「能動的認識行為の現象学」②

「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)の第一章「能動的認識行為の現象学」では、「明証」についての考察があります。フッサールは「明証」に指標を与えることを批判しています。論理としては昨日の続きとなりますが、「何をもって明証とするのか、また、その構造や権限、機能をどうとらえるかについてはさまざまな可能性があり、フッサール自身の考えにも時期による変化がある。」と述べられていて、フッサールの大著「イデーン」の中で、明証の指標説を批判する理論を展開しています。「『イデーン』においてフッサールが批判するのは明証の『指標説』だ。指標説とは、明証的所与を真理の反映とみなし、明証を真理の『基準』とみなす考え方である。~略~フッサールによると指標説は誤りである。第一に、明証的所与が前後の体験と独立に成立することはありえない。第二に、何かが明証的に与えられたからといって、それが最終決定的に真となるわけではない。」とありました。次に、フッサールの著した「論理学研究」から引用された「意味志向(意義付与作用)と「意味充実(意義充実作用)という語彙を用いて「直観」についての説明がありました。「単に対象が与えられるだけではなく、意味志向が描いていたのと同じ仕方でそのものが与えられ、意味志向が『充実』されるのが『直観』である。~略~直観は決して、単純に何かを『見ること』『受け入れること』ではない。命題形式や論理形式にしたがう思考を『論理的思考』というが、直観は通常、論理的思考と対比され、論理的思考が複雑な構造をもつのに対して、直観は単純なものとされる。~略~ところがフッサールの考えでは、直観的に与えられるもの(充実する意味)と非直観的表象(志向された意味)は、内容や構成に関しては同一で、違うのは与えられ方だけだ。」とありました。そこにモノがあるという認識について「明証」や「直観」について考察を進めていくフッサールの現象学では、聞き慣れない語彙が多用されていますが、よくよく読み解けば、私たちが日頃知覚しているあらゆることに目を向けて、その存在を疑い、そこに真理を見ようとしていることが分かります。今日はここまでにしたいと思います。

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