「エコール・ド・パリ」の芸術家たち
2019年 7月 3日 水曜日
「エコール・ド・パリ」とは、20世紀初頭にフランスの首都パリに集った異邦人芸術家たちのことを指しています。先日、東京都庭園美術館に「キスリング展」を見に行った折、「エコール・ド・パリ」の芸術家たちに興味が湧きました。当時のパリは芸術の中心であり、芸術家にとっては憧れの都市でした。ポーランドからやってきたキスリングもその一人で、パリの華やかさを体感しながら、彼は民族に纏わる事情も抱えていたことが図録で分かりました。図録から引用します。「ユダヤの血を引く者たちにとって、第一次世界大戦前から第二次世界大戦へと続く厳しい迫害の時代は、ルーツへの思いの深さとは裏腹に否定せざるを得ないという、辛い相克に苛まれた受難の世紀であった。モディリアーニやパスキンらと同じくユダヤの家系に、ポーランドの古都クラクフで生まれたキスリングの人生を振り返ってみると、そこには時代の折々にユダヤの血への葛藤に揺れ動いた心情が吐露されている。~略~このような時代状況のもと、キスリングは早い時期からユダヤ的なものから自己を切り離して、フランスに同化しようとしている。1910年代からキスリングは『モイーズ』というユダヤの偉大な指導者モーゼを想起させる名前を使うことを好まず、終生、絵のサインには姓のキスリングだけを使っていた。」(村上哲著)フランスへの同化、それは戦意高揚のための戦争画を描いた藤田嗣治にも言えることで、日本画壇の暴挙に嫌気の指した藤田は、レオナール・フジタとしてフランスに帰化してしまいます。いろいろな場面で「エコール・ド・パリ」の芸術家たちは祖国や民族が抱える諸問題も抱えていたと言えます。ただし芸術は、国籍や民族を超えて、美の価値観を共有する人々に認められることが証明されていて、私は芸術の素晴らしさを感じざるを得ません。