「意味論としての命題論と真理の論理学」第47節~第48節について
2020年 12月 24日 木曜日
形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、今日から第5章「意味論としての命題論と真理の論理学」に入ります。今日はその第47節から第48節までのまとめを行います。まず、命題論的見方の派生についての論考で気になった箇所を引用いたします。「論理学にとって判断の領野は純粋にそれだけが分離して、何よりもまず独自の主題的分野にならねばならなかった。~略~諸学における述定判断の優位についてわれわれがあらかじめ行なった考察によって、おそらくよく理解されたのは、形式論理学は命題論的論理学として構成されていたこと、したがって述定判断がこの論理学の主題的な主要概念であったことであろう。」次に各意味についての見方について論考された箇所を引用いたします。「意味の解明は明証的でありうるが、しかしそうである必要はなく、間違うこともありうる。そこで意味と呼ばれている諸対象が、実は単純な諸対象とは別のものだとすれば、このことは次のことを述べていることになる。すなわち〈互いに関連し合い、そしてそのような作用として同定しながら、すでに措定されていた諸対象への回帰する判断作用と、次いで特に、認識する判断作用は同一の形式的領域と他の形式的領域にとっては異なる道を進み、そして異なる同定を行い、それぞれが異なる区別と、取り消しによる異なる排除とを行うこと〉を述べている。」今回はここまでにしますが、哲学的な論考を読み解く難しさを痛感しながら、私は自分の拙い知識の中で主訴となる部分を探しつつ、とつおいつ本書を読み進めています。哲学的な論考は最初から最後まで、どの文章をとっても多くの意味が込められていて、私では小節のまとめなど到底及ばぬところで、気になった文章の引用だけで精一杯な状態になっています。こんなことで果たしてどのくらいことが印象に残るのか、甚だ疑問に思いながら、自分の理解可能範疇にある書籍ばかりでは、頭脳を揺さぶることができないのではないかと思って困難に挑んでいるところです。