「映像に見るヒューマニズムの変貌」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第3章の2「映像に見るヒューマニズムの変貌」についてのまとめを行います。この章ではフォト・ジャーナリズムについての考察が述べられていて、報道写真が多くの人に与えた影響も窺い知ることが出来ました。私も時折、写真展に出かけることがあり、そこで切り取られた瞬間の映像化に感銘を受けることもありました。ニューヨーク近代美術館で開催された「人間家族」展は、私が生まれた年に日本にも巡回してきたらしく、人種や国境を超えて人類が一つの家族になって絆を深めていこうとする企画は、後世に語り継がれていった展覧会だったようです。その源泉ともなった技法に関して述べられた文章がありました。「ルポルタージュと呼ばれるものが、表現効果をねらうあまりに写真を単なる素材として技術的に処理してしまう傾向が強く見られたのに対して、(ドキュメンタリー・フォトは)映像の独自の表現力をより尊重しながら、事件の原因を追究し、テーマを深めていく方向を打ち出そうとしたのである。~略~写真を組み合わせたピクチュア・ストーリーは、分かり易い的確なメッセージを伝えるという利点があり、映像の事実らしさと具体性は、言語の抽象性にまして数倍の説得力をもち、国境をこえた共通の言語となり得る点が高く評価されたのである。」さらに現代に至っては事件の目撃というリアリズムに対する別の視点が設けられることになります。「フォト・ジャーナリズムは、今まで知られることなく認められることもなかったものを探り出し、それらに価値と栄光を与え、逆に奢れるものに対しては自ら善意の告発者となろうとしてきた。そしてかつては言語が負っていた役割の一部を引き受けて、更に言語が語りえなかった雄弁術を開発してきたが、その最大の原因は忠実な目撃者としての確からしさへの信頼をかちとったことであった。しかし映像言語が自立の道を模索するとき、次第にリアリズムを離れ、確からしさを裏切る。その過程をいち早く知って論じたのはモホリ=ナギであっただろう。」

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