「ヴィクトリア朝の映像」について
2020年 1月 9日 木曜日
「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第3章の1「ヴィクトリア朝の映像」についてのまとめを行います。副題として「ポルノグラフィー&フォトグラフィー」とあって、近代になって性文化に関する媒体の時代変遷があり、小説や写真術が齎せた影響などが述べられています。「ポルノグラフィーは17世紀におこり、19世紀に隆盛を見る。その歴史的現象は、巨大な近代産業社会を作り上げた過程と切り離すことができない。そして何よりも小説の普及と深く結びついている筈である。特に19世紀に入って読書という私的で孤独な経験が増加するにつれて、小説という表現形態が大きく普及していくが、それは都市社会の落とし子であり、中産階級社会のニーズの証であった。そうした私的経験の可能性の増大するにつれて、性に対する意識もまた大きく変化していく。しかも資本主義社会はそうした性の意識の目覚めを圧迫し、私的な性生活を分離し隠ぺいしようとし、公的文化が健全であるべき性の重要性を過小評価しようとすればするほどポルノグラフィーはセクシュアリティの重要性を強調し、またつぶやきながら夥しい生産をつづけていくことになったのである。」現代にも通じる性文化の媒体に関する内容があって、私はその変遷に興味を持ちました。最後にポルノグラフィーとは何か、著者の考えを述べた箇所を引用いたします。「ポルノグラフィーは、いわば死と抑圧の所産である。それは永生不死を求めた煉丹術や錬金術に通底する。錬金術では死は存在物が解体して、母の胎内に帰ることだと考え、それによって新しい生命がよみがえるという死と再生の観念に貫かれている。そして仙界を探訪する男性のポルノグラフィックな解説は、子宮という仙界に死んで新生児を誕生させることであり、暗闇の世界において陽転するのは、光を暗箱にとじこめることによって映像を作りだすフォトグラフィーの考え方とも共通している。」