棟方志功の装飾世界

学生時代に版画制作に没頭した時期がありました。初めはドイツ表現主義の影響で、ぎくしゃくした構図の木版画をやっていました。人物描写が劇画のようになり、全体はプロレタリア・アートのようで、彫った作品は気に入らないものばかりでした。そんな時によく見ていたのは棟方志功の板画でした。自分は彫り方が中途半端に上達して、その分つまらない作風になってしまいましたが、棟方志功の板画は不器用さを残したまま、その装飾世界は命を謳い上げていました。装飾性が生命感を宿しているのは縄文土器に通じるもので、棟方志功が無我の境地で制作をしていたのがよく伝わります。自分はこの時から具象傾向の木版画はやめてしまいました。それでもよく鎌倉山の棟方志功記念館には出かけました。青森県の記念館にも足を運びました。あの天衣無縫な作品が時々見たくなるのです。今の彫刻で棟方志功の境地になれればと願う毎日です。

笠間の春風萬里荘

益子と笠間。陶芸の里として有名な2つ町が隣接しているのは、横浜在住の自分としてはとても有難く思います。益子に浜田庄司の益子参考館、笠間には北大路魯山人の春風萬里荘。比較の対象にはなりませんが、いずれも文化的な施設で貴重な町の財産だと思います。春風萬里荘は笠間日動美術館の分館として北鎌倉から移築されたものです。北鎌倉には北大路魯山人の星岡窯があって、春風萬里荘はその母屋として使われていたものだそうです。茅葺き入り母屋造りの立派な建物で、魯山人が設計した茶室があったり、「アサガオ」と名づけられた陶製便器があって、なかなか素敵なところです。庭もなだらかな高低があって一回りすると気持ちのよい散歩になります。ここも益子と同じく既に何度か訪れて、最近では人を案内して行く程度ですが、行けば必ず豊かな気持ちになれるところだと感じています。

浜田庄司の大皿

栃木県益子に行き始めた頃は、よく益子参考館を訪れました。角に大手陶器販売店ツカモトの支店がある三叉路を共販センター方面ではなく、反対側にある小さな小道を入っていくと、まもなく大きな日本家屋の立派な門が現れ、その奥にさらに大きな母屋があります。それが益子参考館と言われる浜田庄司の仕事場兼住居だったところです。その規模に驚き、仕事場の雰囲気に憧れてしまいます。また登り窯の様子がよく伝わるように保存されて、まさに当時を偲ばせる場所になっています。浜田庄司は肉厚のおおらかな大皿に釉薬を流しがけて飴色に焼く、いわゆる現在でもよく目にする益子焼のカタチを作った人です。益子焼が現代工芸の中でも温かい民芸としてポジションを与えられているのはこの人の功績と言っても過言ではありません。最近は人の案内でしか行かなくなってしまった益子参考館ですが、たまに訪れ、母屋にある喫茶店でコーヒーをいただくと、とても優雅で豊かな気持ちになれます。

河井寛次郎の木彫面

365点の連作が5月に入って、今テーマとしているのは仮面のようなモノです。京都の五条坂に記念館のある陶芸家河井寛次郎は、民芸の世界で名のある人ですが、陶芸と併行して木彫を作った人でもあります。それも土俗面の雰囲気を残した抽象化された木彫面です。京都の河井寛次郎記念館で、このお面を見た時は、古い木造建築の中でひときわ異彩を放つ存在に驚きました。制作年代を見ると河井寛次郎が60歳から70歳にかけてこの木彫面を作ったことになっています。この年齢にして作品が放つ若々しい感覚はどこからきたものでしょう。名を残す作家は、若い頃いろいろな制約の中で技巧を見せ、円熟するにしたがって自分を解放し、あらゆるものから自由になるものでしょうか。

新作の作業開始

益子や笠間に行って若手陶芸家の作品を見てくると、自分の制作に弾みがつきます。益子や笠間はヤル気をもらえる場所なのです。自分もいよいよ新作の木彫を始めました。板材のデザインや組み合わせは、大まかにイメージが出来ていますが、雛型を作ろうかどうか迷っています。柱を何十本か立て板材を支える構造で、そこは去年と同じですが、今年は内包ではなく解放するカタチにしようとしています。坦々とした仕事を今年も始めようとしています。規則正しい作業が自分には向いているのかもしれません。別に他に仕事を持っているからというものではありません。たとえ彫刻の制作だけで毎日を過ごしていたとしても、朝から夕方まで同じ作業を繰り返す日課になるだろうと思います。それが自分流なのです。

笠間の「陶炎祭」めぐり

栃木県益子と肩を並べて、茨城県笠間の「陶炎祭」も人が混み合うイベントです。ここにはブログに何回か書いたことのある佐藤和美さんが出店しています。「佐藤陶房」は健太・和美夫妻がやっている店で藍染のマルサが目印です。作品は土っぽい自然な器で、温かく柔らかい雰囲気を持っています。毎年私は出発前に飲み物や食べ物を準備して店を訪ねていきます。店を閉めた後、仲間でプチ宴会を行うのが楽しみなのです。もちろん佐藤和美コレクターを自負する自分は必ず新作を購入します。今年は木の枝のように長い一輪挿しを求めました。佐藤陶房で手伝いをしている冨川秋子さんも若手作家の一人で、美大で陶磁器を専攻し、今は笠間の窯業試験場で研修中です。冨川さんの陶は自然をイメージした風に震えるような浮遊感のある軽やかな作品です。ミクロなカタチで大きな世界を表現しようとする冨川さんに期待しています。オブジェでは自分も負けていられないと感じています。この日は制作に弾みがついた一日になりました。

益子の「陶器市」めぐり

ゴールデンウイーク中に開催される栃木県益子の「陶器市」は大変な人出があるので、毎年夜明け前に横浜を出発することにしています。共販センター駐車場に店が開く前に車を入れて、目当ての店へと繰り出します。まず「陶庫」の蔵を改装したギャラリー、次に隣の藍染の工房、向かいの「もてぎ」の裏にあるガーデンギャラリー、若手作家が集まる「かまぐれの丘」。ここに職場の同僚から紹介された細川かおりさんが出店しています。細川さんの器はシンプルで肌理の細かいデザインが施されているので料理が映えます。使い勝手がよく素敵な作品です。新作を見ると、つい購入してしまいます。細川さんを初めとする若手作家の作品は、安価であるばかりか一生懸命さが伝わってきます。器は飾るものではなく使ってこそ真価が問われるものだと思います。斬新で使いやすい器を毎年期待しています。

「三輪壽雪」の豪放な器

昨日、笠間の「陶炎祭」に出かけた際、「陶炎祭」会場のある笠間芸術の森公園には茨城県立陶芸美術館があって、毎年この時期の企画展は欠かさず見ることにしています。今年は「三輪壽雪の世界」展。壽雪は十一代休雪として萩焼一筋に歩んでこられた人ですが、器の概念から外れたような大胆な器で知られる人でもあります。今回まとまった作品群を見て、若い頃の修業時代から始まった作陶が、加齢するにしたがって作風が解放されて今のような豪放な世界にたどり着いた様子がよくわかりました。十字を切った割高台、凛とした成形に荒々しくかけた白萩釉。ざっくりとした造形に自分も挑発されるようで、作陶の面白さを余すことなく伝える内容でした。美術館の近くで「陶炎祭」が行われている環境もあって、否応無く現代の若手陶芸家と比べる結果となりますが、若手の中にも壽雪に負けない勢いが欲しいと願うばかりです。もちろん器を作らない自分も造形家の端くれとして襟を正したいと感じています。

益子から笠間へ

早朝3時半に自宅を出て、栃木県益子の「陶器市」、茨城県笠間の「陶炎祭」に行って来ました。帰宅は真夜中です。ここには毎年5月3日に行っています。もう恒例になって何年になるでしょうか。陶芸家として頑張っている親友に会いに行く、若手陶芸家から刺激をもらう、友人や教え子を連れて行く、器や即興で作った店舗デザインを見る、美味しい空気と食事を楽しむ等々理由はいっぱいあります。何故3日かといえば笠間の「陶炎祭」の夜祭りがあるためです。笠間芸術の森公園に特設された野外ステージでの演奏。夜7時から9時までの心躍る瞬間。まるで大学時代の学園祭のようなノリで地元の陶芸家や観光客が集まって騒ぎます。他のライブと違うのは会場に大きな窯が設えてあって、赤々と夜空に向かって炎をあげていること。今年のゲストは上田正樹でした。ステージ上にいるベテランアーチストは、構えることなく普段の語りをそのままブルースに変え、聴衆にメッセージを伝えていました。愛や平和を独特なインパクトで伝える表現には説得力があって、とてもいい時間を過ごすことができました。

タウン誌の取材

横浜市旭区在住の作家の一人として、タウン誌の取材を受けることになりました。午後の1時間半、僅かばかりの広さのアトリエで、ルポライターの質問に答えました。普段から図碌撮影等で付き合っているカメラマンとは別のカメラマンが現れて私自身の撮影をしていきました。自分のことを喋ったり、撮影されたりするのは本当に苦手ですが、そうも言っていられないので、自分としては精一杯やることにしました。自分の生い立ちから彫刻との出会い、さらに今置かれている立場を、その時代に思索したことを思い出しながら振り返るのは、思うほど気楽なことではありませんでした。自分の創作のことを聞いて欲しいし、人に伝えたいと日頃考えているのに、いざ本格的に聞いてもらえるとなると尻込みしてしまうのは一体どういうことでしょうか。結局、自分は巧く言葉で伝えられないので、造形として表現しているのかもしれません。作品で何を表現しようとしているのか、これは単純で難しい質問でした。言葉にできないのです。イメージがあって、それで何かを表そうとしているのですが漠然としています。でも強烈な意思が働いていることに間違いはありません。説明できない「何か」があるのです。

5月に再読「智恵子抄」

風薫る5月になりました。今日は雨模様でしたが5月の空のイメージは清々しく夏の香りを運んでくるものと思い描いています。そんな折、高村光太郎の「智恵子抄」に出てくる詩の冒頭に目がとまりました。「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。私は驚いて空を見る。櫻若葉の間に在るのは、切っても切れない むかしなじみのきれいな空だ。〜略〜」都会ではなく自然に恵まれた土地で見る空。5月になって気候がゆるやかに身体を包む季節になると、美しい空が見たいと自分も思います。智恵子のまっすぐな思いを、そのまままっすぐな詩に詠んだ光太郎。時々こんな詩に触れると気持ちがピュアでまっすぐになります。こんな心をいつまでも持ち続けたいものです。                        Yutaka Aihara.com

「水の情景」展

ゴールデンウイーク前半最終日の今日は好天に恵まれた一日でした。現在横浜美術館で開催している「水の情景」展に出かけ、水をテーマにした企画展を楽しみました。自分は美術館に行くと、決まって身体から力が抜け、ぼんやりと静謐な時間を過ごすことが多いのですが、今日も例外ではありませんでした。とくに「水」をテーマとして古今東西の名画を集めた展覧会なので、癒しとも潤いともとれる作品を観ていると、今まで溜まっていた疲れから開放されるような思いでした。印象に残ったのはベトナムの作家による水中を人力車を押し続ける映像作品と、沖縄の作家による珊瑚の浜辺を床一面に敷いた作品でした。珊瑚の浜辺には海の記憶があって、乾いた情景なのに水を感じさせる作品に出来上がっていました。

「ルル」表現主義によるオペラ

ウィーン滞在が5年に及び、その間暇に任せてオペラをほとんど毎晩観ていました。パンフレットは百冊を超えました。だんだん音楽が楽しくなっていき、一端の音楽評論家よろしく今晩のオペラはどうのこうのと人と喋れる自分が信じられないほどでした。そんな自分が理解しようと努めていたのがベルクのオペラでした。20世紀初頭に現れた表現主義。美術ではとっくに理解し、むしろ古臭く感じていた様式が、こと音楽になるとなかなか楽しめる状態にはなっていませんでした。心理を捉えて歪ませた舞台に、鋭く切り込む音響。世紀末的なドロドロしたドラマ。より現代に近いと感じながらも、今も前世紀のオペラにホッとできる自分がいました。美術の表現主義は充分楽しめるのに、自分の音楽に対する時代遅れを何とかしたいものだと思っていました。

「エレクトラ」の壮絶な復讐劇

昨年11月13日付のブログに今日書こうとした内容がありました。この「エレクトラ」はウィーンで初めて観たオペラで、上演時間が短いにもかかわらず、旋律が理解できずに退屈さえ覚えてしまったものです。幕が上がるといきなり激しい旋律が流れ、愛人と共謀して父を殺害した母に対する娘エレクトラの復讐に満ちたセリフが綴られていきます。ずっと緊張を強いられる叫びともとれる恨みが延々と続きました。オペラ初体験者にとって、これはつらいものです。この旋律、つまり不協和音を理解するまでかなり時間がかかりました。調和のとれた旋律に物足りなさを感じるほどオペラ通になって、ようやく自分の中の音楽史が更新されました。でもシェーンベルクやベルクを理解するのにさらに時間を要しました。現代美術と似ていて、新古典主義から印象派、さらに表現主義、キュービズムやダダイズムやらを自分の中で咀嚼し理解する過程と同じと思いました。

「椿姫」の豪華な宴

散りばめられた有名な旋律、華麗な舞台、男女の葛藤、どれをとっても楽しめるオペラと言えます。パリの社交界で繰り広げられる豪華な宴は、女性の衣裳を見ているだけで、その雰囲気は容易に想像がつきます。ウィーン国立歌劇場で観た「椿姫」は思わず口ずさみたくなるメロデイーと、花のような衣裳に身を包んだ社交界の人々の踊りで、まさにヨーロッパ文化の坩堝の中にどんどん引き込まれてしまいました。オペラ鑑賞の第一歩はこの「椿姫」がお勧めです。歌あり、踊りあり、ドラマあり、悲劇ありの全てが揃ったオペラで、たとえイタリア語であっても物語の大筋は理解できます。オペラは耳に心地よいものという印象を最初に持った方がいいと思います。私はR・シュトラウスを最初に聴いて、それからしばらくオペラから遠ざかってしまった経験があります。

「アイーダ」の凱旋シーン

ハリウッド黄金期の映画「十戒」や「クレオパトラ」を彷彿とさせるのが、ベルデイ作曲のイタリア歌劇「アイーダ」です。「アイーダ」の方が制作年代が古いので、ハリウッド映画の方が影響を受けているのかもしれません。スケールの大きさは比類のないもので、野外で演じられることも度々あります。ウィーン歌劇場で観たオペラの中で、舞台美術や群集の動きが楽しめたオペラでした。オペラ歌手は声量が求められるので華奢な人は少なく、むしろ堂々とした体格をもっています。今にも死にそうな演技には少々無理を感じますが、「アイーダ」にいたってはあまり気になりません。凱旋シーンは圧巻でした。俗っぽい演出という見方もありますが娯楽性も必要なものかなと思います。

「タンホイザー」の精神性

ウィーンに住んでいた20数年前に、いったいどのくらいオペラを観たのか定かではありません。夕闇迫る頃になると決まって立見席の列に並んでいました。ドイツを代表する作曲家ワーグナーのオペラは、耳に心地よいオペラを何度か聴いた上でないと、あの分厚く長い演奏についていけないと今でも思っています。音楽やドラマに精神性を感じるに至るまで、聴く訓練が必要なオペラとも言えます。その中でも「タンホイザー」は聴き慣れた曲があるので、ワーグナーの楽曲の中でも楽しく聴ける演目です。ストーリーは宗教的な教義が底辺にあり、愛する人の犠牲死によって、今までの罪から救済されるというものです。なかなか日本人には理解できない要素をもっていますが、堂々とした音楽や歌手の圧倒する声量を身体中で感じ取るのもいいものだと思っています。

個展のお礼状

今日は個展のお礼状を印刷しました。赤錆色をしている陶彫の作品を、ずっと撮影をお願いしているカメラマンによって薄桃色にアレンジされ、なかなかお洒落なお礼状になりました。春らしいポストカードです。その中には既に売れてしまった作品も含まれていて記録としても残ります。ようやく今年の個展に幕引きをした感じです。新しい作品は始まっていますが、あくまでもイメージだけで、実際の作業には取り掛かっていません。5月の連休くらいから作業をしたいものです。連休には例年のように栃木県益子の「陶器市」や茨城県笠間の「陶炎祭」に出かけていって制作に弾みをつけたいところです。はやく連休にならないかと心待ちにしています。

「さまよえるオランダ人」の幽霊船

家内は大学で空間演出デザインを専攻し、卒業制作にワーグナー作曲による「さまよえるオランダ人」の舞台デザインをやっていました。そのイメージがあってか、ウィーン国立歌劇場で「さまよえるオランダ人」を観た際、舞台中央に大きな幽霊船が現れた時は、家内のデザインと印象が混ざってしまいました。船の舳先がこちらに迫ってくるシーンは圧倒的な迫力と美しさがあって、暗いおどろおどろしい場面でもあっても、ワーグナー独特の分厚い旋律と相まって心躍るシーンになっていました。ワーグナーのオペラはどれをとっても、とてつもなく長くて時折音響に陶酔して夢か現かわからない状態で聴いていることがあります。そうした中でも「さまよえるオランダ人」は短めで程よい興奮が味わえるオペラだと思います。ワーグナー初期の作品という解説ですが、その新鮮さゆえ結構好きなオペラのひとつです。

「フィデリオ」の灰色の壁

20数年前に住んだウィーンで爪に火を点す生活をしていた自分の楽しみはオペラの立ち見でした。ベートーベン作曲によるオペラ「フィデリオ」は、ストーリーが分かりやすく音楽も胸を打つものがあったので、何回も観ています。男装した主人公が無実の罪で捕らえられていた夫を探すドラマで、場面はすべて刑務所でした。自分の生育暦の中に音楽的な環境はなかったものの美術的な環境は多少あったので、自分が音楽よりも好んで見ていたのは舞台装置でした。刑務所の無造作な壁に照明が当たり、囚人たちがぞろぞろと外に出てくるシーンがとても美しく、群集劇がまるで一幅の絵画のように感じました。舞台に立てられた灰色の壁がドラマを雄弁に語っているようでした。

たかが小品、されど小品

4月の慌しい生活の中で、今だ彫刻には手が出ず、365点の連作をポツポツ描いています。葉書大の画面に、時として大きな空間を想定して、こんな平原にこんな立体を置いたらどうだろうと自己陶酔しながら描き溜めています。そう思えば、たかが小品と思っていた作品が、イメージの中では巨大になってしまうから不思議です。上空から見て突き出たカタチをどう表現しようとか、地中から現れ出たカタチをどう表現しようとか勝手に頭をめぐらすのは楽しいものです。先日ブログに書いた「立体感」ではなく「立体」を表すにはどうしたらよいのか、濃淡や線描でどこまでやれるのか、こればかりは観る人を意識するというより、自分の納得のためにやっているようなものです。

癒し系のアート

美術とは違う世界の仕事が多忙をきわめているせいか、美術作品に触れると心が穏やかになります。絵画であれ彫刻であれ、ホッと一息つける感覚は長い間美術に関わったおかげかもしれません。我が家に千葉県の海岸で拾ってきた大きな木の根があります。波に打たれ、風に晒されて、木の根はまるで違う素材のように乾いていました。それに白い塗料を塗って我が家の床にころがしてあります。作為としては塗装をしただけですが、これは立派なアートだと思っています。人の手をかけたところが最小限で、ありのままに存在するアート。いつもこのオブジェを見ていると心が癒されます。自分の作品より癒される作品です。自然の偉大さを感じ取ってしまいます。

「ラ・ボエーム」の時代

プッチーニの作曲したオペラに「ラ・ボエーム」があります。イタリア歌劇の中ではよく演奏されるオペラのひとつです。今日職場でひょんなことからオペラの話になり、このリリシズムあふれる「ラ・ボエーム」を聴いた思い出を語ってしまいました。フレーニ、パパロッテイという当時最も人気のあった歌手が出演し、クライバーというこれまた実力のある指揮者が振った「ラ・ボエーム」。20数年前にウィーン歌劇場の立見席で、観客のすし詰め状態の中に私がいました。伸びやかで優美、たおやかな余韻を残すアリアが終わると拍手喝采が延々と続きました。オペラは寂しい生活を送っていた自分に内面の豊かさをもたらせてくれました。オペラが終わって外に出ても、「ラ・ボエーム」に登場したパリに見まがうようなウィーンの街が目の前に広がっていて、おまけに自分は画学生でした。「ラ・ボエーム」の時代に生きているような錯覚さえ持ってしまいました。

作品をどんな壁の前に置くのか

作品が立体であるゆえに周囲の環境が影響します。自分の陶彫作品を置く場所は周囲に壁があった方がいいと思っています。作品によっては広い環境の中に置いた方が映える作品もあるでしょう。野外が向いている作品もあると思います。自分も野外という環境が与えられたら、そこに相応しい素材と表現を選ぶと思いますが、今の作品なら屋内の何もない空間に置いて欲しいと願っています。壁は白い壁と決めていますが、あるいは土壁でも漆喰でも快い緊張が生まれるかもしれません。コンクリート打ちっぱなしの壁なら、また違う印象の作品になるでしょう。立体作品の楽しさはまさにそこにあります。作品をどんな壁の前に置くのか。環境を意識することは作品そのものと同じくらい大切なことだと思います。

作品をどんな床に置くのか

立体作品を作っていると、作品が置かれる環境、たとえば床に注目する時があります。だいたいはギャラリーの床で、それは板目であったり、タイル張りであったりします。床は目立つ存在であってはいけないと感じていますが、もしも石畳や芝生の場合は、作品にもたらす影響が多々あろうかと思います。どんな環境に作品が置かれるのか。周囲の風景も関係しますが、まずは大地の材質感を気にして、作品素材との関係を考えるのも刺激的だと思います。床から考える立体作品。大地から考える立体作品。雰囲気に慣れているお馴染みのギャラリーではなく、時として作品を様々な場所や床に置いてみたくなるのです。

立体をどう解釈するか

365点の連作で、とくに今月になって展開を始めたのが、「立体」と「立体感」の考え方です。イラストボードを葉書大にカットした画面を日々描いているので、2月と3月は完全に平面作品としてまとめてきました。つまり「立体感」を陰影で表したものです。絵画的な考え方で、いわゆるデッサンのような仕上がりになっています。今月は「立体感」ではなく「立体」として平面に表そうと試みています。モチーフを斜めにして陰影をつける今までの方法ではなく、正面から捉えて「立体」であるのを暗示させられないかと考えているのです。彫刻家ジャコメッテイがモデルの顔を正面から捉え、鼻から後頭部にかけての空間を表そうと平面上で格闘したことが矢内原伊作の著書にあります。それが契機になっています。自分は抽象化されたモチーフですが、レリーフにならずにどうしたら平面上に「立体」が表せるのか、今後の課題になるでしょう。

365点の連作、焦らず休まず

2月から始めている365点の連作は、ようやく70数点が出来てきました。とつおいつ筆を進ませ、時に滞り何気なく嫌気がさすこともあった作品も気づけば70点を超えていました。日々作品が似てしまうのは仕方なしとして、これは大作に取り掛かる前の雛形の、さらに前段階で行うアイデアの集積のように捉え直すことにしました。シリーズとしていくつかの立体を考えるならば、こんな感じでいこうと数日同じパターンを繰り返す、すると何となく思考が深まっていき、いいものが出来るのです。繰り返しにならないように気遣っていたものが、繰り返しも可とすると気が楽になります。毎日新鮮でいたいと願いつつ、牛歩のように展開していく作品を見ると、これしか自分には出来ないのかと思い、こんな連作でやっていこうと決めました。焦らず休まず勤勉に創作すること、これだってきっと大変なものです。

ダビンチの発明品

東京国立博物館で開催している「レオナルド・ダビンチ〜天才の実像〜」展では「受胎告知」のみならず、平成館でやっているダビンチの考えた法則や発明品には夢があってとても楽しめます。画家として活躍する一方、様々なことを考え、実行していたことを思うと、天才ダビンチの天才たる所以が見えてきて驚くばかりです。この多面性をもった巨匠の足跡は私たちに多くの遺産を残してくれました。とくに私が面白かったのは空を飛ぶ装置で、リアルではないところが気に入りました。

「受胎告知」を観て

東京に出るついでに上野まで足を伸ばし、レオナルド=ダビンチの「受胎告知」を観てきました。金曜日は夜8時まで開館しているとの情報で、遅い時間に国立博物館に行ったものの、やはり人で溢れていました。でも充分時間を取って観ることが出来て、「受胎告知」を堪能しました。何とクリアな画面でしょうか。修復をしているようですが、細部の描きこみには目を奪われました。全体を捉えた空気遠近法では、霞んで見える風景も近づくとしっかり描きこんでいて目を見張ります。ダビンチ20歳の頃の瑞々しさと硬さ、緻密な描写力と確固たる構成力に天才の片鱗が見えていました。ダビンチが思考したり試みたりした諸々も併せて展示されていました。表現の幅に驚嘆するばかりです。

青葉若葉の季節

桜が散って葉桜になりました。職場に出かける道すがら、いくつもの街路樹があって青葉若葉が美しく映えています。花粉症もだいぶ楽になりました。ランニングや散歩をする人を横目に見ながら、多忙をきわめる職場に直行しています。外を眺める余裕もなく朝から晩までパソコンの前にいます。年度当初の慌しい時期が過ぎれば、少しは外を眺めて季節感を満喫できるのでしょうが、今はそういうわけにもいきません。作品のイメージは心の中にわだかまり、土を捏ねたり木を彫る行為がやりたくて、それがまるで生理現象のように心に押し寄せてきます。週末はいよいよ新作を始めなければ心身のバランスを失いそうです。もっとも青葉若葉の季節は自分にとって創作意欲が湧く季節なのです。

「球体都市」に寄せられた評

「球体都市群が何とも言えない楽しい雰囲気を醸し出していました。全ての究極は球体なのでしょうか。無限の方向と可能性を秘めていて、常に回帰する。不思議な世界ですから。(以下略)」といった手紙を知人からいただきました。個展に来ていただいたお礼状には、この「球体都市」群を使わせていただこうと思っています。いつも撮影してくださるカメラマンが淡い感じに「球体都市」をアレンジしてくれています。その「球体都市」に身に余る評をいただき、本当に嬉しい限りです。円錐やピラミッドも自分の作品要素にはあるのですが、やはり球体が一番面白いと思っています。構造が展開していくなら立方体、幾何的要素だけでなく生命などの有機的要素を考えるなら球体と思っているのです。