西洋の没落「音楽と彫塑と」そのⅡ

表題の本書の持つ難解な論理に慣れてきたとは言え、いまだ理解に苦しむ箇所も多々あります。朝の通勤時は比較的頭に入り、夜の帰宅時はボンヤリと目で文面を追うだけになってしまいます。「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)の「そのⅡ」としたところは「裸体と肖像と」という単元です。裸体と肖像の関係を述べている箇所を選び出します。「アポルロン的な人間理想とファウスト的な人間理想との対立を要約しよう。裸体と肖像との関係は、体躯と空間、瞬間と歴史、前景と背景、エウクレイデス的な数と解析的な数、量と関係との関係と同じである。彫像は地のなかに根をおろし、音楽はーそして西洋の肖像は音楽であり、色調から編み出された魂である。ー無限界の空間に浸透する。フレスコ画は壁に結びついて、これに癒着している。油絵は額面画であって、場所の制約を受けない。アポルロン的な形態語はただ成ったものだけを現わし、ファウスト的な形態語は、とくに成ることさえも現わしている。」さらにこの単元ではルネサンス芸術についても言及しています。「これら偉大な三人はそれぞれのやり方で、それぞれ特有な悲劇的な彷徨のなかに、メディチ的な意味においてギリシャ・ローマ的であろうと企て、そうしてそれぞれ異なった面で、夢を壊したのである。すなわちラファエルロは大きな線を、レオナルドは表面を、ミケランジェロは体躯をこわしたのである。彼らにあっては魂が迷ったあげく、自己のファウスト的な出発点に戻っている。」ここで自分が気に留めた箇所を抜き出します。それはミケランジェロの彫像に関する文面です。「ミケランジェロが大理石の租塊に手をつける熱情的な方法はみな知っている。彼は石に近づくのに、彫ろうと欲した像のあらゆる面から近づくのではない。ミケランジェロは空間のなかに彫りこむように、石のなかに彫りこんでいった。そうして正面から始めて、層一層と石塊から材料を取り除きながら、奥深く彫り進んでいって一つの姿を作り上げた。一方、四肢はゆっくりと魂のなかから現れてきた。人は生き生きとしている形を通して、成ったもの、すなわち死を捕えようとする。その成ったものに対する世界の怖れが、これよりもはっきりと表現され得たことはなかった。死の象徴としての石に対し、そのなかにある敵意のある原理に対して、これほどまで内的で、同時にまたこれほどまで強制的な関係を持っていた西洋の芸術家はミケランジェロ以外にはない。」

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