何故奇想に惹かれるのか
2017年 9月 15日 金曜日
私は創作活動を人生の中心に据えているためか、常識の範疇を超えたものに関心があります。一般的な非常識という意味ではなくて、人にとって不可視なもの、想像の世界に属するものに興味関心があるのです。そこをナンセンスと捉えるか、重要なポテンシャルと捉えるかで興味の対象は変わってきます。どうしてそうしたものに自分が惹かれるのか、考えてみると私は小さい頃から人智を超えたものに憧れてきた経緯があります。姿カタチの好き嫌いはあっても、不可思議な世界に親近感を覚えてきました。私が育った頃の自宅の周辺には、雑木林や田畑が広がっていて、夜ともなれば暗闇の支配する世界があちらこちらにありました。横浜と言えども、鎌倉時代に遡れば畠山重忠公の古戦場があって、茅が自生する野原に首塚が祀られていました。現在は万騎が原という地名になっていますが、幾万の騎馬が繰り広げたであろう戦さを伝える地名ではないかと思っています。50年以上前は、昼なお暗い木々の間に魑魅魍魎が潜んでいても不思議ではない雰囲気の中で、私たち子どもは小さな祠や神社で遊びに興じていました。現在、私が見つめる奇想の芸術作品は、どこか頭の中に刻印された記憶を呼び戻し、始源的な生命を燃え上がらせる効果があるように思えます。社会的な束縛からの解放もあるのかもしれません。私が作る彫刻作品も奇想の産物です。欧州からイメージを借りてきたにせよ、その根源は私の生育歴と密接に関わっているのではないか、黴臭い旧家の土間や米を保存しておく樽が記憶のどこかにあって、その印象を具現化したものではないかと思うのです。稲の刈り入れ時は、宮大工だった祖父も造園をやっていた父も仕事を休んで脱穀機を回していました。豊穣を祈るために稲荷に餅を捧げる風習が今も残っています。そこにはキツネの化身が棲んでいると祖母に教えられました。捨ててあった稲荷を先祖が拾って自宅の裏山に祀ったのだ、そのお陰で我が家は栄えたのだとも言っていました。妖怪が身辺にいるから自然な流れに逆らってはいけない、それは私に畏怖なるものを与えるに留まらず、芸術としての奇想にも影響を及ぼしたのではないかと述懐しています。