「第6章 帰国」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第6章 帰国」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。「レオニーとアイレスは横浜港を1920年1月25日に中国郵船会社の南京号で出港し、2月11日にサンフランシスコに到着した。」東京や神奈川で過ごした日本に別れを告げ、母子はアメリカに帰りました。イサムは先にアメリカにいて、当時を振り返ってこんな文章を書いています。「この頃母はどうにかしてアメリカに戻ってきた。サンフランシスコに着き、間もなくニューヨークに到着した。母は多色刷りの版画や真珠、そのほか細々した物など、日本の物品を専門に輸入しようと考えていた。彼女はニューヨークのイースト10丁目にアパートを借り、私はそこに一緒に住んだ。~略~この頃私はまだイサム・ギルモアという名前で通っていて、完全にアメリカ人として順応していた。私には全く日本を醸し出すものはなかった。しかし自分が彫刻家であることを意識し始めると、私は心ならずも自分の名前を変えた。自分にはおそらく名乗る権利のない名前を名乗ったのだ。母は狼狽したが、反対はしなかった。そうしてむしろ私が母を離れ、日本を苦しみの中で選ぶのを黙認したのだった。」レオニーはイサムに芸術家としての人生を歩ませるために学校を探してきました。「イサムを芸術的運命へと引き戻すための最初のステップは、彼をアートスクールに入れることだった。1924年、レオニーはイサムが興味を持ちそうなアートスクールの噂を聞いた。前年12月に開校したばかりの、レオナルド・ダ・ヴィンチ・アートスクールである。~略~1924年にイサムは尊敬すべきオノリオ・ルオトロの下で学び始めたが、すぐにルオトロの推薦で、地域の芸術家グループの会員にもなっている。イサムの初期の肖像彫刻は主として友人のものであり、ラムリー博士は義父である故エメット・スコットの胸像を注文してくれた。ニューヨークに来て以来、イサムは父親の日本人の友人二人ー舞踏家の伊藤道郎と細菌学者の野口英世ー庇護の下にあったが、両者ともに、医学の道は捨てて、芸術家になれと励ましてくれた。」イサムは1927年に奨学金を得てパリに旅立っています。その後のイサム・ノグチの活躍はよく知られていますが、レオニーとイサムは手紙のやり取りをしていて相手を気遣う様子が伺い知れます。「イサムが12月17日(1933年)ニューヨークに戻ったときには、レオニーはすでに1週間近く入院していた。実は、かなり長い間レオニーの健康はすぐれなかった。心臓に問題があったのだが、動脈硬化がそれを悪化させていた。クリスマスが近づき、過ぎてしまっても、病状は回復しなかった。そして12月31日夕方6時30分に心臓発作を起こして、亡くなった。」レオニー逝去をもって第6章はここまでにいたします。

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