「命題論的分析論としての形式論理学」第16~17節について

昨日に引き続き「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があり、その中の第1章として「命題論的分析論としての形式論理学」が掲げられています。そのうちの第16~17節について、何とか読み砕いていますが、毎回のこととは言え、難解な文章とその意味合いに立ち往生してしまい、これをどうまとめてよいやら分からず、今回も気になった箇所の引用で済ませます。命題論に関する諸区別について、区別に該当する明証の違いを考察していて、一つの判断が各主観ごとに異なる仕方で与えられていても、同じ判断として明証的な所与であることが述べられていました。「混乱した思念が《判明になる》ことで初めて《実際に判断され》、そして先ほどはただたんに予想されていたにすぎないあの判断が実際に、しかもそれ自身が与えられているのだ、と言う。~略~意味の側面では、表示される諸形象すなわち諸判断自身が、表示する諸志向が継続して充実される《明証》の中で、したがってそれと同時に根源的な能動性の中で形成される本来の諸判断として成立することもあり、もしくは受動的な読書の場合のように、判断が空虚に表示されることもありうる。」次に判明性と明確性について述べられていました。「ここでは二種類の明証性が区別され、その一つは判断自身がまさに判断として与えられる場合の明証性であり、この場合の判断は判明な判断であり、実際に正確に判断して得られる判断だとされる。二番目は、判断者が自分自身の判断を《通して》希求する事項そのものが与えられる場合の明証性であり、このような判断者こそー論理学がつねに想定しているー認識の希求者である。」次の章では論理学そのものを論じている箇所があったので、引用いたします。「そもそも論理学全体がアプリオリ(先天的概念)な学問であるのと同様、単純な分析論も実際の諸判断を、すなわち或るとき、或る場所で実際に下された諸判断を問題にするのではなく、アプリオリな諸可能性を、すなわち該当するすべての現実を分かりやすい意味で包摂する諸可能性を問題にするのである。」

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