「論理学の心理学主義と論理学の超越論的基礎づけ」第55節~第56節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。今日から本論の第二篇「形式論理学から超越論的論理学」に入ります。この第二篇が本書全体のタイトルになっているので、ここからが本書の主訴になるのではないかと推察いたします。その第1章「論理学の心理学主義と論理学の超越論的基礎づけ」の中の第55節から第56節までのまとめを行います。第二篇の冒頭で「第一篇ではアリストテレスの分析論によって呈示された伝統的な形式論理学の意味を解説した。」とあって、その振り返りが書かれていましたが、それで充足したのかどうかを問う場面がありました。「われわれが分析的アプリオリという概念を、十分に広く理解した純粋な形式的分析論によって規定する場合に問題になるのは、新しい《総合的》アプリオリ、もっと適切に言えば《核をもつ》具象的なアプリオリであり、さらに詳しく言えば〈具象的ーアプリオリ的な特殊分野のすべてを一つの全体へ統合する、そのような性質の普遍的なアプリオリ〉である。」次の節では論理学的形成物についての主観的考察はどれも心理学主義だとする非難について書かれていました。「当時優勢になった経験主義は(その歴史的由来からして反プラトン主義であったが)あらゆるイデア的形成物に固有の客観性に対しては盲目であった。そのため経験主義はそれら形成物をあらゆる場面で心理学主義的に歪曲して、それらはそのつどの心的諸作用の顕在性と習慣性に起因するとしていた。そのため〈陳述命題、判断、真理、推論、論証、理論および、それらの内部で形式化されて登場する範疇的な対象性など、論理学の主題的分野を形成し、しかもそれら自身の意味からして非実在的な各種の対象性〉までも、心理学的に扱われることになる。」それに対してさまざまな考察を加えた上で「〈ただひたすら論理学固有の主題分野だけを目指して、論理学的な認識だけしか行なえないような論理学〉は一種の素朴さをいつまでも抜け出せずにいるため、論理学自身を根本的に理解して原理的に正当化する哲学的な特権が、換言すれば、最も完全な学問的特性の特権が封じ込められたままになる。しかるにこの特権を実現するためにこそ哲学が、とりわけ学問論としての哲学が現存するのである。」とありました。今日はここまでにします。

関連する投稿

  • 「中空の彫刻」読後感 「中空の彫刻」(廣田治子著 […]
  • 「《逸楽の家》」について 「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第6章 タヒチからマルケーサスへ(1895~1903年)」の「3 […]
  • 「結語」について 「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「結語」の「1 木彫と陶器」「2 親密な環境における彫刻」「3 […]
  • 「状況-思考の神秘的内部を表すこと」について 「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第6章 タヒチからマルケーサスへ(1895~1903年)」の「1 […]
  • 「文化的総合」について 「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第6章 タヒチからマルケーサスへ(1895~1903年)」の「2 […]

Comments are closed.