詩的言語による作品分析

通勤電車の中で読んでいるA・ブルトン著「シュルレアリスムと絵画」(人文書院)に収められているマルセル・デュシャンの作り出したガラス絵「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも」に関する分析は、造形美術に対する価値観が大きく変わったことを示唆していて興味を持ちます。瀧口修造全集(みすず書房)にもデュシャンの同作品が取り上げられていたので概略は知っていましたが、これほど綿密で詩に富んだ評論は、じっくり噛み砕いて読むのに相応しいと思いました。美術評論の中で造形作品に相応する詩的言語が用いられ、作品から発せられるイメージを源泉にした詩的世界に思いを寄せるのは、作品の分析と解釈が一筋縄ではいかないことを意味しているように思えます。事実、この作品を図版で見た時に、何か言いようのない世界観があって、この洞察には鑑賞する側に通念をひっくり返していくだけの覚悟が必要だと感じました。A・ブルトンや瀧口修造が試みた詩的言語による分析は、単なる評論を超えて、創造的な世界を構築しているように思えます。

納豆がない!

毎朝納豆を食べていたのに、震災の影響からかスーパーマーケットから納豆が消えました。自分は豆好きで、納豆が大好きです。かつて健康を売りにしたテレビ番組で取り上げられて、納豆が飛ぶように売れ、店頭から消えたことがありました。でも最近の事情は深刻で、納豆がいつ店頭に戻ってくるのかわかりません。納豆と味噌汁の絶妙な取り合わせは、日本人にしかわからない美味しさだと思っています。日本びいきのオーストリア人が、納豆だけは食べられないと言っていたことを今でも思い出します。自分の納豆好きは健康志向からくるものではありません。単純な豆好きで、醤油が好きで、粘りが好きとなれば、それはもう納豆しかないのです。少し前は大粒納豆が好きでしたが、最近は小粒納豆に嗜好が移っていました。ひきわりはあまり好みません。豆そのもののカタチを留めているのがいいのです。パンでも豆パンがあります。ごろごろした豆が入っているものであれば何でも美味しく食べます。不思議な嗜好かもしれませんが…。

仕事山積の一週間

先週に続き今週も仕事の多い一週間になりそうです。年度初めは今の職場に限らず、どこでも同じ風景なのかもしれません。来週末が遠く感じられます。でも夜のRECORD制作は気合が入っています。昨日美大生に見せられたミニRECORDのおかげです。有能な弟子がいて良かったと思います。美大生のミニRECORDはテキスタイル的で、記号化したカタチに色彩が溢れています。アメーバのようにどこまでも広がっていく世界です。自分は空間構成的な世界で、彫刻のラフスケッチのような捉えでRECORDを作っています。そんなことも含めて、公務と創作の両方に仕事が山積する一週間の幕開けとなりますが、気持ちの持ちようで仕事が楽しく感じられる時も多々あります。多忙な仕事に慣れてきたせいかもしれません。公務と創作の気持ちの切り替えにランクアップが図れたようにも思えます。毎晩RECORDを頑張ってやっていこうと決めています。

週末 RECORD刺激剤

今日は工房で制作三昧の一日でした。久しぶりに美大で工芸工業デザインを学ぶ子が工房に顔を出しました。大学は入学式が震災の影響で中止になったこと、講義の始まりも遅くなったこと等を話してくれました。自分は木彫した柱に炙り加工をしていたところ、美大生が何気なく見せてくれた作品に刺激をもらいました。彼女が作っていたのは、まさにRECORDの変形版。大きさはRECORDより小さく、ちょうど名刺を入れるクリアファイルに1か月分が収まっていました。そういえば以前世田谷や鎌倉の美術館に彼女を付き合わせた時にRECORDの話をしていたのでした。「日によって気に入らない作品がある。」「作品がだんだん変化していく。」等々のコメントは、自分にも通じるものがあって共感すると共にRECORDに対して意欲が沸いてきました。自分が影響を与えているとはいえ、時々見せ合ってコメントできる相手がいるのは社会的促進としてお互いのために良いことと考えます。今月も頑張ってRECORDをやっていこうと思います。

週末 仕事に追われて…

4月に入って初めての週末ですが、山積された仕事が片付かず休日出勤になりました。来週提出する書類、戸棚の整理等々やっていたのですが、自分の机上整理まで手が回らず、結局疲れて早めに帰宅しました。工房には行けず、気持ちが制作に向かわない一日でした。工房にはボランティアが来ていたようですが、その子とも会えず、夜は近隣のスポーツ施設に行って、汗を流して気分転換を図りました。仕事だけダラダラやっていても効率が上がるものではありません。リセットするものが必要です。明日は工房に行って制作をしたいと思っています。

出会いの4月です。

職場に14名の新しい正規職員が着任してきました。自分が職員を紹介し、新年度に向けた取り組みがスタートしました。4月5日には臨時的任用職員が4名やってきます。今日着任した職員は新採用も含めて、職場の情報が一気に入ってきて、かなり疲れただろうと察します。明日と明後日が休日なのが救いです。でも自分はやり残している仕事があって、明日は休日出勤です。4月は出会いの季節です。職場も自分の創作活動も実り多い1年間になってほしいと願っています。創作活動の方は「構築~楼閣~」の全体構成に取りかかります。まだ陶彫部品が足りないような気がしています。調整のための制作が必要になるかもしれません。RECORDはどんなベースにしようか思案しているところです。職場では多忙な1ヶ月になりますが、創作活動とバランスを取りながら、何とかしていこうと思います。

3月の終わりに…

まさに年度末を迎えました。私は異動なし。現在の大きな職場で継続して働くことになりました。3年目になります。自分の親しくしている管理職仲間は皆んな異動が決まり、書類の整理に追われているというのに、自分だけが残された感じです。職場では異動が決まった職員の机上からすっかりモノがなくなり、ガランとした空間になっています。週の途中ですが、明日から新しく始まる年度に変わり、新しく赴任してくる職員がやってきます。22年度を振り返ると、職場は安泰と言えるものではなく、常に危機管理と隣り合わせの状況が続きました。気が休まらない日々も、過ぎてしまえば何とか乗り越えてこれるものと楽観視できます。それは有能なスタッフあっての話です。明日迎える新しいスタッフが、大いに自分の持てるものを発揮できる職場環境にしたいものです。

RECORD継続細々と

朝は始発のバスに揺られて、職場で10数時間も仕事に追われ、夜遅くなって帰宅する生活では、一日1点を作り続けていくRECORDはかなり厳しい状況に押しやられています。毎晩下書きしか描けないのです。気持ちが入らずイメージが膨らむこともありません。作品は正直なので、きっと余裕のないRECORDになっているだろうと思います。ヤル気も根気もないのに、何故RECORDをやるのかと思ってしまいます。でも細々と継続しています。その先に何があるのかわかりませんが、とにかく続けようと思っているのです。今月は細かいスプライトを画面の基盤にしているので、本来なら手間暇かかるところを、なんとか時間をやりくりして水準を保とうとしています。投げやりになって作りたくないので、今が踏ん張りどころなのかもしれません。

超現実世界に遊ぶ

年度末の残務整理が多忙を極めるなか、通勤時間の読書が唯一の心の癒しです。アンドレ・ブルトン著「シュルレアリスムと絵画」を読んでいて、超現実の世界に心を委ねながら、夢と現実が交差する造形を楽しんでいます。現実逃避なのか、それとも今の自分がいる世界が本当の意味でリアルなのか、よくわからなくなります。内面世界に遊びたいと思うのは、年度末残務の多忙さ故か、心が枯渇しているせいか、あるいはその両方かもしれませんが、無性に創作に向いたくなるのです。就寝は疲れて夢さえ見ない毎日ですが、せめて通勤時間に読む書籍に誘われて、超現実的世界に遊びたいと願っています。

年度末&年度当初の一週間

この一週間は長い一週間です。3月から4月に切り替わる一週間なので、年度末と年度当初の複雑な思いの籠もった日々になるからです。職場では荷物整理を始める職員がいます。異動があるためです。自分はまだ残務整理が出来ず、何をどこから手をつけていいかわからない状態です。書類を完璧にしておきたいと思っても、時間ばかりが経ってしまい、気持ちは焦るばかりです。朝から晩まで職場にいて12時間以上の勤務になると、眼が疲れてパソコンが見えづらくなります。夜は失敗も多くなり、19時以降の残業は効率的とは言えません。ならば朝早く仕事に取り掛かろうと思いますが、朝は頭がまわりません。きっと今週末に仕事が雪崩込むことは間違いありません。創作活動の入り込む余地がない現状です。

週末 木彫仕上げ終了

週末と言っても昨日が出勤日だったので、今日一日だけの制作日になりました。工房のガレージ側の木蓮や桃の花が満開で、花々が青空に映えて美しいと感じました。朝から夕方まで工房にいて、木彫の柱の仕上げを終わらせました。来週炙り作業に入ります。作業途中で疲れたと思うこともありましたが、根気強く取り組んで何とか8本を彫り終え、ホッと一息つきました。夕方から材料の買出しに出ました。炙り作業に必要なガスやブラシが以前使用した時に駄目になっていたような気がしたのです。荏油も買ってきました。これは別の用途で使います。今日は充実した時間を過ごすことができました。また来週。モチベーションを下げないようにしたいと思います。

週末 今年も出勤日

昨年3月27日(土)付けのNOTE(ブログ)に「週末なのに出勤日」という文章を載せています。毎年3月最終の土曜日が出勤日となっているので、今年も昨年と同じ内容で出勤しています。施設を複数業者が使用するので、管理職としては施設管理の面から出勤して対応しているのです。年間何回かは週末の出勤日があります。今日はほとんどウィークディと同じ8時間勤務になりました。工房に行けないのは残念ですが、仕方がないと割り切って仕事をしていました。仕事帰りに、母が白内障の手術で入院しているので見舞いにも行きました。母は至って元気で安心しました。80代後半の年齢に差しかかっても一人で実家で暮らしていて、あまり弱音を吐かない気丈なところのある母親です。杖も持たず旅行にも出かけていき、銀座の個展にもひょっこり現れます。自分が安心して仕事ができるのは、こんな環境もあるのかもしれません。

自然なままに…

根拠のない自分の人生観が、職場の何人かに妙に支持されています。それは無理のない自然な流れの中で、焦らず着実に生きてゆくという至極当たり前の人生観です。職場で不自然な働き方をしていた人が、事故に遭遇したり、身体を悪くしたケースが見られたので、どこかでその人は無理をしていたのではないかと自分が呟いた一言が、自分流の根拠のない人生観になってしまったわけです。それは現在の職場で起こっただけでなく、かつて自分の周囲にもそうしたケースがありました。若くして彫刻家兼デザイナーとして成功し、大きな工房を手に入れた人が突如交通事故で亡くなったり、地位や名誉を急いだ人が急逝することがあって驚いたことがあります。自分はいつも自分自身を振り返って、今の自分に無理がないかどうかを確かめることにしていると言うと、職場の人がうんうんと頷いていました。自然なままに流れに逆らわず日々を過ごすこと。この年齢まで仕事で蓄積したものがあるからこそ自然に管理職になり、彫刻を弛まず続けてきたからこそ自分の工房が持てたこと。若ければ無理が祟るところを、今の自分であればきっとこのくらいのことがあってもいいのではないかと感じています。自然なままに…これが自分の人生観です。

お茶の文化

お茶の文化と言っても茶道のことを言っているわけではありません。禅や茶の湯のことを論じるのは別の機会にして、もっと気楽な話をしようと思います。昨日のNOTE(ブログ)に先祖代々労働を美徳とする家訓について書きました。まぁ、家訓というほどのものではなく、そんな雰囲気のある家庭に育ったという程度のニュアンスです。代々自分の実家は職人の家系なので午前10時と午後3時には必ずお茶の時間がありましたが、お茶を美味しくいただくことはなく、むしろ休憩時間くらいにしか自分は感じていませんでした。何かにつけ美味しいお茶をいただいているのは家内と結婚してからのことで、今や我が家はお茶なしには成り立たない家庭の雰囲気があります。茶葉を取り寄せて茶の入れ方に拘る家内は、そうした家庭に育ったのでした。結婚とは、他人同士がそれぞれの家庭の文化を持ち寄って、時にその文化を対峙させ、融合させて新しい文化を築くものだと考えます。我が家のお茶の文化は、そのような上に成り立っていると思っています。一服のお茶による生活の潤い。今や自分が創作に向かう環境のひとつになっていると感じています。

自分に問う

自分の創作するものが、自分の中から自然に湧き出たり吐露できるものであればいいと思っています。モノ作りには自分への無意識な問いかけがあるのだろうとも思います。自分とは何か?自分が満足できるものとは何か?自分の生い立ち、環境、嗜好、癖など…。若い時は若いなりに多少カッコつけて理想的な自分像を追っていました。当時の作品は稚拙でカッコばかりで、もう見たくもない作品が沢山あります。哀しいかなその作品も当時の自分の造形なのです。今の作品だって数十年も経てば、どうなるかわかりません。モノ作りは言わば生涯学習であり、現状の作品のいたらなさを嘆いて、次の制作に賭ける動機になるものです。そんな自分のことを考える上で、自分は自分を取り巻く環境に思いをめぐらせます。いささか突飛な話ですが、自分はどんな血を受け継いでいるのかを考えることがあります。相原の実家は土着の家系で、先祖は貧しい小作人だったようです。昼夜を分たず働いて財を成したことで、村でも一目置かれる存在になれたと亡き祖父母が言っていました。労働の美徳。これが実家の家訓でした。先代は農家、祖祖父と祖父は大工の棟梁、父は造園業を営み、土地に根ざした職人として生計を立てていました。その身上を潰しそうなのが彫刻家である自分です。自分も土地に根ざす姿勢は変わりませんが、何を作るべきかは代々受け継がれてきた文化と呼ぶべきものがあれば、それをもう一度考える必要がありそうです。自分の中から必然として生まれる造形。これからも自分の足元を見ながら自分に問いかけをしていきたいと思います。

知的活動と手仕事

「キルヒナーは、1925年の自分の作品についての重要な自伝的省察において、『知的活動と手仕事の結びつきにおいて世界でもっとも美しくユニークな』芸術家という職業を彼が二元的に理解していることを明確に述べている。~略~」(「右手と頭脳」ペーター・シュプリンガー著 前川久美子訳 三元社)「右手と頭脳」という本のタイトルと、日本ではほとんど紹介されたことのないドイツ表現派の画家キルヒナーの考察に魅かれて、この本を購入しました。キルヒナーの代表作「兵士としての自画像」を窓口にして、創作活動における精神的構想または知的構想と、実践的な手仕事によるその実現を、さまざまな芸術家の作品を参照しながら述べているところに「右手と頭脳」というユニークなタイトルの所以があると思いました。「兵士としての自画像」に右手のないキルヒナーの自画像が描かれたことが契機になって、このような論証が成されているのです。簡単に言えば構想(頭脳)はアイデアで、手仕事(右手)はテクニックです。その頭脳と右手を結ぶ間に創作活動の真実が、あるいは浮かび上がるのかもしれません。大戦と大戦の間に生まれたドイツ美術のエポック。それが表現主義で、その代表とされる画家キルヒナーが、伝統的とも言える手の概念をこうしたカタチで示したことで、ヨーロッパ美術を広く思索することも楽しいと思えた一冊でした。

三連休 木彫柱の仕上げ

三連休の最終日です。8本の柱の仕上げ作業に明け暮れました。柱には木彫の荒彫りを施してあって、それらの彫り跡を整えていくのが仕上げ作業です。仕上げが終わった柱は下半分をバーナーで炙って炭化させます。炙り作業は次回になります。陶彫土台に柱が接着するところは柱が炭化している部分です。木が炭化している素材感と黒く焼き締めた陶の素材感の接合は、自分がとても気に入っているところでもあるのです。今日は気持ちが乗りました。三連休の最終日になって、ようやく調子が出てきたのですが、哀しいかな明日から公務員としての仕事が待っています。モチベーションを保っていくのも二束の草鞋を履く身のつらさです。また来週に持越しです。

三連休 墓参り&制作の日

三連休の中日です。横浜のほぼ中央に古くからある久保山墓地に家内と墓参りに行ってきました。ガソリンがないので、公共交通機関を使って半日かけて行きました。いつも自家用車で行くところを、自宅近くの停留所からJR保土ヶ谷駅までバスに乗り、そこから坂を上って久保山墓地へ。墓参りの後は相鉄線西横浜駅まで歩いて戻ってきました。震災の後、歩く機会が増えて歩くことが苦にならなくなりました。車で時間短縮するより歩いた方がいいと思うようになりました。自宅に帰ってから工房へ。木彫の柱の仕上げをやりました。昨日より今日の方が気分が晴れて気持ちよく仕事ができました。作業に気持ちが入って時間を忘れていく瞬間がやってきました。久しぶりに味わった心地よい瞬間でした。創作活動の醍醐味です。周囲が気にならず、あらゆることから解放されて、素材との対話が始まる何ともいえない瞬間です。これがなければモノ作りはやっていけません。明日も頑張ろうと思います。

三連休 遅々として進まぬ木彫

今日から三連休は制作三昧で過ごす予定です。ところが今日は木彫の柱の仕上げが遅々として進まず、調子が出ませんでした。ウィークディの公務が影響して、切り替えが出来ないためです。二束の草鞋を履いて、ずっと公務と創作活動を両立してやってきました。それも10年、20年という長い間に習慣として定着してきたのです。初めの頃は、仕事の切り替えが上手く出来ず、作品に着手しても進まないことがありました。そのうち切り替えがスムーズに出来るようになり、2つの仕事を行き来することが容易になりました。ところが今になって年度末の仕事が気にかかり、なかなか創作活動に入っていけない状態です。管理職としてきちんとやるべきことが出来ていなかったり、責任ある仕事に不安を覚えることがあって、緊張する日々を送っているせいかもしれません。自分の中で仕事を抱え込みすぎていると感じることがあります。処理能力が問われる毎日です。やっと三連休で制作に入ろうとしても、久しぶりに切り替えが出来ないのは、こんな原因によるものだと認識しています。これも自分の中で公務のレベルアップがあったればこその悩みです。そのうち切り替えは出来るようになると信じています。夏の個展に向けて、時間は待ってくれません。

無作為を装う美

人の手業によることを感じさせず、あたかも自然が作り出したような造形。陶芸作品によく見られる傾向で、釉薬の流れや成形の歪みが珍重されたりします。人為を隠した美は、隠すことも計算に入れて「作りこまない」技巧を追求しているように思えます。「作りこまない」というのは、「作れない」というものではありません。技巧が稚拙であれば「作りこまない」まで到達できない、つまり完全に「作れる」技巧を持って、初めて「作りこまない」技巧が生まれると考えます。「すべて作りこんだ」ものには説明的要素が入ってしまって、鑑賞する側のイメージを掻きたてないように思えます。鑑賞する側が、その作品についてその人なりのイメージが持てること、非対象な造形に自己の感覚を投影し、自分なりの解釈を成立させられるもの、そんな作品が昔から日本人の心を捉えてきたのではないかと推察しています。自分の作品に置き換えて考えることは現状では難しいのですが、そんな美の在り方について頭に片隅に入れておきたいと思うのです。

「シュルレアリスムと絵画」から抄

「私が考えるに、これからも長いあいだ人間たちは、存在する事物も存在しない事物もおなじ光のなかに、おなじ幻覚の光のなかにひたしながら、自分の眼から流れる魔術的な河を、その真の源泉にまでさかのぼる必要を感じつづけるだろう。心をかきみだすその発見が何に由来するのかはかならずしもはっきりわからないままに、彼らはそうした源泉のひとつを、どんな山頂よりも高いところに見さだめるだろう。彼らのまだ知らないもの、これから愛するようになるものの魅惑的な靄が凝結する場所、そんな領域が、一閃の電光のなかに立ちあらわれるだろう。たぶんそのときになっても、彼らはあいかわらず、みすぼらしい勘定台をそこに据えつけたり、繁殖をつづけたり、殺しあったり、略奪をすませてから陸にもどることしか欲しなかったりするのかもしれない!そのとき、世界に依然としてのこり、虚空と暗闇の無秩序をつらぬいてなおありつづけるものが、もしも完全な解決の単なる片鱗、理想的な一点回帰の単なる痕跡、いまの生活とかけはなれた時期に私たちに差しだされ認められることをたしかにもとめていたすべてのものの単なる名残にすぎなかったとしても、それらはぜひとも二、三十枚のタブローとしてとどまっていてほしい、と私は心から願うものである。~略~」(「シュルレアリスムと絵画」アンドレ・ブルトン著 巌谷國士訳 人文書院)いささか長い引用になってしまいましたが、やっとA・ブルトンの「シュルレアリスムと絵画」を読み始めました。読み始めのシュルレアリスムに導入する部分で感銘した文章を載せました。全編にわたって詩句が散りばめられたような文体で綴られています。少しずつ確かめつつ読んでいきたいと思います。

震災報道の影響

テレビをつければ震災の情報ばかり。東日本大震災の傷跡の大きさが改めてわかります。ただ情報を正視するあまり、こちらの心理状態にも微妙な変化が起こりつつあります。マイナス思考になって何もかも生気を失う嫌いがあるのではないかという心配です。職場でも節電を呼びかけ、残業はしないという状態が続いています。こちらの被害は最小限だったと言うのに、もっと明るい話題はないのかと思います。地上波ではないテレビ番組で、美術の名画を取り上げている時間帯があって、何気なく見ていた自分はホッとしました。自分の心の拠り所は、やはり美術です。今後も美術を元気のでる源としていこうと思います。これは現実逃避とは思いません。情報は情報としてしっかり正視し、自分に出来ることはしていく所存ですが、その情報に絡み取られたくないと思っているのです。そろそろブログの内容も美術的な事柄にしていこうと思っています。

地震の揺れに不安残す

今晩は静岡県で震度6の揺れがあり、横浜でも4ぐらいの揺れを感じました。数日前に起こった福島県の原子力発電所の震災による影響といい、日々の生活に不安を残しています。計画停電も行われているようですが、第2グループに所属しているこちらでは、まだ停電がありません。午後横浜の一部で計画停電が行われたことを聞き、こちらでも準備をしていました。停電になったら、こうしようと家族で取り決めをしていたのですが、今晩こちらの地域では停電はなさそうです。職場でも残業をせず、17時には仕事をあげることを確認し合いました。明日も緊急事態に備えた勤務体制になり、自宅でも停電等に備えたいと思います。

交通混乱の中での出勤

JR線等公共交通の運休、計画停電の情報が、昨晩遅い時間帯でテレビやインターネットに流れました。家内がチェックしてくれたおかげで、今朝は通常通りの通勤になりました。それでも私鉄の運行時間が変わり、混雑は免れませんでした。職員の中にも交通機関の混雑で出勤が遅れた者もいました。計画停電は覚悟していたのですが、結局は回避されて、現状では停電はありません。大震災の影響はあちらこちらに見られます。自分は自動車通勤ではないので、ガソリンのことはあまり気にかけていませんでしたが、職員の中には給油を気にかける者もいました。都市機能が麻痺することは、こういうことかと改めて思いました。帰宅してみると、家内がスーパーマーケットに品物がなくなっていたと言っていました。昨日も少なくなっていたと思いましたが、生活必需品の購入に拍車がかかっていたようです。自分は明日も平常どおりの出勤です。

週末 小さな四角錘の仕上げ

昨日に引き続き工房で制作です。ラジオのスイッチを入れ、「FMヨコハマ」から流れる震災情報を聴きつつ、陶彫部品の仕上げを行いました。今日は比較的小さな四角錘5点の仕上げと化粧掛けを行いました。何日か前から悩んでいる花粉症対策として薬を飲むことにしました。震災の実体が明らかになるほど、その悲惨さが伝わりました。こちらは何かが出来る術もなく、ただ情報を聴いて、出来ることなら何かで協力をしたいと思うばかりです。スーパーマーケットには水やパン等の食料品がなくなっていました。初めてのことばかりです。昨日ガソリンスタンドに長蛇の列を作っていた車がありましたが、今日はスタンドの店員が出て給油が出来ないことを伝えていました。震災の影響はいろいろなところに現れています。多少の不自由さを我慢していくことが協力することかなと思いつつ、今日一日を工房で過ごしていました。

週末 震災情報を聴きながら…

週末は朝から工房で制作をしています。いつもと違うのは、昨日発生した東日本方面の大震災に関する情報をラジオで聴きながら制作をしていたことです。横浜は直接的な被災は僅かでした。でも昨日職場で経験した揺れの大きさは、今までなかったほどの規模で、家族の安否を気遣いながら帰宅しました。突然風景が変わってしまう恐ろしさを改めて実感しました。幸い自宅周辺はいつもと変わらぬ風景があって、内心胸を撫で下ろしたものの、被災に会われた方々のことを思うと、何か自分に出来ることはないか考えてしまいます。今は電力や水で無駄を出さないように努めるしか思い浮かびませんが、自分でも助けられることがあれば協力したいと思います。話は変わって、工房内は今日も花粉が飛び交い、マスクをしていても儘ならず作業に影響しました。木彫した柱と陶彫土台の接合のためドリルで穴あけを行いましたが、手許に気持ちを何とか集中させて行いました。明日も花粉症と闘いながら作業続行です。

地震がありました。

ついにきたかと瞬時に思いました。職場で書類を作っていたのが午後3時近くでした。微妙な揺れがあったかと思ったら、大きく揺れだし、しばらく揺れが止まりませんでした。緊急放送のあと一時避難したら、また揺れがきました。揺れが落ち着いてから施設を点検し、5時過ぎに職場を出ました。電車が止まっているので歩いて自宅まで行こうとしたところに、職員の一人が家の近くまで車で送りましょうと声をかけてくれました。国道は歩いて帰宅する人であふれていました。災害は突如やってくるもので、そんなイメージは出来ていました。職場での対応は想定内でした。家族の安否をメールで確認して帰宅、すぐ工房にも出かけました。棚に並んだ数多くの「球体都市」がどうなっているのか心配でした。ところが工房は何の変化もなく、ホッと胸を撫で下ろしました。テレビやネットの情報では日本各地で被害が出ているようです。次第に明らかになっていくこともあるでしょうが、地震が過ぎ去った後、職場でも身の回りでも安全確保のために検証すべきことはあるだろうと思います。

「右手と頭脳」の読後感

ドイツ表現主義の代表格とされる画家エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー。数少ないドイツ表現主義関連の翻訳本の中で、この「右手と頭脳」(ペーター・シュプリンガー著 前川久美子訳 三元社)にめぐり合えたのは幸いでした。かつてのブログに書いたように、キルヒナーに関する書籍は滞欧時代に購入しているものの、ドイツ語を読み解く気にならず、表現主義の時代を想像するに留まっていましたが、キルヒナーの代表作「兵士としての自画像」を中心にした論評を読んで、キルヒナーの人生や彼が生きた時代背景がよくわかりました。「兵士としての自画像」には画家としての致命傷とも言うべき右手を失った自画像が描かれています。背後に裸婦の絵があって、そのイメージの謎解きに引き込まれました。実際にキルヒナーは右手を失ったわけではなく、画家としての生命を絶たれた暗喩として描いています。では背後の裸婦像は何か。志願兵として軍服を着たものの兵役に合わなかったキルヒナーが、そこから逃れるために敢えて自分を衰弱させ、軍医に掛け合って休暇をもらったりしていたことがあり、「キルヒナーは、自分がもっとも劣った兵士よりも軍隊の役に立たず、部外者であるという屈辱的体験を、社会が娼婦に向けた軽蔑と同一視している。~略~」という一文が示す通り、裸婦(娼婦)という考えが、この「兵士としての自画像」の構成要素にあるのではないかと本書では推論しています。また機会を改めます。

大きなイベントの日

極端なことを言えば、職場として年間を通して一番大きな出来事と言ってよいイベントが今日ありました。それは職員全員の協力体制が問われる対外的なイベントで、昨日までの準備に余念がなかったと自負しています。結果は胸をはって成功と呼べるものになりました。通常は専門部署で働いている職員が、何かを通して一致団結する機会は必要だと思います。こうしたものがないと職場の連帯感は強くならないし、お互いを認め合う関係が培われません。自分も微力ながら裏方としてイベントを支えました。何もしていなかったように感じても今日は疲れました。気忙しい時間帯があったことと、人の動きが気になったこと等々さまざまな要因が重なって疲れたのだと思います。職場では創作活動の片鱗さえ入り込む余地がなく、頭脳も気分も彫刻家としての自分とはまるで違う存在になっているのです。それは素の自分ではなく、職場で与えられている役割を演じていると言っても過言ではありません。このNOTE(ブログ)を日記として扱っていることもあって、今日はこんな話題になってしまいました。

RECORD3月のテーマ

今年は幾何学的構成のRECORDを作り続けています。たかが一日1点、されど一日1点。時間確保やその日のコンディションによっても厳しいと感じる時があります。何もない白い画面を見ていても、なかなか始められない時があって、テーマを予め決めておいたほうがイメージが捉えやすいと今は考えます。1年間くらい旅をして、その時その時の印象や思索を葉書大の画面に描き留められたらいいなぁと思うことがあり、いつかはそんなRECORDもやってみたいと思うこの頃です。今はそんな猶予はありません。今月は細めの縦縞に造形要素を盛り込んでいます。5ミリ幅のストライプは、それだけで美しいと感じます。そのストライプの印象を壊さない程度の造形を試しています。今月はそんな微妙な構成を楽しんでいきたいと思います。

09RECORD7月・8月アップ

先日ホームページにアップした5月・6月に続き、今回は7月・8月をアップしました。相変わらず現在も一日1点ずつ葉書大の厚紙にイメージを描き続けているRECORDですが、過去を振り返ると、2009年にはこんなテーマでやっていたのかと改めて思い出します。まさにRECORD(記録)です。今年のテーマが2009年に似ています。幾何学的抽象を基盤にした造形を今年もやっているのです。昨年は描写をやりたくなって陰影をつけた形態を描き出しました。平面構成と具象傾向が、ちょうど振り子のように隔年で行ったりきたりしていますが、意図的に両極端の表現を交互にやって、スパイラルとして展開できればいいと考えています。意図的と前述しましたが、気分的にも表現を変えていきたいと思ったのです。1年間1点ずつ作って365点を1セットにすることは自分に手枷足枷をつけているようなものです。期間を設けずに好き勝手にやりたい欲求もありますが、現在はこれが一番自分に合っていると考えているのです。7月・8月のRECORDは、この文章の最後にあるアドレスをクリックすれば自分のホームページに入れますので、そこのRECORDの部分をクリックしていただければ見ることができます。ご高覧いただければ幸いです。Yutaka Aihara.com