上野の「若冲展」雑感

伊藤若冲は1716年京都の錦小路にあった青物問屋「枡源」の長男として生まれ、1800年に84歳の長寿を全うして世を去った奇想の画家でした。若冲は当時京都で活躍していたようですが、没後埋もれてしまい、同時代を生きた円山応挙のように歴史に名を残すことがなかった画家でした。そのためか私が伊藤若冲の名を知ったのは、そんなに昔のことではありません。アメリカ人ジョー・プライス氏の日本画コレクションの「鳥獣花木図屏風」がテレビで紹介され、その奇想天外な作風に驚いたことが、若冲を知った契機でした。それがいつ頃だったのか記憶にありませんが、私は既に公務員として仕事をしていました。「鳥獣花木図屏風」のモザイクのような摩訶不思議な雰囲気に、現代流の新しさを感じたことで強く印象に刻まれました。暫くして若冲の動植物を描いた作品に触れて、その卓抜した描写力と表現力に目を見張りました。これは単なる写実ではない、象徴として捉えた超現実主義的な世界だと感じ、この時も魂が揺さぶられました。この心の琴線に触れるものは何なのか、それを感じたのは私一人ではなかったようで、やがて若冲ブームが到来しました。現在、東京上野の東京都美術館で開催されている「若冲展」には多くの人が押しかけています。円形スペースに展示された「釈迦三尊像と動植綵絵」33幅は圧巻でした。若冲が40代前半から50代前半にかけて10年を費やした迫真のあるシリーズは、まさに若冲が渾身を込めた代表作と言えます。私が訪れた日も「釈迦三尊像と動植綵絵」の前に多くの鑑賞者が集まっていましたが、人を上手に掻き分けて、私は執念をもって隅から隅まで舐め回すように見てきました。「鳥獣花木図屏風」も来日していました。私の後方で若い男女が「若冲の空想の動物の目はみんな可愛い三日月型をしているよね。」と面白いことを呟いていました。成る程、確かに空想の動物は特徴的な目をしているなぁと思いました。若冲の超現実的キャラが現代の大衆に受けているのも、こうしたユーモアと独創性があるからこそ、カワイイ文化ともオタク文化とも融合できているのかもしれないと思ったのでした。

週末 第1回目の写真撮影の日

今日は晴天に恵まれた一日でした。「発掘~表層~」と陶紋5点の図録用写真撮影の日になっていて、手伝ってくれるスタッフが、朝から2人来て準備をしていました。午前10時にカメラマン2人が到着し、まず野外撮影となりました。「発掘~表層~」を工房から野外に出しました。野外工房はコンクリートで固めた敷地があって、そこに樹木が影を落としていました。「発掘~表層~」は樹木の影が入るように配置しました。木漏れ日が眩しい情景の中に置かれた平面性の強い作品は、小さな陶彫球体が10個加わって、ひとつの世界観を表すようにしてあります。凹凸のある厚板材に砂を貼り付け、そこに陶彫球体の錆色を考慮した油絵の具が滲み込ませてあります。凹凸に微妙な陰影を落としてくれる野外の光は、きっと「発掘~表層~」に良い効果を齎せてくれるはずと思っています。それから室内に作品を移動して、カメラマンが天上の梁に乗り、俯瞰した画像をカメラに収めました。これは表紙と裏表紙に使うものです。さらに陶紋5点も野外に持ち出して撮影を行いました。新緑の美しい風景の中に小さな陶紋5点を置いて撮影をしました。やはり樹木の影の美しい場所での撮影が面白い構成になっていました。最後に私のポートレイトになり、ロフトに座った自分を撮ってもらうことにしました。まだ完成していない「発掘~環景~」は6月中旬の2回目の撮影に回しました。それまでに「発掘~環景~」を完成させなければならず、撮影が終わった午後も制作続行になりましたが、夕方までやっていたら疲れがピークに達し、今日はここまでで作業終了としました。撮影中も私は神経を使っていたらしく、今日の疲労の度合は大変なものがありました。自宅のソファに横になったら、暫し起き上がれなくなり、胃腸の具合も悪くなりました。明日は自分の体調がリセットされていると信じ、今晩は早めに休みたいと思います。

週末 「環景」の制作続行

明日は「発掘~表層~」と陶紋の写真撮影の日ですが、準備が完了しているので、今日は「発掘~環景~」の制作に邁進しました。土錬機を回して複数の陶土を混ぜ合わせ、その陶土で大き目のタタラを数点用意し、翌日まで待ってそのタタラで成形を始め、部分を紐作りで補う、そこに彫り込み加飾を施し乾燥させる、そんな制作サイクルがあります。「発掘~環景~」は今までになく順調にサイクルが動いています。それでも今月末までに完成するかどうかわからないので焦っています。陶彫は乾燥させる時間と窯入れをして焼成する時間があります。そこがひたすら作って仕上げていく木彫と違うところで、昨年と違うところはこの木彫部分がないところです。陶彫を乾燥させている間に、それと併行して木彫をぐんぐん仕上げていくことが今年は出来ません。公務員との二束の草鞋生活を送っている私にとって、焼成や乾燥といった待ちの時間は歓迎するところですが、今回に限っては待ちが長く感じるのです。週末の時間はあっという間に過ぎていきます。あとはウィークディの夜に工房に来て制作を続行するしかありません。本来なら定年退職をして彫刻一本に絞って制作を進めているはずだったのですが、計算どおりにいかないのが人生なのかもしれません。今日も丸一日休むことなく制作に明け暮れました。明日も撮影の後に制作続行の予定です。

「発掘~環景~」大地の窪みを表現

夢は幼児体験からくる欲望充足であるというのが精神分析学者フロイトによる夢の解釈です。覚醒時にも同じような現象に囚われるのが神経症であるならば、造形イメージの源泉もそこからやってくるのではないかと自分は思っているところがあります。幼い頃、自分が育った横浜には戦後の傷跡が多く残っていました。そのひとつが防空壕です。子どもたちは防空壕を棲家にして遊んでいました。関東ローム層の赤壁にぽっかり開いた穴。その暗い陰湿な空間が、時折自分の夢に出てくるのは幼い頃の体験によるものだというフロイトの論拠に従うところですが、20代の頃に旅したエーゲ海沿岸の遺跡にも、大地に擂り鉢状の穴を開けている円形劇場があり、その陽射しの中の明るく乾いた空間も、自分の夢に登場してきます。後者は寧ろ、昼間の活動時にもぼんやり現れてきて、現在作っている彫刻作品に次なるイメージを齎せてくれます。私がイメージする大地の窪みは、例え小さな防空壕だろうが、巨大な円形劇場だろうが、いずれも人が作ったもので自然の成せる業ではありません。つまり、昔の人が作った構築物が自分の作品の下地になっていると考えていて、大自然の中に人間が生きた証として存在を示しているものの自分流の解釈と言えるのかもしれません。今回、大地の窪みを表現することにした新作で、時間を要したのは題名でした。「環景」は造語です。自分にとって作品の題名とは、その作品のカタチを簡潔に言い表すものではなくてはならないと考えているため、イメージの源泉を何度も辿ることになったのです。心的要因案としては記憶起因による欲望充足、具体案としては円形劇場でしたが、どちらもあまりに直接的でしっくりいかず、「環景」という造語に落ち着いた次第です。「発掘~環景~」は今までになく平たい造形です。鑑賞者は上から見渡すことになります。私には新しい視点で作る彫刻作品と言えそうです。

GW 三連休最終日

ゴールデンウィーク後半三連休の最終日になりました。今日は子どもの日で、工房にあるFMラジオから子どもを対象にした話題やイベントが流れていました。三連休は天候に恵まれて夏日を思わせるほど気温が上昇しました。最終日である今日は撮影が迫る作品をチェックしていました。「発掘~表層~」は側面の塗装に塗り漏れがないかどうか確認をおこないました。結果「発掘~表層~」と陶紋5点は完成と見なしました。撮影の準備は万端です。6月に撮影する擂り鉢状の作品は、今日の残りの時間をかけて、成形と彫り込み加飾を行いました。既に乾燥をしている作品は窯に入れました。ともかく今日も朝から気力の続く限り精一杯制作を進めました。前半三連休も後半三連休も、さらに制作に邁進できたかもしれない反省もありますが、身体を壊さない程度に頑張ったつもりです。気の焦りをクールダウンするために鑑賞も入れました。東京都美術館開催の「若冲展」、横浜美術館開催の「複製技術と美術家たち」展、TOHOシネマズで上映している「Spotlight」(スポットライト)を観て来ました。なかなか充実したゴールデンウィークだったと思っていますが、擂り鉢状の新作に頭を戻すと、決して満足できない連休だったと思っているのです。夜になって家内と買い物に出ました。明日職場で夜間会議があり、汁物を作って参加者にサービスしようと思っているのです。もう何回もやっている大鍋コミュニケーションで、議題を進める上で有効なのです。明日は仕事で、明後日から週末になって、再び新作と向き合う時間があります。予断を許さない状況はまだまだ続きます。

GW 制作三昧の一日

ゴールデンウィークの数日のうち、どのくらい制作を進められるのか、頭を離れることはありません。この時期に休暇を楽しむことは、かなり前からありませんが、今年は本当に焦っていて朝から工房に篭っています。今日は陶紋5点を窯から出し、仕上がりを確認しました。「発掘~表層~」の側面に塗料を塗りました。明日は反対側を塗ります。これで8日の撮影に間に合います。ひとまずホッとしましたが、擂り鉢状の新作が気になっていて仕方ありません。今月は窯入れもしていきますが、その隙間を縫って夜間制作もやっていきます。今日は若すぎるスタッフが久しぶりに工房にやってきました。若すぎるというのは、彼女はまだ10代で美大の付属高校に通っているのです。アートをやるのか、デザインをやるのか進路は決まっていませんが、美術に関わっていくことだけは確かなようです。彼女は高校の課題をやりにきているのですが、自己表現がまだ定まらない年齢なので、基礎学習に勤しんでいる最中です。高校3年生と言えば、自分は美術の道に進むかどうか迷っている時期でもありました。美術系の学校に入り、20歳になった頃、彫刻の面白さに取り憑かれてしまったことを思い出します。あれから40年を経て、現在まだ彫刻を作り続けています。これは幸福で幸運なことだと思っていますが、彫刻で生活を立てられたことは一度もなく、公務員との二束の草鞋を履き、何とか彫刻を継続しているという有様です。東京銀座のギャラリーせいほうで今夏11回目の個展を企画していただいているのも幸運なことと思っています。それ故に毎年焦っている状況が続いているわけです。職場でも工房でも多忙に紛れて、自分を失いがちになります。自分にとってクールダウンは鑑賞です。制作に明け暮れていても、美術館や映画館に足を運びたいと考えているところです。

GW 後半の三連休

今日からゴールデンウィーク後半の三連休が始まりました。「発掘~表層~」の台座の色彩調整はだいぶ納得できるような色調になってきました。このくらいで終わりにしようかなぁと今日決意しました。後は油絵の具を乾かし、明日から側面に黒い塗料を塗っていこうと思っています。作品に貼り付ける印も彫り上がりました。今月の8日に撮影する作品は順調に仕上がってきていますが、問題は来月撮影する作品が出来上がるのかどうか、きわどいところです。そこで今日は来月撮影予定の擂り鉢状の作品を先へ進めるべくタタラを5点用意しました。自分の作り置きの陶土が足りなくなってきたので、土練機を回しました。後半の三連休は擂り鉢状の作品をどこまで進められるのかにかかっています。多少無理をしても成形と彫り込み加飾をやっていきたいと思います。ちょっと気になっているのは、栃木県益子から取り寄せている2種類の陶土が減ってきていて追加注文しなければならないかなぁと思っているところです。今日は午後2時に作業を終えて、家内と映画に行くことにしていました。そのため今日の制作目標に達するべく朝から頑張っていました。三連休なので鑑賞も取り入れていこうと思っていたのでした。映画は常連にしているミニシアターではなく、ロードショーを複数上映する大手の映画館に足を運びました。定番のコーラとポップコーンを購入して館内に入りました。選んだ映画はアカデミー賞を獲得した「Spotlight」(スポットライト)。地味で地道な物語と聞いていましたが、観客をどんどん惹き込んでいく取材攻勢が決め手の濃密な展開に暫し我を忘れました。キリスト教神父による組織的児童虐待を告発したスクープを通して、ジャーナリズムはどうあるべきかを問う刺激的な映画でした。詳細な感想は次回にします。明日は制作三昧でいきます。

「夢行程の心理学」(d)まとめ

「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)第七章「夢行程の心理学」の(d)「夢による覚醒、夢の機能、不安夢」のまとめを行います。「夢解釈」は最終的なまとめに入り、夢と神経症の関連が論じられる中で、とりわけ私は不安夢に関する箇所に興味を持ちました。「不安を生起させる心的行程が、それゆえにこそ欲望充足になりうることには、私たちにとって、もうすでに以前から矛盾は含まれていない。私たちは、こうした事態を次のように説明できる。すなわち、欲望は無意識という一方のシステムに属しているが、他方、前意識システムはこの欲望を却下し、抑え込んだのである。無意識の前意識への従属は、心的に健康な場合でも、徹底的なものとはならない。この抑え込みの程度に応じて、心的な面における私たちの正常さの度合いが決まる。~略~この論究をさらに先へ進めるには、こうした行程における情動の役割について突っ込んで論じねばならない。しかし、ここではそれについて不完全にしか論じられない。そこで私たちは次のような命題を立てることにしたい。すなわち、無意識を抑え込むことが必要不可欠なのは、なかんずく、そうしないことには、無意識において放任されている表象の流れから、もともとは快の性格を帯びていたが、しかし抑圧行程を被って以来、不快の性格をそなえるようになった情動が生起することになるからだ、という命題である。」さらに不安に関する論考で、フロイト独自の性的素材が登場してくる箇所があります。「神経症的な不安は性的源泉に由来するというのが私の主張なのだから、不安夢の夢の想念中に性的素材が含まれていることを立証すべく、不安夢を分析することである。」数多い不安事例の中で、ひとつ取り上げて(d)のまとめとしたいと思います。「大人の性交が、それに気づいた子どもたちに不気味さを与え、子どもの内に不安を呼び覚ますというのは、日常的に経験される出来事だと言いたい。私はこの不安に次のような説明を与えた。すなわち、そこでは性的な興奮が生じているのだが、子どもの理解力では処理しきれず、またたぶん両親がそこに絡んでいるがゆえに、その興奮は拒絶に行き当たり、不安へと変わるのである。」

週末 5月になって…

ゴールデンウィーク3日目で、今日から5月です。ゴールデンウィーク前半三連休の最終日です。前半三連休は新作の制作に明け暮れました。「若冲展」や今日の夕方出かけた「複製技術と美術家たち」展で、三連休の鑑賞は充実していました。制作をしていると時間はあっという間に過ぎていく中で、時間をやり繰りして美術館にも足を運びました。何とか制作工程通りの三連休になりましたが、気持ちのどこかに焦りを感じているのも確かです。さて、5月の制作目標をどうするのか、8日(日)にカメラマンが来て「発掘~表層~」の写真撮影、陶紋の野外撮影依頼があります。その後は擂り鉢状の新作を作り続け、今月末にはそのゴールが見えていなければならないのです。いよいよ切羽詰ってきました。今月は陶彫にとことん付き合う1ヶ月になりそうです。日々のRECORD制作は当然継続ですが、何故か先月は順調でした。毎晩の仕上げに手間取って苦しんだことはありましたが、イメージはよく湧いてきました。読書も継続でフロイトの精神分析の理解を深めたいと思います。5月初日の今日は午前中に成形と彫り込み加飾を終わらせ、午後は「発掘~表層~」の色彩調整を行いました。今まで何度も色彩調整を行ってきましたが、自分が納得するまでやっていきたいと思います。夕方は家内と地元にある横浜美術館に出かけました。招待券をいただいたので「複製技術と美術家たち」展を見てきました。久しぶりにバウハウスの作品に触れて、懐かしさとともに自分の原点を見せられたように思いました。詳しい感想は後日にしますが、制作の後、美術館に行くとホッとして気分がよくなります。後半の三連休も頑張りたいと思います。

週末 4月を振り返って…

ゴールデンウィークの2日目で、4月の最終日を迎えました。今月は年度当初にあたり、私は再任用管理職として出発しました。とは言え、昨年度と仕事は変わらず、責任もそのままで、給与のみが下がっています。今の職場の人事環境が厳しいため、自分で何とかしたいという気持ちが再任用管理職を私に決意させました。直面した課題に正面切って立ち向かう自分を知り、嘗ての自分はもう少し気楽な性格ではなかったかと思い、立場が人を変えるのかなぁと自分なりに不思議に思っているところです。二束の草鞋生活は再スタートを切りました。10年ほど前に、あと10年経てば退職して、その後は彫刻家一本でやっていくんだという考えは、今年度になって修正されてしまいましたが、体力的にはまだ大丈夫という気構えがあって、60代の二束の草鞋生活を選択したのです。しかしながら、制作は相変わらず厳しさを増しています。新作のうち「発掘~表層~」は完成が近づいています。もうひとつの新作は、まだ題名さえ決まっていませんが、この連休も制作に明け暮れています。陶紋5点は漸く窯入れに辿り着きました。今月は一日もホッと出来る間もなく慌しい創作活動に追われました。意外にもRECORDは順調でした。読書はフロイトの精神分析に拘り続けています。「夢解釈」が読み終わっても、当分フロイトの著作に付き合おうと思っています。鑑賞は「ボッティチェリ展」「若冲展」の2回とも東京都美術館へ、「火の山のマリア」を見にシネマジャック&ベティへ行きました。美術展2回と映画1回というのが今月の鑑賞でしたが、なかなか充実した内容ではなかったかと思い返しています。来月はさらに充実した1ヶ月にしたいと思っています。

2016GWの制作目標

今日からゴールデウィークが始まりました。私の職場は暦通りの休日になるので、三連休の後、一日出勤があって再び三連休となります。その後、一日出勤して週末を迎えるのです。因みに最後の日曜日である5月8日に新作の図録撮影を控えています。今年のゴールデンウィークはどこかに出かけることもなく、私は制作に没頭することになりそうです。ゴールデンウィークの制作目標としては、撮影を控えている「発掘~表層~」の完成と陶紋5点の焼成です。加えて擂り鉢状の新作の成形を出来うる限りやっていこうと思っています。鑑賞も入れます。そこで、今日は朝から工房に篭って、まず昨晩用意したタタラを使って大きめの成形と彫り込み加飾を午前中に作り上げました。午後になって「発掘~表層~」の台座の仕上げに入りました。砂マチエールに滲み込ませた油絵の具の上から、さらに白系の油絵の具を霧状に散らせ、微妙な色合いにしました。夕方になって、邦楽器の練習から帰った家内と、東京上野の美術館に出かけました。金曜日は夜8時まで美術館が開館しているので、多少鑑賞者も減るのではないかと期待して出かけましたが、ゴールデンウィーク初日とあって、夜になっても展覧会は大盛況でした。見た展覧会は東京都美術館で開催している「若冲展」で、どうしてこんなに混雑しているのか、今まで都美術館がここまで混んでいた事はなかったのではないかと思えるほど大変な状況になっていました。それでも人を掻き分け、若冲の細密な描写を堪能してきました。詳しい感想は後日改めますが、ゴールデンウィーク初日は自分にとって充実したスタートになりました。明日も制作を頑張ろうと思います。

久しぶりの歯科治療

先日から奥歯が浮いたような状態が続いていて、連日の疲労が原因だろうと思っていました。私は仕事で神経をすり減らした後は、どこか具合が悪くなり、病院にかかるのが定番になっていて、内科、整形外科に続いて、久しぶりに歯科治療にかかることになりました。随分前に作った診察券を探し、学生の頃から通い慣れた歯科医院に足を運びました。医院は橫浜駅西口近くの浅間下交差点にありましたが、道路の反対側に移転していて、新しい高層ビルに入っていました。問題の奥歯は、既に治療済みの歯で神経を取り除いてありましたが、被せモノが古くなって根の部分に膿があるとのこと、さっそく治療と相成りました。この医院は歯科大学と連携した大きな施設で、かつて自分の関係者が看護士として働いていました。美人だった彼女は治療の度に私の担当になりました。この時ほど看護士は見ず知らずの人がいいなぁと思ったことはありませんでした。自分は昔から歯科治療は苦手です。得意な人はいないかもしれませんが、歯痛が及ぼす心身への影響は計り知れず、そのゆえに嫌な治療も我慢できるのです。診察の結果、暫く通うことになりそうで、現在の職場は横浜駅から遠いので厳しいなぁと思っています。前の職場はこの医院の裏にあったので、いつでも治療に来られましたが、そんな時は歯が痛むことなどなかったのでした。

「夢行程の心理学」(c)まとめ

「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)第七章「夢行程の心理学」の(c)「欲望充足について」のまとめを行います。「夢解釈」の中で欲望充足は幾度となく登場してきました。夢は欲望充足でしかありえないという説を前提に、そこから膨らませた論理を展開していくのが本章(c)です。次の文は欲望と同じような夢内容に入り込む日中残余について述べたものです。「前意識の興奮は無意識からの加勢を求め、そして、無意識的な興奮が迂回路をとるのにつきあわねばならない。では、前意識的な日中残余は夢に対してどういった立場にあるのだろうか。日中残余が夢にふんだんに入り込み、夢内容を利用して夜中にもまた意識が迫ってくることに疑念の余地はない。それどころか、日中残余がときに夢内容において他を圧し、日中の仕事の継続を夢内容に強いることもある。そして、日中残余が、欲望と同様の性格をとりうるとともに、また欲望とは異なるその他あらゆる性格をとりうるのも確かだ。」さらに夢解釈から精神病の症状について言及した箇所があります。「無意識的興奮は前意識を自らに従わせ、前意識を通じて私たちの言辞や行動を意のままに操る。あるいは、むりやり幻覚性の退行を生じさせ、知覚が心的エネルギー配分に及ぼす引力を利用して、本来は無意識的興奮のために定められたのではない装置を操作する。私たちはこの状態を精神病と呼ぶ。~略~夢以外にも別の形式の不正常な欲望充足があるにちがいない。そして実際、精神神経症のあらゆる症状についての理論の頂点に立つ一つの命題がある。それは、そうした症状もまた無意識的なものの欲望充足として把握せねばならないという命題である。」この引用をもって「欲望充足について」のまとめとしたいと思います。

新作の印を考える

陶彫による集合彫刻を発表している私は、それぞれの陶彫部品に印を貼り、そこに番号をつけています。印は新作によって全て異なり、その印によって部品が混じらないようにしているのです。作品によっては100個以上の部品で構成されるため、分解していくつかを一緒に箱詰めして倉庫に収納しています。部品の箱が新旧入り乱れて積んであるため、箱から出した陶彫部品がどの作品の一部なのか判別できるようにする必要があります。その決め手となるのが印です。印は常に新しく制作し、和紙に捺印して陶彫部品の裏側に貼っておきます。木材の台座と接着する場合は、台座と陶彫部品に同じ番号をつけます。印の上から番号を書き込んでおくのが、自分の常套手段になっています。先日台座に砂マチエールを施した「発掘~表層~」ですが、砂を貼っていない場所が10箇所あります。そこに陶彫部品を置く予定にしてあるのです。当然印もその場所に貼っていきます。そろそろ新しく印を彫らなければならない時期にきています。今回はどんな印にしようか、デザインを楽しみながらやっていこうと思っています。印は篆刻が基本ですが、私は自由な発想でデザインをすることにしています。文字を構成要素にした小さな抽象絵画と考えていて、文字か模様かわからなくなるほどデザイン化していきたいと思います。

映画「火の山のマリア」雑感

中南米グアテマラの高地に暮らす家族を描いた「火の山のマリア」は、暫く東京の岩波ホールで上映されていて、それで知り得た映画でした。火山近くの肥沃な土壌で農業を営むのは、日本と似た環境のようですが、土地は借地で収穫が少なければ農園主に追い出されてしまう貧困の状況があって、生活の厳しさが物語につき纏っていました。両親と一緒に暮らす17歳の少女マリアが主人公で、妻に先立たれた農園主のもとに嫁ぐ手筈になっていたところ、コーヒー農園で働く若者に憧れ、一夜の関係を持ってしまいます。若者はマリアを残してアメリカに旅立ち、マリアは妊娠してしまいます。両親や農園主にそれが発覚し、一家は引っ越しを余儀なくされますが、そんな折、マリアが畑で蛇に噛まれ、瀕死状態のマリアは都会の病院に担ぎ込まれます。スペイン語が出来ない一家は農園主の通訳に頼らざるを得ない中で、身籠もった子を養子に出す契約書に拇印を押してしまいます。母親の強烈な主張は通らず、子は亡くなったと虚言され、落胆するマリア。葬式の後で、それが嘘だったことを知り、どうにもならない社会の機構の中でもがき苦しみ、結局マリアは農園主のもとに嫁ぐことになるのです。映画全体の印象では、朴訥なマリアと雄弁な母親の関係が縦軸となり、横軸には社会に取り残された少数民族の弱者としての宿命を感じました。古代のマヤ文明を築いた末裔は、現代の貧困を背負い、電気もガスも水道もない村で暮らしています。矛盾をはらんだ文明の強者の発想が、今も世界を歪めているのかもしれません。普段着にしている民族衣装が美しく、火山灰の暗い色彩の中で映えていました。

週末 休日出勤&「表層」彩色

今日の午前中は職場関係の地域会合があって出勤しました。来賓挨拶を仰せつかって、これが早めに終わり、横浜駅まで車を飛ばしました。昨日から「発掘~表層~」の彩色作業が始まり、油絵の具の溶剤が足りなくなっていたので、横浜駅にある画材店に行ったのでした。溶剤を2缶手に入れて工房に行きました。漸く夕方に彩色の下塗りが終わりました。最終的にさまざまな色彩を調整するために、もう1回彩色作業を行いますが、下塗りが乾いてから行いたいため、来週末まで放置することにしました。今回の色彩は赤を主体にした色調にしました。まだ生っぽい色彩なので、部分的に混色をして彩度を落としていこうと考えています。今日は午後になってスタッフが来ました。スタッフのうちの一人が友人を連れてきました。それはスタッフがインドネシア留学中に知り合った女性で、アジアを点々と旅して、先ほど成田空港に着いたばかりでした。彼女たちは連休中に逗子で行われる映画祭の時に、アクセサリーの店を出す予定で、アジアを回っていた彼女は各地で布や小物を仕入れてきたのでした。早速工房で出店に関する打ち合わせを2人で始めました。元々スタッフは美大で染織を学び、商品化にも積極的なので、アート・マーケットが成功するといいなぁと思いました。これから来月の連休までに200点を手作りするとのこと、まさに時間との勝負です。彼女たちの努力を応援したいと思います。

週末 「表層」彩色&映画鑑賞

週末になりました。昨日は職場の歓送迎会があって、帰宅が深夜になりました。ただでさえ疲労が溜まる週末なのに、なかなか体調が戻らない状態で朝から工房に出かけました。今日は先日終わった「発掘~表層~」の砂マチエールに油絵の具を滲み込ませる作業が待っていました。例年の方法は同一の色彩で画面全てを塗っていくのですが、今回のイメージは絵画性が強いため、下塗りも色彩を変えていきました。これはほとんど絵画を描く按配で、暖色系の色彩を全体構成を考えながら配置していきました。溶剤が足りなくなるのではないかと不安になるくらい砂に油絵の具が滲み込んでいきました。多少の塗り残しは明日もう一度確認しながらやっていこうと思います。今日の作業は彫刻の制作という意識がなく、まさに完全なる絵画制作でした。夕方になってスタッフを連れて、横浜市中区にあるミニシアターに映画を見に行きました。東京の岩波ホールで上映されていた映画が横浜にやってきたので、これは見たいと思っていたのでした。見た映画は「火の山のマリア」で珍しいグアテマラの映画でした。火山の麓で電気もガスも水道もない原始的な暮らしをしている両親と娘の三人家族を巡る物語で、マヤ人の末裔と言うべき古来からの風習が現在に生きていて、物語の背景にも興味を持ちました。詳しい感想は後日改めます。疲労があるにも関わらず、今日は充実した一日でした。

平成28年度 出会いと別れ

どんな職場でも歓送迎会があると思います。私の職場では施設の規模が小さくなったことや、転勤職員が多かったことなどで、人事配置が厳しいものになりましたが、職員の協力によって平成28年度は落ち着いたスタートを切ることができました。今月は出会いと別れの季節です。現在の落ち着いた職場環境を作っていただいたのは、今年度異動した職員たちです。そこに新たな職員たちがやってきて、職場環境を引き継いでいます。人が変わったので、多少雰囲気が変わりますが、継承される文化は変わりません。今日の歓送迎会では、新旧の職員が集まって日頃の取り組みや過去のエピソードに話の花を咲かせました。「うちは仲が良くて仕事がしやすい。」と新しいメンバーに言っていただけるのが、私は嬉しくて管理職冥利に尽きるというものです。私の職場は少ない人数ながら、宴会では大変な盛り上がりを見せます。若手職員が増えたことも活気が出てきた要因ですが、それを牽引するベテランがいて、キャリアバランスは良いと思っています。こうした無礼講にも人材育成のちょっとした場面があります。今日の歓送迎会を経ることによって職場全体がさらにまとまり、普段は専門を通して仕事をしている者同士、さまざまな場面に連携が図られるのではないかと考えています。

砂マチエールの確認作業

先週末、スタッフ3人が手伝ってくれた砂マチエールの貼り付けですが、塗り残しが多少見られたため、昨晩は工房に行って確認作業をしてきました。木材に砂を貼って塗装することで素材感が変わり、陶彫との相性が良くなります。これは自分の常套手段で、今まで何回も作品に利用しています。新作「発掘~表層~」は題名通り、平面性の強い作品で表面処理が重要です。ざらついた表面にさまざまな色彩を盛り込んで、密度の高い凹凸空間を作ろうとしています。これから作業から創作活動に意識が変わり、制作が面白くなってくるのです。砂マチエールは塗装において抵抗が生じ、ざらついている分、絵の具が伸びず筆も傷みます。塗っていくというより、上から叩いて絵の具を染み込ませていくのが得策です。色彩の変化をどう扱うか、絵の具を撒き散らせて敢えて計算外の効果をどう扱うか、砂マチエールがしっくりいく方法を探りながら、今後の制作を進めたいと思っています。「発掘~表層~」が作品として出来上がっていく制作工程に漸く辿り着きました。

「夢行程の心理学」(b)まとめ

一昨日に続いて「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)第七章「夢行程の心理学」の(b)「退行」のまとめを行います。フロイトは複合的心的器官を分解し、システムを作り上げました。システムによる図解が本書に掲載されていました。「(私たちは)心的装置を複合器官として思い描く。そして、その構成部分を機関とか、あるいは、具象性を考慮して、システムと呼びたい。そうすると私たちは、これらのシステムには、もしかすると互いのあいだに恒常的な空間的位置関係があるのではないかと期待を抱く。~略~私たちはその装置に、感覚性末端と運動性末端を書き加えることにする。感覚性末端には、知覚を受け取るシステムがあり、運動性末端には、それとは別の、運動のための水門を開くシステムがある。心的行程は、一般に知覚末端から運動末端へと推移する。」このシステムにフロイトは想起痕跡や無意識や前意識を加えています。「幻覚的な夢で起きることを私たちは『興奮が経路を逆戻りする』という言い方でしか記述できない。興奮は、装置の運動性末端に向かう方向ではなく、感覚性末端へと伝播し、最終的に知覚システムに到達する。覚醒時に心的行程が無意識的なものから先へ進む方向を前進的方向と呼ぶなら、私たちは、夢は退行的性格を帯びる、と言うことができる。このように、退行が夢行程におけるもっとも重要な心理学的特異性の一つであるのは確かだ。しかし、退行は夢見にだけ起きるのではないことを忘れてはならない。意図的な想起や、私たちの正常な思考の他の部分的行程も、心的装置における何らかの複合的な表象行為から想起痕跡の原材料ー表象行為の基盤をなす原材料ーへの退歩に相当する。しかし、覚醒中に、こうした逆行が想起像のさらに先まで進むことはけっしてない。そうした逆行は、知覚像を幻覚として活性化させることはできない。では夢において事情が異なるのはなぜだろうか。私たちが夢の圧縮について論じたとき、私たちは、表象に付着する強度が、夢の仕事を通じて、ある表象から別の表象に完全に転移すると想定せねばならなかった。通常の心的行程にこうした変化が生じることによって、知覚システムを逆方向から、つまり、想念のほうから充当し、それが感覚的に完全な活発性を得るに至ることがたぶん可能となるのである。」長い引用になりましたが、これをもって(b)のまとめにさせていただきます。

漫画「ツァラトゥストラかく語りき」

先日、漫画によるフロイトの「精神分析・夢判断」を読んだばかりですが、同じシリーズでニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」があります。かつて和訳による「ツァラトゥストラかく語りき」本論を読み、神の死から培われる超人論や永劫回帰を知りました。これは哲学書とは言え、詩的発想が随所に盛り込まれたもので、私は四苦八苦しながら読破した思い出があります。このNOTE(ブログ)にも章ごとの拙いまとめを掲載してあります。ニーチェは論理がどんどん展開し、何か大きな構築物を作り上げる論法ではなく、矢継ぎ早に鋭い洞察を繰り出す哲学者かもしれないと、この時私なりに感じました。ニーチェという人を本当の天才の言うのかなぁと月並みなことを思ったりしました。この「ツァラトゥストラかく語りき」を漫画にすることは不可能ではないかと思いましたが、「まんがで読破 ツァラトゥストラかく語りき」(ニーチェ原作 バラエティ・アートワークス著 イーストプレス刊)を読んで、成る程こういうことかと納得しました。これはニーチェの著作をまるごと漫画にしているのではなく、宗教に対する懐疑や永遠回帰とはどういうものかをドラマとしてまとめているのです。哲学のエキスだけを教会で生活する神父一家や謎の女性を通して描いていく手法で、細かい部分は省いてありました。ただ、漫画で興味関心を抱いても、あまりに本論が異なるので、本論を読もうとした人は面食らうのではないかと思います。

「夢行程の心理学」(a)まとめ

「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)第七章「夢行程の心理学」の(a)「夢の忘却」のまとめを行います。まず次の引用から始めます。「私たちの記憶には、夢を保持する能力がとりわけはなはだしく劣っているようだ。そのため、もしかすると夢の内容のもっとも重要な部分が失われているのかもしれないのである。~略~私の考えでは、通常、人は忘却の広がりを過大評価している。そして、同様にまた、夢の隙間があるのだから、夢に関する情報も失われたと思い込んで、その喪失の度合いも過大評価するのである。夢内容のうち忘却に陥ったものは、しばしば分析を通じて復元できる。~略~夢の忘却は、その本性として抵抗に奉仕する傾向を帯びると考えられる。~略~ちなみに私は、夢の忘却の大部分は抵抗の働きであることを明示的証拠によって証明できる。」ここまで所々引用した文面は、夢の忘却について述べた箇所です。重要な語彙として「抵抗」が出てきます。抵抗が忘却を促すという論拠をもって、次の引用へ展開していきます。「どの夢も解釈をなしうるのかという問いには、『否』と答えねばならない。解釈の仕事の際には、夢の歪曲を惹き起こした心的な諸力を敵に回していることを忘れてはならない。つまり、自らの知的関心、自己克己の能力、心理学的な知識、そして、夢解釈の訓練を通じて、内的な抵抗に打ち克つことができるかどうかという力関係が問題となる。」内的な抵抗に関する箇所を取り上げましたが、つまり、抵抗に打ち克てば心的検閲が減少し、夢の解釈が可能になることを示唆していると、この文面から読み取れます。「睡眠状態が夢形成を可能にするのは、その状態が内部心的な検閲の働きを低下させるからなのである。」これをもって(a)のまとめとさせていただきます。

週末 砂マチエールの完成

今日は朝から工房で砂マチエールの作業を行いました。若いスタッフが3人来てくれて、数時間かけて砂を硬化剤で「発掘~表層~」の台座に貼る作業に専念してくれました。スタッフたちは一生懸命やっていて、その集中力に感謝です。工房に来るスタッフは私と何らかの関わりがある人ばかりで、現在は全て女性です。今までいろいろな人がやってきて、私の仕事を手伝ってくれたり、自らの創作課題と向き合ったりして、工房で過ごしていました。今日のような直接仕事を手伝ってくれる場合は、本当に私は助かっていて、スタッフの存在がなければ作品は完成できないと思っています。それだけでなくスタッフがそれぞれの課題をやっている時も、社会的促進が図られて精神的に私は助けられています。ずっとアートをやっていきたいという意志と、将来に対する不安が交差するスタッフたちを、私は工房を自由に使わせることで支援しています。美術系の学校を出ても制作する場所がないことで、アートに対する希望を失う若者が多いので、相原工房に関わるスタッフには創作活動が出来る環境を用意したいと思っています。スタッフは卒業制作もグループ展の出品制作も個展準備も工房でやっています。私が自分の材料を買いに行く時は、私に同伴して自らの材料も仕入れています。そんなスタッフたちの底力を今日は見せられて嬉しい思いをしました。そのおかげで砂マチエールの貼り付け作業が完成しました。これを乾かした後、油絵の具を滲み込ませていきます。「発掘~表層~」は次第に完成形が現れてきました。

週末 20年ぶりの再会

今日は工房に懐かしい人がやってきました。訪ねてきたのは20年前に自宅に招待した女性で、数日前に突然連絡があって驚きました。彼女は中国の北京で生まれ、12歳で家族と共に日本にやってきました。日本国籍を取得し、中学校と高等学校は日本の学校を卒業しました。大学はアメリカの学校を選び、アメリカに旅立ちました。それから十数年はアメリカで暮らし、現在の生活の基盤はアメリカにあります。中国語、日本語、英語と3カ国語を流暢に話せる才媛で、その半生は流転に充ちたものです。アメリカの大手自動車メーカーに勤めたり、さまざまな業種を点々として、現在は和食レストランのオーナーです。現地で人を雇い、店舗のマネージメントをやっています。悪質な客には強い対応をするという彼女は、昔に比べるとタフになったように思います。さらに彼女と話していると気づかされることが多くあります。大陸気質なのか、彼女は粘り強い向上心に溢れていることです。レストラン経営では物足りなさを感じることもあるようで、何か他にもステップアップを目論んでいるようにも思えます。「何か私に助言して…」というので、商いは身の丈を考えること、挫折しても決して諦めないこと等、自分が亡父の経営していた造園業で実感したことや、現在の管理職としての人的管理を含めて、自分にも言い聞かせるような助言をしました。彼女が先行きの不透明を嘆くこともありましたが、今までの岐路で誤った判断は見受けられず、前向きであれば必ず展望は開けるのではないかという話をしました。また来年会おうねと言って別れましたが、日本語を忘れないようにして欲しいものです。来年は彼女がさらに飛躍することを願っています。

毎晩通った夜の工房

この1週間は月曜日から今日まで毎晩工房に通いました。気候が良くなって制作しやすくなったこと、職場が新しい体制になって動き始めたことが、帰宅後に工房に行けるようになった理由です。月曜日は陶紋の彫り込み加飾、火曜日は土練り、水曜日と木曜日は陶紋の彫り込み加飾、金曜日は明日の成形に備えて畳大のタタラを5枚作る作業を行いました。この1週間の夜には、新作に使用している硬化剤の追加分が販売元から郵送で届いたことや、家内と食料品の買い物に出た日もありました。仕事では出張が3回あって、出張先から帰った後、前述通り多忙な夜の時間を過ごしてきました。充実した1週間だったと思い返していますが、超過労働で長く続くものでもないかなぁと思っています。ただし、陶紋をこの時期に作っておかないと、野外撮影に間に合わなくなるという図録作成上の都合もあり、ともかく頑張った1週間だったのです。夜の工房は蛍光灯に照らし出された魅惑的な空間が広がっています。芸術家によっては夜を制作時間に当てている人もいるくらいで、集中力は増してきます。FMラジオが耳に心地よく、自分を解放するのには最適です。翌朝早く職場に出勤しなければならないという考えが頭の片隅にあるので、1時間から2時間程度で作業を切り上げますが、ほんのひと時を非日常の空間で過ごすのも悪くはないと思っています。あまり工房でゆっくりしてしまうと自宅に帰ってから取り組むRECORDに皺寄せがくるのが辛いところですが、一日のスケジュールが過激なのは昔からわかっているところです。そのせいか奥歯が浮いたような感じになったり、五十肩が疼いたり、RECORDを制作している途中で俯して寝てしまったりして、疲労がピークに達しているのかなぁと思うところが気になっています。

漫画「精神分析入門・夢判断」

出張先の駅の近くの書店に立ち寄った時に「精神分析入門・夢判断」という文庫本を見つけました。これは驚いたことに漫画です。フロイトの代表著作である「精神分析入門」と「夢判断(夢解釈)」をひとつにした物語で、言わばフロイトが医療として辿り着いた精神分析や夢の解釈、これをヒステリー症状等の精神医学に役立てていこうとするフロイトの生涯のエポックを描いています。精神分析という医学概念がなかった時代に、自分の妄想に囚われて病気にかかった気になっていると医師から囁かれていた精神疾患の患者は、当時随分辛い思いをしただろうことは想像に難くないところです。「まんがで読破 精神分析入門・夢判断」(フロイト原作 バラエティ・アートワークス著 イーストプレス刊)は、そんな患者を受け入れ、その中から発見される心理療法や新しい心の学問をフロイトが医学界に投げかける展開があります。本書は漫画という媒体を使って、フロイトの論文の詳細は省き、その大筋だけを追っていく形式にしています。論文を丹念に読んでいる者としては、極端な論理の飛躍があったり、唐突な場面があって驚きますが、本書が描こうとしたエキスだけは伝わってきます。この漫画を契機に歴史に遺る大著作に近づいていけたらいいのかなぁと思う次第です。

「発掘~表層~」制作の動機

当初は絵画的な平面作品としてイメージしていた「発掘~表層~」ですが、制作の過程で立体の一部が地表に現れ出た作品としてイメージが固まっていきました。それは彫刻の概念に長年縛られている自分が、たとえ平面に見えるものでも、そこに立体性を嗅ぎつけてしまう癖があるためです。自分の視界に入る全ての物質は空間に存在する立体です。その一部である表面を自分は見ていて、立体としての周囲の状況は想像で補っていると言えます。その想像的補いが彫刻作品の中にあっても不思議ではありません。風景を見るとき私たちはその断片しか見えていないと考えると、その最たる例として遺跡の発掘現場を私は思い浮かべます。遺跡の発掘現場では、土中に埋没した遺構を探りあて、丁寧に土を取り除き、都市の全貌が次第に露わになってきます。予想や想像が具体性を持って現れていく過程に、高揚した気分を味わえるのは私だけではないと思っています。埋没した遺構を表現するテーマは、彫刻家としてデビューした当時から変わっていません。「発掘~表層~」も同じ発想による彫刻作品です。作品が断片的であること、欠如したものであること、想像で補ってほしいこと、作品がもつ世界観を完全に語ることがないこと、それらも「発掘シリーズ」では一貫しています。陶彫は出土品のような様相を呈するので、断片や欠如を表すのに適した素材ではないかと思っているところです。

東京MIX「新音楽夜話」 親子共演

昨日に続いてテレビ番組の話題を取り上げます。私がよく見ているテレビ番組に「小室等の新音楽夜話」(東京MIX)があります。先日2回にわたって放映した番組が楽しかったので、NOTE(ブログ)にしました。司会の歌手小室等、こむろゆい親子と詩人谷川俊太郎、谷川賢作親子が共に出演していて、唄あり、ピアノ演奏あり、朗読ありの盛り沢山の内容でした。谷川俊太郎の詩に小室等が曲をつけた唄は、自分が30年来聴いているお馴染みのものです。RECORDを制作しながら茶の間で毎晩聴いているので、耳にタコが出来ています。1回目の放送で小室等が歌った「死んだ男の残したものは」という唄の作曲者は現代音楽家の故武満徹で、いろいろなフォークシンガーに歌い継がれてきた反戦歌です。ベトナム戦争があった年に作られたものでしたが、国と国との戦争であれば終わることもあるかもしれないが、今となっては戦争は終わらないという主旨を谷川俊太郎氏がおしゃっていました。現在のテロが横行する時代の不幸を物語っていました。2回目の放送で「死んでから」という詩の朗読がありました。死をユーモアを交えて綴った詩に、思わず笑いがこぼれました。楽しい親子共演に心が和みました。

NHK番組「エヴァの長い旅」雑感

先日、何気なく見たNHK番組が印象に残ってしまいました。「エヴァの長い旅~娘に遺すホロコーストの記憶~」という番組でした。取材を受けたユダヤ人のエヴァ・シュロスさんは現在86歳で、15歳の誕生日にポーランドのアウシュビッツ強制収容所に送られた人でした。エヴァさんと母親はそこから奇跡的な生還を果たしましたが、父親と兄は収容所で亡くなっています。エヴァさんの数奇な運命は、「アンネの日記」のアンネ・フランクとの縁によって展開していきます。生還した母親がアンネの父親と再婚したため、エヴァさんと同年齢のアンネは姉妹になるのです。アンネは15歳で亡くなっていましたが、隠れ家で書いた日記が、世界的な反響を得て一躍有名になってしまったのでした。一方、エヴァさんはアウシュビッツ強制収容所でのトラウマに悩まされ続けます。家庭を持っても家族には一切語ることができない心の傷が、やがて娘と溝を作ることになりました。戦後71年目にして漸くエヴァさんは、アウシュビッツ強制収容所に娘と訪ねる決心をして、そこで過去と向き合い、娘との長いわだかまりを乗り超えて、母娘は全てを語ることで共感し合ったのでした。戦争による後遺症がどんな悲劇を齎すのか、エヴァさんという証人の無言の表情からその惨さを知ることが出来ました。ドイツでの非人道的な過ちは決して対岸の火事ではなく、わが国でも他国や他民族に対して犯した罪があります。戦争について考える絶好の機会になった番組放映に感謝です。

週末 砂マチエールの作業

今日も朝から工房で制作三昧になりました。朝から若いスタッフが2人来ていて、そのうち1人は久しぶりに工房にやってきた社会人でした。彼女はイラストレーターとして東京の会社に勤めています。今日は新作の平面性の強い作品の土台部分に、砂マチエールを施す作業があって、2人のスタッフに手伝ってもらいました。土台部分は二畳大の厚板に彫り込みがあります。木彫によるものですが、陶彫と組み合わせるため、木彫の素材感を土質に近づける必要があるのです。そこで砂を硬化剤で木彫面に貼り付ける作業を行います。砂に硬化剤を混ぜ、金属製のヘラで丹念に塗りこんでいきます。職人の壁塗りと異なるところは、砂を漆喰のように均一に塗るわけではなく、砂の盛り上がりのニュアンスを見ながら塗っていくのです。スタッフは美大出身者と芸大大学院生なので、いずれも絵心があり、微妙なニュアンスがよくわかっています。砂が固まると油絵の具を滲み込ませ、絵画的な要素を織り交ぜながら、陶彫部品と組み合わせていくのです。これは自分の常套手段で、砂マチエールにも油絵の具の下塗りにもスタッフの力を借ります。気心が知れた彼女たちだからこそ任せられる作業です。自分は昨日に比べれば元気に振舞えることが出来て、朝から夕方まで精一杯制作に没頭しました。注文した硬化剤が作業の途中でなくなり、砂マチエール貼りは中断してしまいましたが、その後自分もスタッフもそれぞれの制作に移りました。私は陶紋の彫り込み加飾に熱中し、時間の経つのを忘れました。夕方になって彼女たちを車で駅まで送りましたが、自宅に帰ってから今日の疲れが怒涛の如く襲ってきて、ソファに横たわったまま身体が動かなくなりました。これは加齢のせいなのか疑ってみましたが、このところ職場の仕事が厳しくて、さらに週末の制作の追い込みがあったので、年齢とは関係ないのではないかと結論付けました。10年前だって同じように疲労に襲われていたではないかと思い返し、今晩だけは身体を労わろうと思っています。

週末 やっとやってきた週末

この1週間は職場での仕事がいっぱいありました。来週もいっぱいありますが、とりあえず週末がやっとやってきた気分です。昨晩タタラにしておいた陶土を使って成形を始めました。土曜日は身体は疲れているものの、気持ちは溌溂としています。気候も凌ぎ易い温度になって、花々があちらこちらで咲いています。今日は散歩する人が増えました。こんな日は近くの公園まで歩きたくなります。今日は工房で朝から成形の作業に取り掛かりました。大きな成形は新作の一部になりますが、そのひとつひとつに集中力が必要で、機械的に作れるものではありません。ひとつずつ微妙にカタチを変えながら、陶彫部品として全体を形成していくのです。陶土を使う作業は職人的な部分もありますが、表現に対する思索も同時に考えていることがあります。それに気づかされたのは、今日工房に来ていた若いスタッフとの昼食時間の何気ない話題から派生したもので、アートは造形表現であると同時に哲学でもあることを改めて認識した次第です。彼女はよく自分の思索に刺激を与えてくれて、実はとても感謝しています。現象学はフッサールだったっけ、表象とか意志とかいうのはショーペンハウワーだったっけ、とか自分の頭の中で記憶された理論を呼び起こし、造形表現の裏づけを行ったのでした。どうせ週末は仕事を離れて創作を楽しむなら、芸術も学問もひっくるめて味わった方がいいと思っています。制作と鑑賞、芸術と学問、欲望と抑圧、刹那と永遠、さまざまな両輪があってこそ愉快になるし、思索的な週末が過ごせるのだろうと思いながら、手を休めて会話を楽しんだ分、夕方の残り時間を作業に没頭しました。明日も継続です。