存在を消去する彫刻

先日、夢の中でイエス・キリストの磔刑像が現われたという文章をNOTE(ブログ)に書きました。学生時代に人体塑造を作っていた私が、現在は象徴化された風景を切り取ったような陶彫作品を作るようになっています。人体塑造から離れてかなりの月日が流れていますが、私の中で人体塑造に対する思いがどこかにあって、それがイエス・キリストの磔刑像に繋がっているのではないかと思い至りました。イエス・キリストの磔刑像の様相は、宗教において人間の罪を背負って十字架に磔られた姿が、やがて復活し、人々の罪が神によって許される教えを示したものですが、宗教性のない私は、単純に朽ち果てていく人体像を表現したものだという認識があります。この存在していたものが無くなっていく過程が、私には印象強く残ってしまっているのです。決して不在ではなく、嘗て存在していたものが徐々に無くなっていく過程、そこにあったものが時間をかけて腐り朽ち果てていくことが、一層空間におけるそのものの存在を示しているように思えるのです。さらに、もう一度夢を見る機会があって、それはどこまでも続く壁に沿って歩いている人体が見えました。その先にもう一人の人が歩いているのですが、その人の量感が無くなっていて、さらにその先を歩いている人は、ほとんど骸骨であり、さらに先の人は身体の部分でしかカタチを保っていない状態でした。磔刑像の時に感じた具象彫刻への思いとは少し違う夢に、目覚めた時はこれは具象とか抽象とかのことではなく、存在そのものが自分の中で何かを問いかけているように感じました。精神分析の創始者であるフロイトが言うように夢は欲望充足であるならば、存在を消去する彫刻が私の思索の中で始まりつつあるのかもしれません。

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