私は美術学校の学生として、気のおけない友達になり、30年経った今でもあの頃を懐かしむ交流を続けているのです。彼が作るオーストリア菓子やシュトレンはヨーロッパに出回るものと比べても遜色はありません。寧ろ日本人に合った趣向を凝らせているので、シュトレンの美味しさは抜群です。ドライフルーツ等の材料を海外から仕入れていて、彼にメールしたらフランスのアルザスから帰国したばかりという返事が返ってきました。職場でも「マリアツェル」のシュトレンを味わってもらおうと思っています。

芸術表現と国家について

今日は大袈裟な表題をつけましたが、現在読んでいる「オブジェを持った無産者」(赤瀬川原平著 河出書房新社)の「Ⅱ」に登場するもので、当時若かった故赤瀬川原平が、芸術家から見た社会情勢を先鋒鋭く説いた文章を包括するテーマが「芸術表現と国家について」ではないかと思います。本書の「Ⅰ」は、主に1967年に千円札を作品化したことで裁判になった「通貨及証券模造取締法違反被告事件」の実際の意見陳述書やそれに伴う随想が収められていて、当時の芸術表現を巡る検察庁とのやり取りが詳細に語られていました。「Ⅱ」は裁判以前からその後に至る文章を集めたもので、古いものでは「あいまいな海」(1963年)が掲載されていました。赤瀬川原平若干26歳の時の文章です。この時代は前衛美術家集団ハイレッドセンターを結成した頃で、社会通念に囚われない表現を求めて、彼は廃品を素材にした作品を作っていました。文章は表題のような芸術表現と国家について論じたものがあれば、詩的なものもあって、文章そのものもシュルレアリスム的な雰囲気を持っています。表題の趣旨を述べた部分を取り上げます。「『有名』の蓄積による歴史は、すでに現象の確定であることを優位として、不確定の昂揚する現在を平定させる法の規範となっている。そして現在にある無数の偏見の中に法として割りこんでくるその歴史は、ひとつの偏見であることをのり超えて、犯しがたい真理となっている。要するに残された正統の歴史というのは、正統の権力の体系なのである。~略~好奇心というものは、その動作がそれ自体自由であってこそ、そして何物も顧みない無責任なものであってこそ好奇心であるのであり、責任ある好奇心というのは、プロペラの回転軸を糊づけにされた飛行機のようなものであって、それは好奇心ではありえないのである。」間接的に芸術表現と国家について述べた箇所を引用いたしました。

プロジェクションマッピング一般公開日

今日のプロジェクションマッピング一般公開は、職場としては大きなイベントであった文化的行事の幕開けに上映した映像媒体を、一般向けにアレンジしたものです。神奈川新聞の取材を受けてから、職場の元締めである横浜市全体の組織が11月30日に一般公開を知らせる記者発表を行いました。私は今まで彫刻を学んできたため、映像表現にはかなり疎い人間で、当初プロジェクションマッピングには積極的になれなかったのですが、チームの制作工程に関わっているうちに、プロジェクションマッピングの可能性と広がりを確信するようになりました。この表現を他の職場でもやってくれたらいいなぁと思い、一般公開に踏み切ったのでした。プロジェクションマッピングは凹凸のある壁に投影する媒体で、凹凸の範囲をパソコン内で切り取り、それぞれの切り取った画面に映像やアニメーションを落とし込んでいく方法です。その専用ソフトとプロジェクターがあれば、基本形となる制作が可能です。その際、投影する壁の大きさに見合った光源の強さが重要で、強力なプロジェクターであれば美しい映像が期待できます。今年は職場の公費でプロジェクターを購入しました。映像処理は近隣にある大学の映像メディア研究室の協力を得ました。大学3年生が職場に時折顔を出してくれて調整をやってくれました。今日の一般公開では、夜にも関わらず230名くらいの人が見に来てくれました。その対応のため、ほぼ全員の職員が超過勤務になっても快く残ってくれました。今日はサービス残業で、私は感謝としておにぎりと味噌汁を職員に用意しました。大学教授等来賓の方々にもおにぎりと味噌汁を出しました。また来年に向けてプロジェクションマッピングの制作をスタートします。これを私の職場の文化として定着させていきたいと願っているのです。

映画「笑う故郷」雑感

昨日、横浜のミニシアターにヴェネチア国際映画祭主演男優賞に輝いた映画「笑う故郷」を観に行きました。横浜に来る前に岩波ホールで上映していて、観に行こうかどうか迷った映画でしたが、横浜で観ることが出来て良かったと思いました。「笑う故郷」はノーベル文学賞を受賞した作家の40年ぶりの帰郷を巡って、地元の人々が起こす騒動を描いたもので、国際的文化人と地元に暮らす庶民との感覚的なズレが、徐々に辛辣な状況を作り出すストーリーでした。過去の因縁や憎悪から嫉妬や誤解が生まれていく過程は、リアルさをもって私たち観客に迫ってきました。ヨーロッパ在住の作家はアルゼンチンの小さな町が故郷で、そこで過ごした20歳までの経験を題材に、彼は数々の小説を発表してきました。それが地元にしてみれば故郷の人々を嘲笑する小説と受け取る人もいたようで、名誉市民として帰郷した彼を取り巻く環境は、複雑なものを孕んでいました。作家の元恋人だった女性と結婚した彼の幼馴じみ、作家の審査によって落選された絵画協会幹部の執拗な攻撃、息子の車椅子を有名人に強請る親、小説の登場人物と自分の親との関係を確かめる人など、登場する人々が素朴さと感情の濃さを伴って、面倒な関わりを含めた複雑な人間関係の中にいました。それに耐える作家は次第にイライラが増していったのでした。映画の後半では、作家が故郷を懐かしむ感情はどこかへ吹き飛んでいました。とてもじゃないけど、笑えない故郷とも言うべき「笑う故郷」は、大変インパクトのある内容で、やるせない気分になりました。主演男優賞を受賞した作家役のオスカル・マルティネスは、気難しい作家が翻弄されていく状況を自然に演じ、存在感を示していました。映画に同伴した家内が、これは有名作家の驕りと感想を言っていましたが、それはマルティネスの演技あればこその説得力ではなかったかと思いました。確かに面白い映画であるけれども、感情の機微が揺れ動く人間臭さを表現している秀作なのだろうと思いました。

週末 陶彫成形&映画鑑賞

今日も昨日に続き、朝から陶彫成形に没頭しました。8個目の陶彫成形が終わり、新作で床を這る根は残すところ8個で、ちょうど半分が出来たことになります。今日の夕方は窯入れをしたので、明日から2日間は工房の電気が使えません。3日目も窯内の温度は高いのですが、自然冷却に入っているので電気の復旧は可能です。12月に入っての週末は陶彫にとことん付き合っています。そのためか気持ちは充実しています。日曜日の昼は近隣のスポーツ施設に水中歩行に行く時間帯と決めているので、今日も決めた通りに行ってきました。今日は歩行だけではなく何度か泳いでみました。肩の調子は少しずつ治ってきているように思います。来年になれば今までのように泳げるかなぁと期待しています。家内が昼過ぎに演奏から帰ってきました。今日は夕方早めに作業を切り上げて、家内と映画に行くことにしました。常連になっている横浜のミニシアターに行って、アルゼンチンとスペインの合作映画「笑う故郷」を観て来ました。アカデミー文学賞に輝いた作家が在住しているヨーロッパから故郷のアルゼンチンに40年ぶりに帰る物語で、「笑う故郷」ならず笑えない状況に陥っていくシリアスな映画でした。家内は、これは作家の驕りからくるもので、故郷に錦を飾るなんてことは幻想に他ならないと言っていました。自分が一番心地よい場所にいるのがいいとも呟いていました。私が感じた詳しいことは後日に改めます。ただし、これは面白い映画であることに異論はありません。このところ毎週映画に行っています。来週末も映画に行くことを予定しています。展覧会だけではなく映画も刺激をもらえる媒体なので、創作活動には効果的です。週末は密度の濃い時間を過ごしていると実感しています。

週末 12月最初の週末

今月は陶彫成形を軌道に乗せるために奮闘努力する目標を掲げています。最初の週末である今日は朝から夕方までタタラ作りや陶彫成形に明け暮れました。前日に大きなタタラを数枚用意しておくのが通常の制作工程ですが、今日はタタラを用意した後、日を置かず今日のうちに成形を始めました。タタラがまだ柔らかくて立ち上げることが出来ない状況もありましたが、木片で陶土を支えながら何とか成形を行いました。明日はさらにもうひとつ成形を行う予定なので、明日のタタラは今日のうちに用意しておきました。補強用の紐作りの陶土も用意しました。新作では床を這う根を陶彫で作っています。ひとつの根は4個の陶彫部品によって連結されていきます。根は4本あるので全部で16個の陶彫部品が必要になりますが、現在出来ているのは6個だけで、今日7個目の成形が終わりました。あと9個を今月中に何とかしようと思っているのです。窯入れをしなければウィークディの夜に工房に通うことが出来ます。今日の作業でタタラを一日置かずとも、工夫すれば成形が可能なことが分かったので、先が見えてきました。制作サイクルを早めに動かして、床を這う根の陶彫部品16個の完成を目指して頑張りたいと思います。冬になると陶土を扱っているせいで、掌の脂分がなくなりガサガサになります。そろそろ今日あたりからハンドクリームが必要かなぁと思いました。私はウィークディの昼間は公務員をやっているので、常に陶土に触れているわけではありません。掌の脂分は家業にしている陶芸家ほど心配していませんが、週2回だけでも手の罅割れが気になるので、日々陶芸をやっている人たちは手を酷使しているに違いないと思いました。夕方、疲れが出て意欲が衰えてきたところで工房を出ました。明日も頑張ろうと思います。

17’の12月を迎えて

2017年もあと1ヵ月となりました。私にとって1年間の区切りは年が改まるこの時ではなく、職場では3月末の年度が改まる時であり、彫刻家としては個展が開催される7月に気持ちを入れ替えていきます。12月は職場の管理職としては来年度のヴィビョンに絡む人事評価を考えていく1ヵ月で、彫刻家としては制作が佳境に入る1ヵ月でもあり、二足の草鞋生活の双方とも途中経過を見据えながら充実して過ごす1ヶ月と言えます。とりわけ制作工程では、土錬機を買い替えたことがあって、陶彫成形が遅れ気味です。これを取り戻すために寅さんの台詞にあるように奮闘努力するのが今月に課したノルマで、多少無理がかかる制作目標を掲げざるを得ません。今月は窯入れよりも陶彫成形や彫り込み加飾をやっていこうと思っています。年末年始の休庁期間は、まとまった休みが取れるので貴重な1週間になります。昨年は9日間連続で制作に没頭しました。今年は暦の関係でそこまで休みが取れないにしても、身体を張って陶彫に付き合っていきたいと思っています。展覧会や映画等の鑑賞も積極的にやっていきます。RECORDは今までの山積みされた下書きを何とかしたいと思っています。読書は通勤時間と職場の休憩時間で2冊の本に関わっています。両方とも今月中に読み終わるでしょうか。ともかく今年の師走を充実した1ヵ月にしようと思います。

11月は鑑賞が充実

11月の最後の日になり、1ヵ月を振り返ってみたいと思います。今月から窯入れが始まり、ウィークディの夜の時間帯は焼成時間と重なっていたため、窯以外の電気が使えず、夜の工房に出かけることはありませんでした。11日に早くも新しい土錬機が滋賀県の信楽町から届き、試運転を経て、再び陶彫成形を始めました。当初の制作目標が大きく変わりましたが、こればかりは仕方がないと思っています。23日には窯のメンテナンスを行い、25日には栃木県の益子町から陶土が送られてきました。今月は陶彫制作の上での一区切りがあったと振り返っています。今月充実していたのは鑑賞でした。まず、美術では「麻田浩展」(練馬区美術館)、「八木一夫・清水九兵衛展」(菊池寛実 智美術館)、「狩野元信展」(サントリー美術館)、「オットー・ネーベル展」(Bunkamuraザ・ミュージアム)、「神山明・濱田樹里展」(平塚市美術館)の5つの展覧会に行きました。音楽では「福成紀美子&下野昇ジョイフルコンサート」(和光大学ポプリホール鶴川)に行きました。音楽の鑑賞は最近では珍しいと思いました。映画では「猫が教えてくれたこと」(シネマ ジャック&ベティ)に行きました。家内は旧市街を猫が闊歩する映像が気に入り、私は舞台になったイスタンブールを思い出した映画でした。これは先月に続き、今月も鑑賞が充実していたのではないかと自負しています。秋は見たい展覧会や音楽や映画が目白押しで、芸術的刺激を充分感受したように思います。充実していた陶彫制作や鑑賞に比べ、厳しい状況なのはRECORDで、以前のように下書きばかりが山積みされてきています。今月の下書き解消はありませんでした。何とかしなければと思いつつ、毎晩睡魔に勝てない自分がいます。読書は通勤時間帯では相変わらず故赤瀬川原平の初期の著作を読んでいます。職場にはカンディンスキーに関する論文を持ち込みました。来月こそ読書を充実させていきたいと思っています。

「見えないものを見る」読み始める

「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)を読み始めました。画家カンディンスキーに関しては「芸術における精神的なもの」や「点・線・面」など数々の翻訳本を読んできましたが、新たな出版物が見つかると、つい購入してしまう癖が私にはあります。もうここまでくると自分はカンディンスキー教の信者かもしれないと思うほどです。私の眼鏡拭きもカンディンスキーの「30」というモノクロの抽象作品をデザインされたものを使っていて、眼鏡をケースから取り出す度に、カンディンスキーを身近に感じています。本書は現象学者として著名なフランス人ミシェル・アンリによる抽象絵画の考察で、カンディンスキーが提唱した理論をベースに、すべての絵画は抽象絵画に包摂されると説くものです。まず最初の章で外部と内部という二つの現象的特質が述べられていました。「絵画の内容、すなわち絵画によって最終的に『表されている』、というよりも表現されているものは、この世界の一要素ないしは一部分ー自然現象ないしは人間にかかわる出来事ーとしてもはやこの世界に帰属していないだけでなく、諸方法が芸術の新しい主題を構成する目に見えない内容の表現を可能にしているのだから、今やそれらの方法自体が、意味的には『内部の』ものとして理解されなければならないし、結局は方法の真の実存在においてー『目に見えない』ものとしてー理解されなければならない。」これをカンディンスキーによって成し遂げられた驚くべき革命と本書では主張しています。読書するこちら側も本書で使われている語彙を丁寧に考えながら進めていきたいと思っています。

映画「猫が教えてくれたこと」雑感

先日、家内と横浜のミニシアターにトルコ映画「猫が教えてくれたこと」を観に行ってきました。舞台となったイスタンブールは、海岸に面した東西交易が織りなす情緒豊かな都会です。私は20代の頃に滞欧生活を引き揚げてくる際、イスタンブールに立ち寄りました。ウィーンから外人労働者が利用する帰省バスに乗り、イスタンブールに向かいました。当時は東欧圏にあった旧ユーゴスラビアやブルガリアでは通行ビザが必要で、ウィーンで各国大使館に手続きに行った覚えがあります。イスタンブールにはどのくらい滞在していたのか今では記憶にありませんが、少なくても1週間はいたのではないかと思っています。「猫が教えてくれたこと」はイスタンブールに棲む猫たちの生態を通じて、人と動物との関わりや庶民生活の有様を描いていました。猫目線で捉えた映像は、ガイドブックにはない新鮮な視点で、カメラは路上を這い回るように動き、エキゾチックな街を浮き彫りにしていました。精神的に追い詰められた人たちが、傍らで擦寄ってくる猫たちによって救われたエピソードを映像に収め、また7匹の猫の個性が際立つ仕草も面白可笑しく描かれていました。ジェイダ・トルン監督を初めとするスタッフたちの執拗なリサーチで、この楽しいカットが生まれたのがよく伝わりました。映画のパンフレッドに「究極の目的は、選び出したひと握りの猫のストーリーを通して、愛と喪失、孤独、そして帰属というテーマについて、思いを巡らせることができるような作品を創ることだった。」とありました。古代エジプトから船に乗って渡ってきた猫族は、この地域から欧州全土に広がっていったようです。東京のような近代化が進む都会では、猫はどう見ても棲み難いように思われます。逆にイスタンブールの旧態依然とした複雑な街並みであれば、きっと猫が徘徊する余地があるのかもしれません。今はイスタンブールも近代化に晒されていますが、人間臭さの残る街だからこそ猫が多く棲みつき、また闊歩できる空間があるのだろうと思います。

17’RECORD1月・2月・3月分アップ

私のホームページにRECORDを掲載しています。ポストカード大の平面作品を一日1点ずつ作り上げていくRECORD(記録)は、文字通り日記の造形版で、毎晩苦しみながらイメージを絞り出し、下書きを行い、彩色や仕上げを施して完成になります。オリジナル作品はケースに入れて工房の棚に仕舞い込んでいます。RECORDを始めて既に10年が経っていて、今までのオリジナル作品をどこかで展示するとなれば、大変な準備が必要かなぁと思っています。過去には板材を使って半立体にした作品や、手漉き和紙や布をコラージュした作品がありますが、実験するには時間が足りず、最近は技法が定番化している傾向は否めません。来年の干支をテーマに賀状にまとめる作品を作っている時期があって、今月は犬を描いていました。そんなRECORDですが、今年の1月分から3月分までの3か月をホームページにアップしました。今年はひらがな3文字を月毎のテーマにしていて、1月は「かすむ」、2月は「うめる」、3月は「こわす」というテーマで日々取り組んでいました。RECORDのページを見るには左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉が表示されますので、RECORDをクリックしていただければ、そのページに入れます。ご高覧いただければ幸いです。

週末 叔父のコンサート

家内の叔父である声楽家下野昇は82歳になります。まだ家内と知り合う前に、80歳になる日本人声楽家の歌声をどこかで聴いたことがありました。声量に乏しく年齢を重ねるとこうなるのかと思ったことがありましたが、今ここにいる叔父はまるで違う人種で、堂々とした体躯を持ち、顔の色艶も良く、ホール全体に響きわたる絶大な声量を放つ、日本人離れしたテノール歌手と言っても過言ではありません。家内も私も父を82歳で亡くしていますが、同い年になった叔父の輝くばかりの歌声はどこからくるものでしょうか。親戚の贔屓はあっても、これはどう考えても叔父の自制と鍛錬の賜ではないかと思っています。東京町田にある和光大学ポプリホール鶴川で、13時半から「福成紀美子&下野昇ジョイフルコンサート」があって、家内と行って来ました。昨年、東京上野の文化会館小ホールでの傘寿記念リサイタルが叔父の最後の歌唱と思っていたので、今回は驚きでした。カンツォーネ、シャンソン、ミュージカルの3部構成で、ソプラノ歌手の福成さんと息のぴったり合ったコンサートは、鑑賞者を恍惚とさせるのに充分な楽想を感じさせ、心から音楽を楽しむことが出来ました。これは音楽にも美術にも言えることですが、作る側が気楽に楽しんでいるようでは、鑑賞する側は生ぬるくて納得できないのです。日常を非日常に変えるには、常軌を逸して表現していかないと心底楽しめる状態にはならず、わざわざ遠方より鑑賞者を呼ぶからには、来てよかったと思わせるレベルに達しないと、コンサートや個展をやる意味がないと私は思っています。そういう意味で叔父はいつも全力で挑戦し、私に向うべき方向を指し示してくれていると感じています。私も生涯が果てるまで全力投球でいきます。因みに私は今朝7時に工房に行き、土練りと窯入れをしていました。叔父のコンサートがあったために、制作を早朝に前倒してやっていました。今日は元気をもらえた一日でした。

週末 益子から陶土搬入

例年、この時期になるとストックしていた陶土が底をつきます。栃木県益子町にある明智鉱業にファックスを送り、20kgの陶土30体を注文しました。土錬機の交換、窯のメンテナンス、そして陶土の注文と、このところ費用が嵩むことばかりが続いていますが、生活の嗜好品を削ってもこれは必要なモノばかりなので仕方がないかなぁと思っています。酒も煙草も嗜まず、夏季休暇以外は旅行にも出ない私は、唯一、陶彫制作だけが贅沢な行為です。再任用管理職として働いているうちに創作活動で費用がかかるものは全てやっておこうとしているので、一応計算通りと思っております。明智鉱業は茨城県に住む陶芸家の友人から教えてもらった陶芸専門の販売店です。20年以上も前から明智鉱業で陶土や道具を購入してきましたが、最初の頃は益子に出かけていき、その場で陶土を選んでいました。購入する陶土が決まっている最近は、電話とファックスによる注文で済ませています。搬入の日と時間を決めて届けてもらっています。今日の昼頃に益子から横浜の工房に600kgの陶土が届きました。これで1年間は何とかなります。土練りは明日やることにして、今日は乾燥した陶彫部品の仕上げと化粧掛けを行いました。夕方になって、家内と横浜のミニシアターに映画「猫が教えてくれたこと」を観に出かけました。横浜では今日から上映になるので、ミニシアターは猫好きの観客で溢れていました。この映画は家内の希望で観に行くことにしたのでした。飼い猫トラ吉が我が家に居ついてから、家内は熱烈な猫ファンになり、自宅にも猫グッズが増えてきました。まさに今は空前の猫ブームです。猫と暮らしているとブームになるのも頷けます。映画の詳しい感想に関しては後日改めますが、舞台になったトルコのイスタンブールは、自分が若い頃、滞欧生活を引き揚げてくる時に滞在した懐かしい街でした。その時のエピソードとともに記憶が甦ってきて、そこにいた猫たちがこんなふうに描かれていることに愛着を感じてしまいました。

「奇想の系譜」読後感

「奇想の系譜」(辻 惟雄著 筑摩書房)をやっと読み終えました。継続して読んでいたわけではないので時間はかかりましたが、職場で仕事の休憩時間に楽しみながら読んでいました。本書で取り上げられている6人の画家は、現在展覧会があれば多くの人が押し寄せる人気作家ですが、本書が出版された1970年には美術史の片隅に追いやられた画家たちでした。本書で取り上げている岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳だけではなく、「奇想」という視点で捉えれば、まだ論じられる画家がいるのではないかと思いました。それについて「あとがき」で著者がこんなことを述べています。「〈奇想の系譜〉という題名は、これらの画家に共通する性格を的確に浮き彫りにするような恰好の言葉をあれこれ探しあぐねた結果、止むを得ずこうつけたにすぎないのだが、考えて見ると、〈奇想〉という言葉は、エキセントリックの度合の多少にかかわらず、因習の殻を打ち破る、自由で斬新な発想のすべてを包括できるわけであり、この意味で〈奇想の系譜〉を室町時代以後の絵画史の中にたどるならば、雪村の水墨画の奇態なデフォルマションが、先触れとしての意味を持つし、『本朝画史』に“怪怪奇奇”と評された永徳の『檜図屏風』のような巨樹表現がこれにつづき、宗達の『養源院杉戸絵』や『風神雷神図』、光琳の『紅白梅図』などもこの仲間であり、さらに白隠、大雅、玉堂、米山人、写楽…と、近世絵画の動向に大きな影響を与えた錚々たるメンバーが名を連ねることになり、こうなると、傍系とか底流とかいった形容はあてはまらず、むしろ、近世絵画史における主流といってさしつかえないほどである。そしてまた、これら〈主流〉の背後から動かし、推し進めている大きな力が、民衆の貪婪な美的食欲にほかならないことも指摘されてよいだろう。」些か長い引用になってしまいましたが、改めて日本美術の斬新な面白さを再確認した次第です。日本人は奇想が好きなのでしょうか。縄文土器から始まる美術史を辿ると、奇妙奇天烈な世界が生真面目に整理されたアカデミックな世界を凌駕しているように思えてなりません。

窯のメンテナンス

2009年に相原工房を建てて、すぐ陶芸窯を設置しました。それまでは窯を借用して焼成を繰り返していた自分は、ここで漸く自分の窯を持てたのでした。今までギャラリーせいほうで発表した陶彫作品のうち、借用していた窯で焼いた作品を調べてみました。2006年発表「鳥瞰」「点景」「円形劇場」「礼拝堂」「球体都市」、2007年発表「円墳」「地下遺構」、2008年発表「遺構」、2009年発表「赤壁」がそれに当たります。2010年以降発表した「瓦礫」や「楼閣」を初めとする多くの作品群は、すべて自分の窯で焼いたものです。因みにNOTE(ブログ)に記載した工房の歩みも調べてみました。2009年4月5日に建設計画、同年5月2日地鎮祭、同年7月18日立会い検査、同年7月24日引き渡し、同年8月3日築窯、2010年1月9日窯の試運転となっていました。ということは窯を使い始めて7年が経っていることになります。陶芸で生計を立てているわけではないにしても、頻繁に使っていることは間違いありません。窯の扉の部分に錆が目立ってきたので、今日は業者に来てもらって、窯のメンテナンスを行いました。窯の天板を取り外すと、錆だらけになっていて、まずそこから錆の除去作業が始まりました。最後に窯の表面全体に銀色の耐熱塗料を塗って終了になりましたが、新品のように生まれ変わった窯に満足しました。今日は勤労感謝の日で勤務を要しない日だったので、工房に籠もって陶彫部品の彫り込み加飾や、乾燥した陶彫部品の仕上げをやっていました。このところ土錬機を買い換えたり、窯のメンテナンスをやったりして、費用がかかっています。自動車にも車検があるように陶彫の道具も手を入れていかなければならないのです。そこをカバーできるほど陶彫作品が売れていないのが厳しいところです。窯の業者が傍らで作業する私を見て、作品が出来上がるまで大変だねぇと言っていました。集合彫刻のひとつずつの部品を見ていくと、確かに大変な労力ですが、自分にはこれが合っていると思っています。明日は勤務して明後日から週末になり、作業の続きは明後日から継続して頑張っていくつもりです。

ワイドスクリーンの浮世絵師

浮世絵師歌川国芳は、魑魅魍魎が跋扈する世界を巨大な版画で表現した人で、現在読んでいる「奇想の系譜」(辻 惟雄著 筑摩書房)のラストを飾っています。「国芳の創意は、ここで、三枚続きの画面の構図法に革命をもたらす。従来の三枚続きには、一枚刷りの組合わせという意識があって、それぞれ一枚が、独立して鑑賞できるように工夫されており、構図の全体的統一性が稀薄であった。これに対し国芳は、三枚続きの画面全体を、完全に一個のワイドスクリーンとして意識し、思い切った独創的構図をそこに展開する。もっとも特徴的なのは、怪魚や妖怪のクローズアップによる衝撃的な効果を狙った作品である。」私が嘗て見た作品がまさに文中にあるもので、怪魚が三枚の版木に大きく彫られ、極彩色に彩られた凄まじいものでした。葛飾北斎の構図にも奇想天外なものがありますが、北斎はあまりにも有名になって驚くに値しなくなっているため、最近発掘された国芳の方が衝撃度が強かったというわけです。国芳のギャク系面白世界にもうひとつ加えるとすれば、アルチンボイドのような合成された顔のシリーズがあります。西欧画が日本に入ってきた時代だったので、それを翻案し取り入れたのでしょうか。国芳は社会風刺にも関心があって、今でいう週刊誌のような「売り」を狙った作品もあったようです。文中から引用いたします。「江戸町人の人気を至上とする浮世絵師にとって、魅力的ではあるが避けたほうが安全なレパートリーに、武者絵や故事、風俗に託して政治風刺をする〈さとり絵(判じ絵)〉の分野がある。当局の目にとまらない程度に表現をぼかし、しかも買う人にはすぐ察しがつくようにしておくという、綱渡りにも似たこの仕事が、いかに危険な賭けであったかは、寛政の歌麿の投獄などの先例が示すとおりなのだが、幕藩体制崩壊も目前にせまり、ようやく騒然としてきた世相のなかで、日ましに高まる庶民の武家政治への不信の代弁者を買って出たのがほかならぬ国芳だったらしい。らしいというのは、彼が、事実上この仕事にコミットしながら、巧妙に振舞って、結局牢屋入りを免れているからである。」

鳥獣悪戯について

江戸時代の絵師長沢蘆雪は、無量寺の襖にある虎図が有名で、この襖三面に大きく描かれた型破りな虎は、一目見ると忘れられない印象を残します。私はこの漫画のような可愛らしい虎が、当初好みに合わず、これは虎と言うより猫ではないかと思っていました。現在職場でとつおいつ読んでいる「奇想の系譜」(辻 惟雄著 筑摩書房)によると「『蘆雪が虎を描こうとして描けなかったとは思われない。松江市西光寺、奈良薬師寺などに精悍な虎図を見るからである。筆者は皮肉な蘆雪が胸中ひそかに戯気を描いて巨大な猫を描いたのではないかとさえ想像する』という山川武氏の見解に同意したい。」とありました。事実、長沢蘆雪の描いた他の絵には目を見張るものが多いと感じます。著書の中でこんな文章に注目しました。「酷評すれば、師応挙の亜流であることをいさぎよしとせず、種々奇想をこらしてそれからの脱出を終生心がけながら、師の画風をあまりにも完璧に身につけすぎた器用さが仇となって、結局のところ、応挙という〈水〉を離れることはできなかったようであるし、晩年のグロテスクへの傾倒も、蕭白というその道の天才の後とあっては、しょせん二番煎じを免れなかったといえそうである。しかしながら、蘆雪の面目は、何といっても、南紀での諸作に最もよく発揮されたような、大画面を縦横自在に馳せめぐる線描の達人としての水際立った腕前にあり、この点、『鳥獣戯画』や『将軍塚絵巻』以来の、線の芸術としての日本絵画の伝統を、十八世紀上方の庶民的な世界に再現した画家として評価されるべきかもしれない。」長沢蘆雪の生きざまが垣間見れるようで楽しい感想を持ちました。

「カラーアトラス」とは何か?

渋谷にあるBunkamuraザ・ミュージアムで「オットー・ネーベル展」を見てきた折に、不思議な色見本のようなスケッチブックが展示されていました。混色した色彩が大小の矩形で塗られた作品は、色彩計画のようであり、図式化された抽象絵画のようでもありました。「カラーアトラス」と題されたメモのような作品に私は惹かれてしまいました。図録の文章を引用します。「首都(ローマ)をひと通り探索した後、ネーベルは1931年10月26日、『明日から、まずイタリアの色彩の計画的な採集にとりかかるつもりだ』と決意を記している。こうしてネーベルが『忘備録』とも呼んでいる『イタリアのカラーアトラス(色彩地図帳)』という貴重な図鑑が成立した。~略~ネーベルがしばしば、色彩は『外的世界における内面の対応物』であると主張するとき、カンディンスキーほど色彩を純粋な顔料から分離させて考えていないにしても、色彩の造形的可能性についての彼のヴィジョンは色彩画の歴史の重要な一部をなしていると言える。~略~風景の中である色彩の量が多ければ多いほど、またある『響き』が際立てば際立つほど、幾何学的な形や色彩の面は大きく描かれている。全体の印象で重要度の低い色彩は小さく描かれ、支配的な色彩は大きく描かれた。彼はある風景や特定の部分を眺めたときに呼び覚まされた『響き』の数を書き、場所だけではなく時間帯や、その響きの『肖像』を描いた対象物ー家の壁や漁船、オリーブや松の林、山脈や海岸などーの名を記した。」(T・バッタチャルヤ=シュテットラー著)「カラーアトラス」は色彩画を描くための尺度になるもので、その対象から離れて、カタログを作るように色彩だけを印象としてまとめたものでした。絵画が非対象になっていく過程で、様々な試行があったことが伺える展示でした。

週末 大型ストーブの設置

最近はめっきり寒くなってきました。工房は倉庫建築のため内壁がありません。室内は外気とほとんど変わらない温度で、辛うじて雨風が陵げる屋根がついている簡単なものです。夏は暑く冬は寒いという自然に近い環境にあります。朝から工房で作業をしていたところ、寒さに耐えられず、今日から大型ストーブを設置しました。大型ストーブと言っても家電量販店で売っている一番大きな石油ストーブで、工房の広さから言えば頼りない限りです。ストーブが無いよりマシという程度ですが、手を温めるのにはちょうどいいのです。自宅の暖房器具は電気やガスに代わっていて、ガソリンスタンドで灯油を買うこともなくなりました。工房のストーブだけが今だに灯油が必要なので、今度ガソリンスタンドに立ち寄るときは灯油用ポリタンクを用意しようと思います。今日から久しぶりに陶彫成形を行いました。成形は立体を造形していくので、彫刻的な仕事と言え、制作工程の中で自分には一番面白い作業です。大き目のタタラを前日に準備していますが、それで補いきれない部分は紐作りでやっています。陶土の強度を保つため裏側から補強するのも紐状の陶土です。何とか一日で成形を1点終わらせて、昨日仕上げた陶彫部品の窯入れを夕方行いました。日曜日は昼頃に近隣のスポーツ施設に出かけて水中歩行をしてきます。今日も成形の途中に時間を決めて行ってきました。週末たっぷり制作をすると何とも言えない疲労に襲われます。充実感はありますが、翌日からの勤務が心配になるほどです。