「芸術の本質」について
2019年 10月 10日 木曜日
職場の私の部屋にずっと置きっ放しの書籍があります。折に触れて読んでいますが、通勤で携帯している書籍とは違い、読書時間がなかなか確保できない上に、やや難解な内容なので、その気にならないと頁を捲ることがありません。その書籍とは、「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)で、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を根拠にフランスの現象学者が著したものです。今回は久しぶりに頁を捲り、「芸術の本質」についてまとめることにしました。「芸術は自然の模倣ではないし、同様に生の模倣でもない。」という一文が最初に目に留まりました。どういうことか、「生が芸術と絵画の唯一の内容を形成することができ、また形成すべきであるのはーその内容が抽象的で目に見えないかぎりにおいてであるがー生がそれ自体では決して対象にならないからである。いったい生はどのようにして芸術の中に存在しているのか。~略~われわれが絵の上に見たり見たと思ったりしているものとしてでは決してなく、そういうイメージが生じるときにわれわれが自分のうちに感じとるものとして、色とフォルムのもつ音色や基調色としてであり、絵とは両者を構成したもの[コンポジション]なのである。~略~つまり生はその固有の本質にしたがって芸術の中に存在しているのである。生の本質とは何なのか。自己を感受することだけでなく、その直接的帰結としての自己の拡張である。」という解釈がありました。また「芸術とは生の移り変わりであり、その移り変わりが生ずる際の形態である。」とも述べられています。芸術表現の動機となる情念についても記述がありました。「情念こそがあらゆる力を確立し、絵画がこの情念を『表現する』。つまり、この情念はあらゆる色とフォルムのうちに存在しており、これら両者の配置を通じて、それは絶頂へとおしあげられるのである。たしかにそのときにこそ、芸術は生の本質の実現として現れてくる。」最後に文化についての論考を載せておきます。「文化とは、生が自己の不変の本質を、つまりおのれ自身のもとにたゆみなく到達することによって自ら拡張し生を構成する各能力を究極までおし進めるという本質を現実化する際の過程なのである。芸術が受け入れるのは感性の諸能力である。時をつらぬいてわれわれに合図を送ってくる偉大な作品には、随所に感性の諸能力がその激しさと強さの極限までおし進められていることが見てとれる。」今回はここまでにしておきます。