「サーカス・シリーズ」について
2020年 9月 25日 金曜日
先日、師匠である彫刻家池田宗弘先生の真鍮直付けの作品を久しぶりに見せていただきました。東京の東村山市立中央公民館で開催していた「池田宗弘展」は、初期の頃から最近までの作品を網羅してあって、私には先生の初期の頃の作品に印象深いものがあり、何度見てもその斬新な形態に感じ入ってしまいました。「サーカス・シリーズ」として一時期を形成する作品「不安定のなかの安定」は会場前のガラスケースにありました。サーカスに興じる道化師を、真鍮直付けの技法で作った彫刻には頭部がありません。鑑賞者は彫刻に頭部があると、つい顔の表情に目がいってしまい、人体全体を見ることがその後になってしまうのです。頭部がないことで私たちはいきなり全体を見て、その独特な形態を把握することになります。「不安定のなかの安定」の最初の印象は、まさに綱渡りをする人体で、しかも量感を削り取られたギリギリの人体です。細い人体と言えばA・ジャコメッティですが、ジャコメッティがモデルを観察し、それを塑造した結果として細くなったことに対して、池田先生の人体は周囲の空間を得ようとした結果として、量感をなくしていったように思えます。彫刻に光を当てて壁に落ちた陰影で見ると、ジャコメッティの作品は針金のようですが、池田先生の作品は陰影が作品の世界を雄弁に語ります。その最たるものが「サーカス・シリーズ」で、イスを積み上げてその上で逆立ちをする道化師は、まさに陰影こそ楽しい世界を作り出していると言えます。池田先生は学生時代、当初は粘土で人体塑造をやっていたそうですが、溶接や鍛金技術を得て素材を金属に変えました。金属は形態を細くしても空間にその姿を保つことができます。それはカタチとカタチの間に隙間を作り、それ故に大きな空間を確保できたのでした。先生の空間解釈は画期的なもので、学生だった私はそれをどう考えたらよいのか分からなかったことが思い出されます。あの頃の私は塑造によってカタチを膨らませることばかりを考えていて、量感こそ全てだったのでした。そこに空洞さえ厭わぬ「サーカス・シリーズ」や内臓に穴の空いた猫の群像がやってきて、その表現力に私は圧倒されてしまったのでした。たとえ尊敬する師匠であってもその表現には追従してはいけないと、私は自分に言い聞かせて、別の道を歩むことになりました。先生に対する感受と反発、これが今の私を形成してきたのだと思います。