「アフタヌーン・インタヴューズ」読後感

「アフタヌーン・インタヴューズ」(マルセル・デュシャン カルヴィン・トムキンズ聞き手 中野勉訳 河出書房新社)を読み終えました。インタヴューを受けたマルセル・デュシャンという人はどんな人物だったのか、最後に語られている箇所に私は注目しました。「法則っていう言葉がわたしの信条に反しているんです。少なくとも、それを法則と呼ぶ必要はないと思う。まるで動かしがたいものであるみたいに。わたしにしたら、因果律という概念は、わたしにとってはたいへんうさんくさい。疑わしい性格がある。生きることを可能にする便利な形式です。それと、因果律から出てくる、ああいった宗教的概念のいっさいー神が最初にすべてをやったんだというアイデア、あれも因果律の幻影のひとつです。」物理や化学の法則を拡大解釈することについて、こんなことも言っています。「そう。ああいう法則を拡大解釈する、もっと伸縮性のあるものに変える、そういうことができれば、もっとゲームの要素が多くなる、もっと生きるに値するようになる、という発想でね。」M・デュシャン自身のアイデアについて述べた箇所にも注目しました。「わたしが思いつくモノはどれも、四次元的な外観を与えられるべきだ、というアイデアなんです。そうやって、何かしら別の側面というのが見えるようになってきて、その側面は、そのモノが持っている、何だか知らないがとにかく何かしらの重要性とか、そのモノがつくりだしてるデザインとかとは正反対だ、てなことになるかもしれない。そしたら、また別の感覚器官でもってそいつを見てやろうとするかもしれんでしょ、ね?わたしの人生はずっとそんなふうだった。~略~わたしはアートってものを信じない。アーティストってものを信じてます。」最後に本書の訳者である中野勉氏の言葉を引用いたします。「本書の随所で語られる、近代絵画における視覚中心主義(『網膜』性)の否定、それと対を成す知性主義の希求、アートにおける市場原理の席巻に対する批判、怠惰の肯定、速度偏重の拒絶、アーティストの(非)主体性の強調といった主張の数々、これらは他の談話や著作の中でもいくどとなく繰り返されているものだけれども、それを彼の実践と突き合わせてみる。すると、どうにも解消不可能な矛盾に出会ってしまう場合が多々出てくるのである。」それもこれも一切含めてマルセル・デュシャンそのものなのだろうと私は思うようにしました。

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