先輩の版画展へ行く

版画家の加藤正さんは大学の先輩で、学生時代よりエッチングやアクアチントの技法を使った銅版画をやっていました。現在、東京渋谷のギャラリーで個展を開催しているので見に行ってきました。加藤さんには会えませんでしたが、長く銅版画に関わっていた作家なので技法的には円熟度が増し、イメージ豊かな世界の数々が自分を迎えてくれました。草や木の根のような植物的な蔓が無数に絡まり、やがて塊となって大地に蔓延り、また世界を分ち、死に絶え、再び蘇生していく加藤ワールドは、小さな要素で壮大な世界を描いているように思えます。象徴的風景画と言うべきか、絡まる蔓はまさに私たち人間の姿かもしれません。加藤さんは私の個展にもフラリと現れて、近況などを話し合ったりする仲です。今後ともお互い健康で変わらぬ制作生活が続けられるようにしたいと願っています。自分は加藤さんの世界観のさらなる展開を見たいと思う一人です。

「ノア・ノア」の情景描写

通勤途中に読んでいる「ゴーギャン オヴィリ 一野蛮人の記録」(ゴーギャン著 岡谷公二訳 みすず書房)にある「ノア・ノア」は、ゴーギャンがタヒチ滞在の回想を綴ったもので、詩情溢れる文章です。ゴーギャンがタヒチの民族を受け入れ、また周囲からも受け入れられていく過程に興味を覚えました。そこから西欧の文明人が南海の島に出かけていき、そこで彼らと混じって漁に出かけたり、彫刻のための木を切り倒して運んだりという原始的で豊かな生活がイメージ出来ます。「私の前をゆく彼の動物のようにしなやかな体は、魅力的な輪郭を持ち、性を感じさせなかった。この若さから、周囲の自然とのこの全き調和から、芸術家としての私の心を魅する美が、香り『ノア・ノア』が生まれていた。単純なものと複雑なものとが互に牽かれあう気持ちから生まれた、この堅固な友情から、私のうちに恋情が花ひらいた。」という箇所で、若い青年に対する性を超えた感情が芽生え、ゴーギャンは不思議な恋情に憑かれてしまいます。「私は罪の予感、見知らぬものに対する欲望、悪のめざめのごときものを感じた。」と続き、やがて平静な我に返るくだりがあります。まさに芸術的なインスピレーションを与えてくれたタヒチでの生活が、その後のゴーギャンを憑き動かしていくのだと思いました。

「ノア・ノア」の出版事情

「ゴーギャン オヴィリ 一野蛮人の記録」(ゴーギャン著 ダニエル・ゲラン編 岡谷公二訳 みすず書房)を通勤の途中に読んでいます。同書の中に「ノア・ノア」という章があって、その美しく香しい情景描写に没頭してしまいました。「ノア・ノア」を書き下ろした当時、ゴーギャンは友人の詩人に原稿を委ねたそうです。1893年頃の話で「ノア・ノア」に友人の詩人がかなり手を入れて共著として出版したようですが、もとの風味が損なわれていたことで、ゴーギャンは大変残念な思いをしたことが本書の前述にありました。いろいろな事情があって、初稿の「ノア・ノア」が復刻されて世に出たのはやっと1966年頃というので、ゴーギャンは既に他界していてこの事実を知りません。ここに掲載されている「ノア・ノア」はダニエル・ゲラン編によるもので、ゲラン氏自身が「(詩人の手を加えたものは)当初のものよりはるかに真実味の薄い、誇張されたもの」と述べているので、初稿の風味を生かしたものであろうと思われます。「ノア・ノア」の感想については別の機会にしますが、眼の前にタヒチの情景が広がる詩情溢れる文章に魅了されました。

書物の魅力について

自分は昔から書物が大好きです。本の虫と言うわけではないけれど、常に書物を携帯しています。書物は扉を開くと無限な世界が広がっている感じがしています。それは映像のような視覚的イメージが限定されない世界で、自分勝手に想像できるところが良いと思っています。今読んでいるゴーギャンの著作は、画家が住んだタヒチが描かれていています。自分はタヒチには行ったことがありませんが、自分の中でタヒチの情景を作り上げていて、そこで生活するゴーギャンをイメージしているのです。タヒチの情景は、ゴーギャンの絵画から受けたものを自分なりにアレンジしているのです。ゴーギャンは自画像が残っているので、その人物が異文化の中で創作活動をしている様子を頭に思い浮かべています。書物の魅力はイメージ力を鍛え上げ、複雑に絡み合った語彙によって思索を提供してくれることだと考えます。小説も好きですが、やはり自分の読書癖はノンフィクションばかりで、架空のドラマはあまり読んでいません。ましてやテレビや映画になったものはほとんど読みません。イメージが予め作られていることを避けたいのです。書物は自分にとって心の友です。月並みな言い方ですが、通勤時間に友と密会しているように感じています。

アフターセブンの木彫

昨晩と今晩は工房に行って新作屏風の木彫部分の制作をしていました。職場から帰宅した後、工房に出かけているのでアフターセブンといったところでしょうか。アフターセブンが毎晩できればいいのですが、疲労のため意欲が湧かない日もあります。RECORDやこのNOTE(ブログ)のように習慣にするのは無理かもしれません。ただ、工房に来ると気分が高まって心地よくなってきます。周囲は暗くなって蛍光灯だけが煌々としています。そんな中で制作に没頭するのもいいものです。電動工具を使った木彫は音が出るので近隣に迷惑がかかる可能性があります。工房は植木畑にありますが、夜は静かな地域なのでそこだけが心配です。またアフターセブンができる日があるでしょうか。たかだか2時間程度ですが、されど2時間で作業はかなり捗るのです。作業を長い時間やっていられる週末より密度の濃い時間を過ごせます。帰宅しても気力が残っていれば、アフターセブンを再びやっていきたいと考えています。

RECORD12月のテーマ

幾何抽象をベースにやってきたRECORDも今月が最後のシーズンになりました。パターンが限られた中で画面を作っていくのはなかなか難しく手枷足枷もここまでくると雁字搦めの状態になっています。やっと最後の1ヶ月がきて、ちょっとホッとしている感じは拭えません。今月は小さな正方形を碁盤の目のように並べた画面を作りました。過去にあったかもしれませんが、前述した通り展開の幅が少ないので、今月はこれでやっていきます。正方形をいくつか歪めて、整然と並んだ画面に変化をつけました。RECORDは一日1点ずつ仕上げていくノルマを自分に課しているので、その日の気分によって思わぬ効果を齎す作品ができたり、また苦労したわりには駄目だったりします。幾何形態を扱っていても心の変化が表れてしまうのです。継続することを目標として、今後も頑張っていこうと思います。

週末 後輩の決意表明

工房には若い世代の子たちがやってきます。彼らは画家を目指して課題を一生懸命やっています。自分の作品の手伝いもしてくれます。新作屏風の砂マチエールはこの子たちにお願いしているところです。自分が20歳の時に夢見た彫刻の仕事は、30数年経った今もやっていて初志貫徹と自負しています。若い子たちは、私の姿勢を見て画家を目指しているのかもしれません。今日来ていた2人とも自分と同じように就職をして、週末だけ制作をしている子です。一人の子が創作活動は絶対に止めないと決意表明をしていました。自分も20歳の頃は同じ思いを持っていました。自分は学校を卒業した後、彫刻を作るための作業場がなくて四苦八苦しましたが、工房に出入りしている子たちは、この工房があるので制作環境は整っています。その分、自己表現を極める時間も空間もあるので、思いさえ保持できれば夢の実現も可能になるでしょう。そんなことを傍らで考えながら制作をやっていました。

祖母の23回忌

祖母の記憶が次第に薄くなりつつあります。齢89歳で他界した祖母は、長い人生を精一杯生きたと言ってもよいと思います。祖母は横浜に生まれ、関東大震災や第二次大戦を経験し、この地で田畑を耕し、大工の棟梁だった祖父とともに歩んだ人生でした。参会した親戚もだんだん少なくなってきて、故人を偲ぶにはあまりにも時間が経ってしまった感は拭えません。ここにきて法事が立て続けにありました。先日他界した叔父より、23回忌という時間が経過している分だけ祖母はリアルな状況が消えていたので、今日は穏やかに過ごせました。時間を見つけて工房に行こうと考えていましたが、やはりそれは無理で、祖母の供養として自宅でゆっくりしていました。明日は制作を行います。工房に若い子たちもやってきます。明日から通常の生活に戻ります。

2011年を締めくくる1ヶ月

12月になりました。残り1ヶ月で2011年が終わるのが実感としてありません。光陰矢の如しとはよく言ったものです。今月の制作目標として新作屏風の木彫部分の完成を考えています。まだ木彫を始めたばかりなので、いささか無謀な目標ですが、来年夏の個展を考えるとやらざるを得ません。今月の週末も全部制作に充てることができず、その中で厳しい制作工程を組んでいますが、健康に気遣いながら精一杯頑張ろうと思っています。新作は久しぶりに砂マチエールを使います。砂と硬化剤が大量に必要になります。ボランティアの子たちに手伝ってもらわないとやりきれないかもしれません。そういえば工房に出入りしている子が、美大の社会人入試を受けて無事合格した報告がありました。その子は国家公務員で美大の夜間部に通うことになります。自分と同じ二束の草鞋。自分を見習って画家になる決心をしたようです。じっくりと確かな足取りで自分の世界を構築して欲しいものです。慌しい時季にちょっと嬉しいニュースでした。

信仰とはなにか?叔父の告別に捧ぐ

齢80歳で叔父量義治が逝去しました。今日は告別式でした。叔父は東大でカント哲学を専攻し、定年まで大学の教壇に立っていました。多くを語らなかった叔父ですが、自分の個展には度々来て示唆に富むコトバをかけて頂きました。前夜式や告別式を通じて周囲の親戚が知らなかった本当の叔父の姿が浮き彫りになりました。叔父は学問の前に信仰ありきの人だったようです。10代でキリスト教に心酔し、一度は牧師を目指したことがあったけれど、周囲の説得で大学に行くことにしたこと、無教会主義をもって聖書の解釈に努め、信仰に裏付けられた論理を展開し、その厳しさは世俗的な私たちには到底理解が及ばなかったこと等が俄かに見えてきました。告別式で代表牧師が叔父の小さな論説を読み上げました。「愚か」と題されたもので、雑駁な紹介をすれば「どんなに信仰しても成就したためしがない、歴史的に見ても信仰は愚かとしか言いようがない、しかしどんなに愚かであっても信仰し続けること、神の存在を信じることだ」といったような内容でした。叔父に師事した若い学生の弔辞では、「信仰に逃げてはいけない、信仰も世俗的な仕事も命がけで行いなさい」と言われたことを独白するように語っていました。叔父にとって信仰とは何だったのでしょうか。いや、人にとって信仰とは何でしょうか。今となっては叶わない願いですが、自分も思索に支えられた人生を叔父に問いかけてみたいと感じました。叔父は結論だけをきっぱり言う人で、自分の作品に対しても「これでいい。これでいきなさい。」と言っていたのが印象に残っています。自分は今後ともその一言だけを頼りに創作を展開し続けていくつもりです。

難解な書籍に挑む時

NOTE(ブログ)に何度となく書いていることですが、昔買い込んだ数々ある難解な書籍をどうしようか考えています。買い込んだものばかりではありません。贈呈を受けたものもあります。今日この話題にしたのは哲学書を贈呈してくれた叔父が他界した連絡を受けたためです。叔父の量義治はカント哲学で身を成した人です。晩年には瑞宝中綬章という勲章も頂いています。その叔父が贈ってくれたカント哲学に関する自著は、自分にはどうにも難しくて読み解くだけの博識を持ち合わせていないのです。いづれ読む時が来ると思って書棚の埃に塗れて仕舞ってありますが、本当に挑戦する時がくるのでしょうか。その他諸々の書籍も思想に蓋をしたまま眠っています。自分が20歳そこそこの頃はどうしてこんなに難解な書籍ばかり買っていたのでしょうか。少し読んでみては挫折して、また別のものを読み出しては諦めるという繰り返しが、今となって再読という挑戦を自分に課す結果になっています。30年経ってもなお興味関心が薄れずにいたことが唯一の救いです。読書人生の仕切りなおし。中年パワーで頑張ってみようかと思うこの頃です。

「ゴーギャン オヴィリ 一野蛮人の記録」

自宅の書棚には学生時代に購入して途中で放棄した書籍がたくさんあります。書棚を眺めるたび再読をしたいと思いつつ30年が経ってしまいました。今回読み始めた「ゴーギャン オヴィリ 一野蛮人の記録」(ゴーギャン著 岡谷公二訳 みすず書房)もその一冊です。近頃、書店に行ってもなかなか読みたい本に巡り合わず、それならば自宅にある本をもう一度手に取ってみようと考えたのでした。画家ゴーギャンは大好きな画家の一人です。またゴーギャンは文才にも長けていて美術評論でも力量がある芸術家です。近代から現代に美術的価値観が移行する時代にあって、画業でもゴーギャンは大変な存在感を示しています。フランスから様々な場所を経由してタヒチへ。自らを野蛮人と称したゴーギャンはその時々で何を考え、また感じていたのでしょうか。本書からどんなことが読み取れるのか楽しんでいきたいと思います。30年前どこまで読んだのか忘れているので、今回は初めからゆっくりと時間をかけて読んでいくつもりです。通勤電車の中でゴーギャンに接する時間を持ちます。

「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」読後感

「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」(ジャン・ジュネ著 鵜飼 哲訳 現代企画室)を読み終えてみると、これは特異なフランスの文筆家ジャン・ジュネの詩情や思索の裏づけとなっている人生観を読み解く扉だと思いました。本書に収められた6編のエッセイのどの扉を開いても、ジュネ独特の論調があって、彫刻家ジャコメッティや画家レンブラント、サーカスの綱渡り芸人といった描く対象を見てもジュネらしさが伝わりました。解説の中に「白」というキーワードが出てきます。ジャコメッティの絵画における空白、それは単に空白でなく、そこにも見えないデッサンが存在する意味のある空白を「白」として扱っています。彫刻も然り。粘土で作られた実像そのものではなく周囲に存在する意味のある空間。そうした「白」がジュネの人生にもあって、空白期こそ表現を獲得するための重要な時期と位置づけているようにも思えます。暫らく書棚に仕舞いこんだ後、再び本書を取り出す機会があるでしょう。再読をしたいと思える一冊だからです。

週末の絵画展

公務員でありながら別の顔を持つ、言わば二足の草鞋を履く人は結構いて、決して自分ばかりが例外ではありません。同じ職場にも芸術やスポーツに勤しむ職員がいます。今日は彫刻の素材を買いがてら、同じ職場で絵画をやっている人の展覧会に行きました。管理職である自分は立場上、彼の上司にあたりますが、芸術を志す者同士としては同じ立場となって彼が求めている世界を応援しています。彼の世界は西欧に生きる人々を丹念に描き出す具象絵画です。今回美術団体で発表した新作は、ハンガリーの小さな町の馬車を描いたもので、茶色を基調にした深い渋みのある画面でした。ほとんどモノクローム。でもそこに豊かな色彩を感じさせる手法は見事でした。奇を衒うでもなく、斬新な技法でもない画面からは、訥々とした不器用な展開でも確かな足取りで世界を構築する画家の姿が見て取れました。秋の季節に相応しい時間を過ごしました。

週末 小さな木彫

新作屏風の制作を進めています。陶彫部品はある程度先が見えるほど出来上がってきたので、次の段階として木彫部品を作り始めました。小さな円筒状で先を細く彫った木彫部品を18個ほど作り上げました。これは陶彫部品の中に組み込む予定です。木彫を組み込む陶彫部品は同じ大きさの矩形がいくつも連なる形態をしていて、その矩形ひとつひとつに木彫された部品が収まるのです。つまり陶と木で集合体を作るわけです。板材を重ねて作る部分もあります。そこにも彫り込まなければならない箇所があります。明日は今日みたいに制作三昧というわけにはいかず、職場関係で出勤する時間帯があります。週末をすべて制作に充てられない事情があるので、貴重な時間を有効に使っていきたいと考えています。

風土から考える素材

昨日NOTE(ブログ)で、気候風土の影響を受け、世界各地にはさまざまな暮らしがあり、そこにある住居が美しいということを書きました。建築素材にしても世界各地では木材や日干しレンガや藁土といった各地で産出される素材を使っています。私たちは昔から馴染んできた素材が身近にあり、それをもって家作りに有効利用してきた歴史があります。ただし、現代の住宅事情はどうでしょうか。コンクリートやガラス、ステンレス、その他諸々の新建材によって私たちの家は建てられていて、昔に比べれば画一的に都市化されているように思います。日本各地を旅しても同じような素材、同じような工法で建てられた家が多く、まさに風景の無個性化が進んでいると言わざるを得ません。木材で古来から伝承された工法で建てられた家々は、今ではむしろ保護され、観光化されていると言っても過言ではありません。そんな環境に囲まれていると彫刻制作にも影響が出てくるようにも思えます。国際的に見ても現代彫刻の素材はさまざまで、自分の思考や構造上の問題、あるいは嗜好によっても自由に素材を選んで制作されています。自分は亡父が造園業を営んでいた関係で木材が身近にありました。陶土は自分の嗜好によるものですが、土に拘るところは家業と無縁ではないと考えます。気候風土が現代生活に及ぼす影響が少なくなってきた現在を考えると、むしろ自分の生育風土との関係で、自分は陶土や木材を選んで自作を作っていると考えたほうが自然かもしれません。

生存のしるし

職場に「Survivalism~70億人の生存意思~」(GENERATION TIMES編 ダイヤモンド社)が贈られてきました。美しい写真とわかりやすい解説が満載された書物です。普段は窮屈な近視眼的な社会で仕事をしている自分にとって、地球規模の大きな視点を与えてくれる楽しめる一冊です。自然環境に影響を受けて、太古から現在までさまざまな生活のカタチを作り上げ、大地に適応した暮らしをしてきた私たち人類。私たちの祖先は衣・食・住の確保のために道具を発明し、技術を伝承し、代々受け継がれた財産で今の暮らしを営んできました。とくに本書で自分が注目したのは家のカタチです。「私たち人類の生存のしるし」として文面に謳われていた家は、建築素材から工法に至るまで、その土地の気候風土と密接な関係をもっています。写真を見ていると、実際その場に行って、この眼で確かめてみたい欲求に駆られます。暮らしと密着した造形物の中で、家ほど人間の生存実態を示すものはないと思います。しかも何という美しい空間造形なのでしょう。構造と装飾の魅惑に富んだ世界各国の「生存のしるし」を見てみたいと願ってやみません。

謹労感謝の日に寄せて

祝日法では「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」日と言うのが勤労感謝の日です。だから今日は通常の勤務を要さない日ですが、職場ではやらなくてはならない仕事を抱えて休みが取れない職員が結構います。私は今日は休みを取りました。ただし、創作活動は休むわけにはいかず、朝から工房にいました。陶彫の彫り込みや小さめの木彫をやっていました。週の途中に創作活動ができる日があると調子が出てきます。先週末から2日おいて作業が出来ると作品の思考に継続性が出てくるからです。日頃、朝から晩まで働いている自分に創作活動という褒美を与えていると考え、今日は思う存分作業をしました。創作活動は遊びの要素があって、自分にとって彫刻制作は労働ではありません。趣味というには気楽な要素はまるで無く、むしろ命をすり減らすことが多いので、それは労働以上に厳しいもので、趣味とは別のモノと考えています。勤労感謝の日に寄せて、そんなことを思いました。

「犯罪少年」を読む

フランスの作家・劇作家のジャン・ジュネの著作を通勤途中に読んでいます。ジュネは若い頃から放浪や犯罪を繰り返し、投獄されていた時期があります。表題の「犯罪少年」は、当時の刑務所暮らしとそこで培った自己価値観を振り返って思索を交えながら描いています。この原稿はフランスのラジオで放映されるものだったらしく、内容が拒まれたので活字として公開したものだと前書きがありました。社会通念やモラルの虚飾を取り除く意図、あるいは意図しないまでもそうしたジュネの感覚は、危ういコトバを孕んでいて、ともすれば犯罪における美辞麗句とも取られかねない表現があります。人間の根源に潜む本当の意味での存在意義や尊厳を求めるために書かれた「犯罪少年」は、ジュネの描写における心理や思索、詩情を読み取り、また理解をしながらじっくり読んでいきたいと思っています。

イメージが湧く時

公務に追われ余裕のない日常を送っています。頭の中は来年度の人事計画のことでいっぱいですが、そういう時は週末以外には彫刻のイメージは出ないものと思っていました。ところが通勤時間帯にぼんやり立体的なイメージが見えて驚きました。現実逃避かなと思いつつ、昼間の仕事には腰が座ってきたので、仕事のやり繰りに負けているわけではないと思っています。こうしたイメージはどこからやってくるのでしょうか。また、どんな時にイメージが浮かぶのでしょうか。多忙な時ほどイメージが豊富に湧いてくる不思議さを、実は今までも経験したことがあるのです。時間がない時ほど作業が進む、イメージがまとまりやすい、これは自分の心理状態と無縁ではないはずです。イメージが湧く時、自分が置かれている状況はどんなものか、決して暇を持て余している状態ではなく、むしろ山積する仕事に立ち向かっている時にこそイメージが脳裏を過ります。夜の帳が下りるのを待たなくても、仕事の最中にほんの数秒で我に返れる時があるというのは何とも不思議です。

あっという間に過ぎる週末

休日があっという間に過ぎていく感覚をもつのは自分だけではないと思いますが、自分は週末2日間でやるべきことが多い一人であることは間違いないと思っています。公務員と彫刻家。二束の草鞋を履いている者の宿命ですが、彫刻に勤しむ週末は、あっという間に時が経ってしまいます。今日は工房に朝から夕方までいました。陶紋の彫り込み、新作屏風の木彫部分の準備、RECORDの彩色等あれやこれやとやっているうちに日暮れになりました。何かひとつの制作に集中しているなら一日の充実を感じることができますが、今日のように雑多な作業をしている時は一日の達成感がないのです。何もせず一日が終わった感じがしています。よくよく考えれば必要なことばかりですが、週末の時間は矢の如く短いと思っています。明日からウィークディが始まり、それはそれでマネジメント力が問われる仕事が待っています。公務員と彫刻家。二束の草鞋がいつまで続くか、そんなことも念頭に入れながら、今この時間を過ごしています。

週末 工房のストーブ試し焚き

今日は大雨警報が出るくらい激しい雨が降りました。工房で朝から制作をしていましたが、雨の音に時折手を休めました。今日はさほど寒さを感じない一日でしたが、昨年のNOTE(ブログ)のアーカイブを見ると、11月21日(日)にストーブを出しています。そこで今日はストーブを出して試し焚きをしました。自分は身体全体を使う彫刻を制作しているので作業が始まると寒さを感じなくなりますが、工房に出入りしている若い子の中には絵画をやっているうちに寒さで悴んでしまう子もいます。ストーブで暖を取るうちに眠くなってしまう子もいます。いずれにしろ工房は厳しい環境であることは間違いありません。これから寒さが増す季節を迎えます。広い空間の割には頼りない大きさのストーブですが、大変重宝しています。今日制作は陶紋の彫り込みをやりました。意外に時間がかかり、まだ1点しか終わっていない状態です。明日も継続です。

矢内原伊作から見たジャン・ジュネ

「その異常な経歴や放浪者風の生活態度から考え、また『泥棒日記』の成立の事情や宝石のようなイマージュが次々と湧き出る文体などから考えると、ジュネはいかにも天衣無縫といった言葉のあてはまる天成の詩人のように思われるが、実際はそうではなく、その一行一句が苦心して彫琢され鋭利な自意識によって研磨されたものであることをぼくは知った。彼は放浪者ではなく、むしろストイックな意志で己れを厳しく律する修道僧に近い。厳しい訓練と注意力の集中によって危険な中空を渡る孤独な綱渡りを讃えながら、おそらくジュネは彼自身の理想像を描いたのであろう。」(「ジャコメッティ」矢内原伊作著 みすず書房)先日からNOTE(ブログ)に書いているフランスの作家ジャン・ジュネに関する文章が前述の書籍にあったので紹介します。ジュネは、若い頃に放浪や犯罪を繰り返していた経歴をもっていますが、文才に長けていたことで世に出た作家です。過激で波乱に富んだ人生の中で、矢内原伊作の観察によれば、コトバの推敲を繰り返していたように思います。破天荒な人となりをイメージしていた自分には意外な一面と移りました。確かに今読んでいるジュネの著書から受ける印象は、矢内原伊作の描写に納得さえしてしまうものがあります。

「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」

昨日NOTE(ブログ)に書いたジャン・ジュネの著作とは、表題の「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」(鵜飼哲 訳 現代企画室)のことです。彫刻家ジャコメッティは、自分が学生時代から興味を寄せている巨匠で、ヘンリー・ムアと対極した表現として自分では捉えています。ジャコメッティは矢内原伊作というモデルを得て作った作品が数々あります。モデルが日本人だったことで大変親近感があります。学者であった矢内原伊作は専門の論文ではなく、ジャコメッティとの交遊録しか自分は読んだことがないのです。今回はジャン・ジュネによるジャコメッティとの交遊録ですが、詩情に溢れる中で展開するジャコメッティ芸術に対する思索には興味を抱きます。読み始めてすぐ思索の部分ではなく、ジャコメッティを描写している部分に面白みを感じました。「彼はほほえむ。すると、彼の顔の皺くちゃの皮膚の全体が笑い始める。妙な具合に。もちろん眼が笑うのだが、額も笑うのである(彼の容姿の全体が、彼のアトリエの灰色をしている)。おそらく共感によってだろう、彼は埃の色になったのだ。彼の歯が笑うー並びの悪い、これもやはり灰色の歯ーその間を、風が通り抜ける。~以下略~」という箇所は、自分が勝手に描いていたジャコメッティのイメージそのもので大変愉快でした。また、今までのように通勤電車の中で時間をかけて読んでいきたいと思います。

ジャン・ジュネの著作

フランスの作家・劇作家で政治的活動にも身を投じたジャン・ジュネは、自分にとって馴染みの薄い作家でした。矢内原伊作著による「ジャコメテッィ」(みすず書房)に登場してくるジャン・ジュネに少なからず関心を寄せる程度でしたが、今回ジャン・ジュネの著作を読んでみることにしました。ジャン・ジュネは売春婦だった母のもとで1910年に生まれています。生後7ヶ月で捨てられたジャン・ジュネの生育暦を見ると、凄まじいものがあり、放浪や犯罪を繰り返し、また投獄もされています。文才をジャン・コクトーに認められ、コクトーやサルトルらの請願によって大統領の恩赦を受けて、ようやく自由の身になれたようです。その後、革命に参加したり、反戦運動等の政治活動を続け、1986年に世を去りました。まさに波乱万丈の人生で、自分のような恵まれた平均的な家庭に育った者には、到底理解できない哲学があろうかと思います。どこまで共感できるかわかりませんが、特異な環境で創作活動を展開した芸術家の片鱗に触れてみたいと考えました。

「生きのびるためのデザイン」読後感

10代の終わりに読み始めて途中で放棄し、30数年経った今になって再読を始めた書籍は結構あります。A・ブルトンの著作も然りで、最近になってようやく全て読み終えた按配です。工房に出入りしている若い美大生に私の若い頃に挫折した書籍を貸していますが、どうやら彼女も挫折しているらしいことがわかりました。ある程度の知識や経験がないと難解極まりないと感じるのは誰でも同じなのだと思います。さて、表題の書籍ですが、当時工業デザインを学ぼうとしていた高校生だった私にとっては大変厳しい内容で、派手で浮ついたデザイナーを夢見ていた自分の進路は、社会的責任を負うという壁にぶち当たって儚く散ってしまったのでした。もちろん現在の自分は、ある組織の管理職として常に責務を背負っているので、工業デザイナーとしての社会的責任とたいして違いはないと感じています。30数年経った今なら理解でき、また共感できる箇所も多いのが本書です。人間が生存していくために何が必要か、デザイナーは今何をなすべきかを問う根源的な職業課題が描かれています。古い書籍で在庫があるのかどうかもわかりませんが、工業デザインを学ぶ若い世代に是非とも読んでいただきたい一冊であろうと思います。

窯入れが始まると…

窯入れが始まると、出勤前の早朝に工房へ行き、窯内の温度を確認し、また仕事帰りにも工房に立ち寄っています。自動的にコントロールされる電気窯なのに、自分は温度が気にかかって仕方ないのです。自分の手の届かないところで作品化される陶彫は面白い反面、不安なところがあります。自分はこの焼成という過程が好きで、陶を素材にした彫刻を作っているわけですが…。若い頃からずっとピカソやミロの自由闊達で色彩豊かな陶芸に魅かれています。かつて暮らしていたオーストリアのウィーンでは、フンデルトワッサーの立方体を歪ませた大き目の壺がウィンドゥに飾られていて、ケルントナー通りを歩くたび、そのウィンドゥを飽きることなく眺めていました。海外の芸術家の陶を素材にした作品が初めに目に飛び込んできましたが、帰国した後は栃木県や茨城県の陶芸の里に関わりをもって現在に至っています。窯とのつきあいは1985年に日本に帰ってきてから始まっています。だいぶ時間も経って、窯入れも慣れたはずですが、やはり窯入れが始まると、そわそわ落ち着かない現状は最初の頃と変わりません。水曜日か木曜日に窯出しをする予定です。今回もどうなっているのか神のみぞ知る結果です。

週末 陶紋の再制作

前回の焼成でヒビの入った陶紋4点を再度作ることにしました。30cmの高さのある直方体に文様を彫り込んだ単体の陶彫です。風景の中に点在させて撮影をしたい意図があるので、これはどうしても諦めるわけにはいきません。ヒビの原因を確かめながら補強を考え、とりあえず成形をやってみました。しばらくビニールをかけて放置して様子を見ようと思います。その間に昨日仕上げと化粧掛けを終わらせた陶彫部品数点の窯入れを行いました。今日はこの季節にしては暖かく好天気に恵まれた一日でした。工房に若い世代の子たちもきていましたが、自分は用事があって工房を出たり入ったりしていました。朝8時半から夕方6時近くまで細切れに作業をしていたら、さすがに疲れました。この爽やかな季節は制作が進むのですが、疲労感も増してヘトヘトになります。明日から金曜日までは公務が待っています。心身が休まる暇がありませんが、二束の草鞋を履く者の宿命として受け入れてやっていきます。

週末 陶彫制作が大詰め

週末になり、工房で制作三昧の時間がやってきました。新作屏風に接合する陶彫部品の仕上げが大詰めを迎えています。新作としては最後の窯に入れることになります。陶彫部品がすべて出来上がったところで、再度全体構成を確かめて次の工程に進みます。次の工程は木彫部品を作ることです。陶彫部品と木彫部品の組み合わせ、表出された部分と隠された部分の関係、そんなところを考えながら制作を進めていく予定です。とりあえず今は陶彫部品のことだけに注目しています。朝から夕方まで休む間もなく作業をしても思うように工程が進まず、時間ばかりが過ぎていきます。週末がやっと来たかと思うと、あっという間に過ぎていく貴重な時間に焦りを覚えます。明日も制作ですが、明日は職場関係の用事があって制作三昧とはいきません。何とか時間をやりくりしていこうと思います。

生育・生活環境について考える

現在読んでいる「生きのびるためのデザイン」(ヴィクター・パパネック著 阿部公正訳 晶文社刊)の中に「美的に整えられた環境がいかに重要な意味をもつか、ということを証明するために」行った実験のことが書かれていました。2グループの実験用ネズミを、一方は「恵まれない環境」で育て、他方を「恵まれた環境」で育てたらどうなるかというものです。「~略~この実験の結果、恵まれたグループのほうが学習能力が大きく、精神の発達も速く、新しい刺激に対する柔軟性ないし適応性が強く、記憶力もはるかによい、ということがわかった。しかも、年をとっても精神的能力を失わずに維持していた。~略~」という箇所に注目しました。「~略~実際、ネズミたちの恵まれない環境に匹敵する人間の環境は、世界の人口の90パーセント以上の人びとの場合に見られるといってもよい。この25年ほどの間、人間の作った環境は徐々に自然の生態系の性質を示すようになってきた。連鎖、使用への反応、自己再生などである。全人類はこの新しい生態系に組み入れられているのであるが、自分たちがひとつの生息環境から追われて、いまひとつの環境へと強いられてゆくのに対して生物学的仕組みがどうように反応するか、ということについてほとんど考えをめぐらされていない。今日の社会の、いわば動物園のごとき場面を見るだけでよいだろう。~略~」という現在の環境に対して警鐘ともとれる文章が続きます。本書は論理の捉えが大きいのですが、デザインを切り口にした人としての生存に関わるものだと思っています。

閉じ込められた造形

子どもの頃、暗い狭い通路で右往左往した記憶から、僅かながら閉所恐怖症が残る自分にしては、閉じ込められた世界をイメージとして描くのはどうしたものだろうと思っています。怖いもの見たさなのか、創作は自分の記憶とは別のところで発想されるものなのか、さらに観念的なものなのか、自分にはよくわかりません。閉じ込められた造形は、ジョセフ・コーネルが作った詩的なボックスアートにしろ、若林奮が制作した全体を埋めて一部を表出した彫刻にしろ、自分が魅力を感じるものばかりで、そうした芸術家の創作活動に影響をされていることもあろうかと思います。現在制作中の陶彫新作は、まさに閉じ込められた造形なのです。ところどころ表出した部分に陶彫部品があって、埋められた部分と表出した部分の関係に今回の造形の醍醐味があります。されど自分が自分の造形世界の中に閉じ込められたら、正気を失って光を求めて彷徨い歩くかもしれません。自分の深層心理に何があるのか、閉じ込められた造形を精神のカタチとして捉えるなら、一度自分の心を分析してみたいとさえ思っています。