往復書簡の中のコトバ

「今日の世界各地の青年層の彫刻が、在来のモチーヴを拒否し、素材を鉄骨や屑物や、極めて広汎に自由に駆使する面白さもある点まで解る。翻って、裸婦や人物像が今迄通りに繰り返へされてゐては、鼻むけもならぬ気持も解る。中世を求め、推古白鳳に漸く足がかりを見出そうする僕等の世界からは、何といふ大胆さと自由さであらう。~略~素描の自由さと量感の豊満さは、彫刻の限られた技法の制約により解放されてゐるのは、一層喜びである。望んでゐまいが、作品の中で、僕は、或は城壁を見、聖堂の壁面を見、ウッチェロの『戦争』を思い出させ、何か君(春彦氏)の滞在の見学が、かうした形で昇華するのかと頼もしくなる。非象の中の具象…妙な言葉だが、僕にはその道は、人類の過去の芸術行程と握手する新しい行き方だと見てゐる。」(1962年10月23日 保田龍門)とあるのは現在読んでいる「保田龍門・保田春彦 往復書簡1958ー1965」(武蔵野美術大学出版局)の中のコトバです。本書は彫刻家親子のそれぞれの環境や思索をやりとりした書簡であって、具象彫刻を全うする父から、抽象彫刻で活躍を始めた子への愛情溢れる批評とも感じられます。1960年代の彫刻の動向を世界規模で語る龍門氏のコトバに、自分は感銘を受けました。同業である父のコトバは、自分には雲上の羨望でもあり、また父の掌中で苦闘する春彦氏の並々ならぬ事情が飲み込めてきたように思えます。

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