哲学から見た正義とは何か
2014年 2月 12日 水曜日
「自発的な正義は『個体化の原理』をある程度まで突き破って見ているところにそのもっとも内的な根源があるが、しかるにこれに反し、不正な人間は『個体化の原理』にあくまでとらわれている。われわれの発見したことはこのことであった。『個体化の原理』を突き破って見ることは、それに必要な程度に行なわれるだけではなしに、さらに高度に行われて、積極的な好意や慈善へ、また人類愛へと人を駆り立てずにはおかない。個人に現われる意志がそのものとしていかに強力で、いかに精力的であろうとも、このような好意、慈善、愛は起こり得るのである。つねに認識がこういう強力な意志と釣合いを保っていて、不正への誘惑に抵抗することを認識が教えてくれるので、いかなる程度の善ですら、いな、いかなる程度の諦念ですら認識は生み出す力を持っているといえよう。したがって善人が悪人よりも根源的に弱い意志現象であるとみなすべきものではけっしてなく、善人にあっては、盲目的な意志の衝動を抑制してくれるのは、認識に他ならない。なるほど世の中には、自分のうちに現象している意志が弱いためにただ善良らしく見えるにすぎないような人々がいる。しかしこういう人々は、正しい善い行為を実行するに足るだけの十分な自己克服の能力をもっていないことでたちまち正体を暴露してしまうのである。」引用が長くなりましたが「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)にあった正義に関する箇所です。文面の前後を読まないと理解が難しいところもありますが、好意や慈愛における認識について洞察しています。
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Tags: ドイツ, 書籍
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