12月RECORDは「錆」

一日1点ずつポストカード大の平面作品を作っていくRECORDは、文字通りのRECORD(記録)です。過去のRECORDを見ていくと、制作時の気持ちを思い出し、その時どんな思いで日々を過ごしていたのか、記憶が甦ります。今年は10月中旬にRECORD1年間分の撮影を行いましたが、それまでは下書きばかりが先行して、その下書きされたRECORDが食卓に山積みされていました。それを撮影までに下書きを全て解消し、現在は何とか日々の流れにRECORDが追いついている状態です。毎晩就寝前に食卓でRECORD制作をやっていると、習慣化しているにも関わらず、なかなか厳しい思いにさせられています。それは毎晩新作を作り上げているので、小さな画面ながら緊張感をもってやっているせいではないかと思っているのです。その積み重ねは我ながらイケていると思っていて、つい自画自賛してしまいます。その日のRECORDが出来上がって、ホッと胸を撫でおろし、眠りにつく時の気分は最高です。逆に上手くいかない時はなかなか眠れません。さて、前置きが長くなりましたが、今月のRECORDのテーマを「錆」にしています。錆色は私の大好きな色彩のひとつで、陶彫制作でも完成作品を錆色にするために陶土を複数混ぜ合わせ、焼成後に鉄が錆びた状態が想起できるような効果を狙っています。錆色とは「暗い灰みの黄赤」というJIS色彩規格があり、鉄錆のような赤茶色のことを言うのです。今月は色彩シリーズ最後の1ヵ月になり、自分の好きな色彩を楽しみつつ、RECORDを作っていこうと思います。

「イサム・ノグチと丹下健三」について

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の「イサム・ノグチは何をしようとしたのか」と「イサム・ノグチと丹下健三」についてのまとめを行います。イサム・ノグチについてはこのところ関連書籍を読み漁っていたので、私には既知のことばかりでした。著者は建築家なので発想に建築的な視点があり、そこが面白いと感じました。「ノグチは、彫刻的才能を、物体から物体の下の大地へと広げはじめるが、しかし実現はむづかしい。物と大地では大きさもちがえば社会的影響もちがう。建築を作るのと町を作るくらいちがう。~略~(ノグチは)自分の還るべき大地を生み出したかったのだ。日米のあいだに祖国をあらかじめ喪失して生れ、父性の欠落の中で育ったノグチの還るべき大地。」をノグチは生涯を賭けて求めていたことになります。ノグチが建築家丹下健三とのコラボレーションとして考案した「広島の原爆慰霊碑案」は実現はしませんでした。「アメリカ人の作品では死者の霊は浮かばれないという根本的反対が起こり、ノグチの精魂が注がれた傑作は実現にいたらなかった。おそらくもし実現していたら、20世紀彫刻の名作の一つとなったことは疑いないが、しかし、原爆ドームを隠して自作を前面に立てるノグチの案はやはり実現しなくてよかった、と私は考えている。」今までノグチ側の伝記を読んでいた私は、日本が名作を選択しなかったことの残念ばかりを考えていましたが、日本側の意見としての原爆慰霊碑案も考えるに至り、彫刻的名作を残すより、これで良かったのではないかと思うようになりました。これは芸術的崇高さは社会的状況を超えていくと信じていた私に迷いが生じた瞬間でもありました。章の最後に2人の古墳時代の影響について書かれた箇所を引用いたします。「丹下は、古墳時代の造形を埴輪や銅鐸の段階でとどめ、建築デザインに即して言うなら古墳時代の造形の生命を打ち放しコンクリートに注ぐところまでにとどめ、以後はしだいに金属とガラスと石によるツルツルピカピカの箱形の建築へ向った。一方、ノグチは、未来型の社会を目ざして舵を切る丹下を尻目に、古墳時代の造形を埴輪や銅鐸といった器物の段階にとどまらず、器物を納める古墳の墳丘まで掘り下げ、大地の造形へと深化していく。」

週末 地域行事参加&陶彫制作

職場のある地域と、私の職場は密接な関係にあり、昨年まではあらゆる地域行事に私は職場を代表して参加しておりました。今年はコロナ渦の影響で地域行事がなくなっていましたが、小学校のグランドを借りて行なうスポーツ大会を開催する運びになり、副管理職とともに私も軽スポーツに参加してきました。午前中の大会でしたが、久しぶりに地域の方々と触れ合えたことが良かったと思いました。言うなれば休日出勤でしたが、主要な公務ではなくレクレーションとして楽しむことが出来ました。午後は工房に行って昨日の引き続きの作業をやっていました。彫り込み加飾をやった後、窯入れの準備として、乾燥した陶彫部品に仕上げと化粧掛けを施す予定でいましたが、どうやら疲労が蓄積しているようで、これは自宅で少し休んだ方がいいかなぁと判断して、早めに工房を引き上げました。自宅に帰るとソファに横になり、暫し寝てしまいました。昨日は寒く、今日は暖かくなったことで気候の変動も体調不良に影響しているのかもしれず、暫く体力の回復を待つことにしました。そんな中でも脳内では新作のイメージが目まぐるしく動いていて、身体を横たえても気持ちがぜんぜん休めていないのに気づきました。私の何がそんなに創作に駆り立てるのか、自分でもよく分かりません。私の生きる実感が創作活動にあるのは明白ですが、頭の中で新作の土台をどうするのか、木材をどう切断するのか、寝ても醒めてもその考えから解放されず、来週末にはとりあえず土台の制作に着手しようと思いました。創作活動は、創作の泉が滾々とわき出しているうちは、心が落ち着くことはありません。次から次へとイメージが更新されてしまうのです。ピカソが完成を待たずに次作に取りかかったのは、こんな理由なのかもしれないなぁと思いましたが、私は生真面目で律儀な上、ピカソほどの才能を持ち合わせていないために、現行作品と次作との間に大きな破壊と創造を繰り返してはいないと実感しています。それでもピカソほどのスケールはないにしても、私にもそうした機会が訪れることを自覚して、ちょっと嬉しくなりました。また来週末に頑張ろうと思います。

週末 陶彫制作&シュトレン受け取り

12月に入って最初の週末です。朝から工房に篭って陶彫制作三昧でした。小さな陶彫成形をひとつ作り、その他の時間は彫り込み加飾をやっていました。窯から2点の陶彫部品を出しました。あれこれやっているうちに時間があっという間に過ぎていきました。今日は美大受験生が来ていました。明日の午前中は私が休日出勤をして、職場のある地域の集まりに出なければならず、一日美大受験生の面倒を見られないこともあって、今日彼女を呼んだのでした。彼女は以前から取り組んでいる平面構成と英単語の暗記をやっていました。受験勉強に夢中で取り組んでいる子を見ていると、私も背中を押されて陶彫制作に没頭しました。心理学でいう社会的促進というもので、誰かがいてくれる方が作業が進む心理を利用して、自分を頑張らせる仕組みを作っているのです。今日は寒い一日で手が悴みました。少し作業をしてはストーブの傍で手を温めました。何とか今日のノルマを達成し、夕方になって彼女を家の近くまで車で送りました。その後、家内と川崎市にある洋菓子店に友人に会いに出かけました。その友人は私と30年以上も付き合いのある人で、20代の頃、滞欧中にウィーンで知り合いました。私は国立美術アカデミーで彫刻を専攻していましたが、彼は大きな洋菓子店に雇われていて、パティシエとしての修業を積んでいました。その彼が地元の川崎市に帰ってきて、そこで洋菓子店をオープンし、ヨーロッパ仕込みのパンや菓子を作って売り出しました。毎年この時期になるとドレスデン発祥の菓子パンであるシュトレンを、彼はドイツの製法に則って作っています。私はシュトレンを大量に注文し、彼の店「マリアツェル」に受け取りに行くのです。その習慣は何年も続いていて、この時期の定番になっています。シュトレンは師匠や友人宅に郵送します。西欧滞在経験のある人なら懐かしい思いに駆られると思っています。最近は日本でもシュトレンの知名度が上がり、多くの洋菓子店やベーカリーで売られていますが、私がウィーンから帰国した頃は、シュトレンは一部の店舗でしか売られていませんでした。シュトレンを食べるとクリスマスが近づいてきた実感があります。

「ガウディとフンデルトワッサー」について

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の「二つの未完の教会に隠されたガウディのメッセージ」と「フンデルトワッサーの人を引きつける力」のまとめを行います。著者によるガウディとフンデルトワッサーの並列が私には新鮮でした。ガウディは正真正銘の建築家、フンデルトワッサーは絵画を発展させた形で建築を行った人で、建築に関してはほとんど素人と私は理解しています。まず、ガウディの「サグラダ・ファミリア」と「コロニア・グエル教会」について。著者はガウディ建築の印象を次のように述べています。「敏感な人ならおびえる。大きく括れば胎内感覚と言えるが、普通の胎内感覚とは強さがちがって、野獣の胎内というか、胎内の底からふつふつ生命力が湧いてくるような感覚なのである。」次にフンデルトワッサーとの比較について。「ガウディとフンデルトワッサーの差について考えてみよう。ともにグニャグニャ不安定形で、彫塑的造型なのだが、ガウディにはフンデルトワッサーにない秩序が感じられる。相当グニャグニャな《コロニア・グエル教会》にもリンとした全体支配力が働いている。骨格意識といえばいいか、部分と全体の関係がしっかりしているといえばいいのか、そうした見えざる秩序感を生んでいるのは平面計画と構造計画がちゃんと存在するからにちがいない。ところがフンデルトワッサーは、無限自己増殖というかアメーバというか、部分と全体の区別もなければ、骨格意識もない。平面と構造が、正確にはその意識が、欠けている。作りかけで止めた彫刻と言えばいいのか。建築と彫刻を分けているのは、平面と構造の意識なのである。~略~フンデルトワッサー的部分の正体とはなんなんだろう。論証ぬきで結論だけ言ってしまうが、幼児性ではないかと、にらんでいる。誰でもかつて子供の頃、今はもう忘れてしまったが、フンデルトワッサーみたいな粘土細工やお絵かきをやっていた。」と著者はフンデルトワッサーに対して感覚的な捉えをしています。私は20代の頃、ウィーンに住んでフンデルトワッサーが教室を持っていた国立美術アカデミーに在籍していました。その時に一度だけフンデルトワッサーに会っています。彼の発した言葉は外国人に理解しやすいドイツ語で、フンデルトワッサーの芸術に対する考えを伝えてくれました。彼は色彩の重要性を説いていましたが、自己の感性に正直に生きている人なんだなぁと、私はその時思いました。著者のいう幼児性というのも頷けます。フンデルトワッサーは、独創的な色感と自由奔放な色面構成で国際的に認められた芸術家ではないかと私も思っています。

鳳翔館の「雲中供養菩薩像」

先月、京都に出張で出かけた折り、宇治にある平等院鳳凰堂を訪ねました。コロナ渦の影響で観光客は少なくて、仏像鑑賞には最適でした。私が本尊の阿弥陀如来坐像の周囲の壁に配置された「雲中供養菩薩像」を見たのは随分昔のことになりますが、その演出に興味津々となり、それ以来「雲中供養菩薩像」の虜になりました。像は全部で50体以上(展示されている像は26体)にもなり、雲の上で楽器を演奏したり、立って舞っている様子は、私のそれまで持っていた仏像の概念を吹き飛ばしました。平等院に暫く来ないうちにモダンなミュージアム鳳翔館が出来上がり、「雲中供養菩薩像」はそちらに展示されていました。以前、東京の博物館で見た「雲中供養菩薩像」も照明を当てられて、鑑賞するのに最適な配慮がなされていましたが、今回もじっくり鑑賞できました。「雲中供養菩薩像」は1053年(天喜元年)本尊の阿弥陀如来像とともに仏師定朝とその一門によって作られたとされています。その技法を図録から拾います。「寄木造の技法とほぼ平行して完成された木彫技法が割矧造である。これは頭体の幹部を一木で造り、適当な位置で木目に沿って割り、内部を刳ってから再び合わせるもので、寄木造と同様に割首も行われる。~略~この技法の完成した姿が、まさに雲中供養菩薩像に見られるのである。」また図録には仏師たちの様子も書かれていました。「雲中供養菩薩像が建立された頃には、その(仏師の)組織化がさらに発展していたと想像されるが、これらの像に見る作風や技法の多様さを考慮すると、必ずしも定朝の権威によって縛られることなく、各仏師の個性を重んじる形で造仏が行われていたように思われる。」また当時の時代背景も描かれていました。「雲中供養菩薩像の構想の背景に奈良時代の作例との関係が想起されるが、菩薩が雲に乗る形式や霊芝雲をまとめた雲の形など正倉院に伝わる麻布菩薩と一脈通じることも興味深い。」(全て岩佐光晴著)今見ても新鮮な「雲中供養菩薩像」。雲の形やたなびく布は現代のアニメーションにも利用されているのではないかと私は思いました。もちろん私のRECORDにも使わせていただいています。

2020’12月の制作目標

今月は師走と呼ばれている通り、1年の締めとして多忙を極める1ヵ月となります。そのためどのような制作目標を立てようか思案しているところです。陶彫部品を集合させて世界観を作る私の新作では、そろそろ土台となる板材の加工をやり始めなければならないかなぁと思っています。毎年7月にギャラリーせいほうに企画していただいている個展には、2点は大きな作品を出す計画があり、数点は小品にする予定です。毎年変わり映えがしない出品状況ですが、新作であればギャラリーの空間は毎年違って見えます。来年は2点とも円形を基にした作品にします。今作っているのは、土台は厚板材を加工して砂マチエールを施し、そこに陶彫部品を数多く点在させる作品です。円形の架空都市を俯瞰できるようなものにしていく計画です。もう1点の作品は大きなテーブル彫刻ですが、そこに陶彫部品はありません。木材だけで作る計画で、見上げるような高い位置にテーブルを設置しようと思っています。テーブルの脚には木彫を行い、全体的には軽やかで明るいイメージが浮かんでいます。今月は年末年始に休庁期間があり、亡母の件で喪に服すため、正月は何をするわけでもなく普通に過ごす予定でいます。ということは制作三昧で過ごせるわけで、この機会に厚板材の土台を作り始めようと考えています。ただ、今月は日曜日に出勤する予定が2回あります。その日も時間を作って工房に通うと思いますが、どこかで鑑賞もしたいなぁと思っているところです。

12月初日に喪中はがきを出す

12月になりました。まずは今年の4月に母が他界したため、喪中はがきを出すことにしました。今日は仕事から帰ってから喪中はがきの宛名印刷を行っていました。私は例年RECORDの絵柄を利用して積極的に年賀状を出していました。1年一回の挨拶は、自分にとって大切なアイテムで、久しく連絡をしなかった無礼を詫び、こちらの健在を伝えるには、年賀状は大変役立つものですが、今年はその年賀状を作りません。例年ならRECORDの絵柄に来年の干支をモチーフにしているのですが、それもありません。ちょっと寂しい気もしますが、仕方がないことと思っています。12月になって、いよいよ冬本番になります。2020年も残すところ1ヶ月になり、今年の振り返りを行うことにしました。今年は新型コロナウイルス感染症に振り回された1年間だったと思います。これは誰でもそう思っていることでしょう。私は7月の個展が出来るのか否か、ギャラリーせいほうの田中さんと連絡を取り合いました。常設展で持ちこたえていたギャラリーは、私の個展を皮切りに企画展を再開しました。来廊してくださった人は少なかったのですが、コロナ渦の中でわざわざ東京銀座まで足を運んでいただいた方々に感謝です。私の制作は通常通りで、コロナ渦があろうがなかろうが関係なく続けていました。世間では自宅待機や外出自粛が呼びかけられていましたが、私には工房があって本当に良かったと思います。さて、今月はどう過ごそうか、毎年考えていることは同じです。公務員として大晦日から正月にかけて休庁期間が確保されているため、時間を必要とする創作活動には、この期間中に可能な限り制作工程を先に進めることしかないのです。それはそれで楽しくキツい日々になりますが、何かに向かって夢中で成し遂げていく喜びは極上のもので、それに代わるものなどありません。私にとって生きていく実感はそんなところにあるのだろうと感じています。具体的な制作目標は稿を改めます。今月も体調を気遣いながら頑張っていこうと思います。

実り多き11月を振り返る

今日は11月の最終日です。NOTE(ブログ)のアーカイブを見ていると、11月はどの年も充実しているようで、創作活動には最適な1ヶ月であることが証明されています。今月も実り多き1ヶ月でした。まず、ウィークディの仕事で言うと、コロナ渦の中で関西方面への出張に無事行ってきたことが特筆できることです。仕事上、年間行事の中でこれは一番大きいもので、何はともあれ私は無事に終わったことに安堵を覚えました。陶彫制作で言えば、毎週末に作業を続け、またウィークディの夜にも工房に通っていて、制作目標を上回る成果がありました。気候が快適だったことも影響していると思いますが、文化の日や勤労感謝の日にも制作をしていました。窯入れも随時行っていました。窯の電気代も跳ね上がってしまいましたが、創作活動が充実している証と思っています。新作の完成イメージは今月になって具体性をもってきました。一日1点制作のRECORDも辛うじて追いついてきている状況です。今のところ下書きが山積みされることはありません。鑑賞に東京へ出かけた日も僅かな時間を作って工房に行っていました。その鑑賞ですが、美術の展覧会では「西洋の木版画」展、「若林奮」展(両方とも町田市立国際版画美術館)、「桃山」展(東京国立博物館)、「分離派建築会展」(パナソニック汐留美術館)、「吉村芳生展」(横浜そごう美術館)へ行ってきました。映画館へも行きたかったのですが、コロナ渦が広がっている現状を見て、今月は躊躇してしまいました。美術の展覧会の鑑賞だけでも今月は充分に満足出来たと思っていますが、加えて京都に出張した折、平等院のミュージアム鳳翔館で「雲中供養菩薩」が見られたことが幸運でした。「雲中供養菩薩」を見たのは、嘗て開催された東京の「平等院」展で鑑賞した以来のことです。これは私の大好きな仏像群のひとつで、鳳凰堂本堂ではなくモダンに完備されたミュージアム鳳翔館の中で、優しい照明の演出で見た「雲中供養菩薩」で印象が新たになりました。読書はイサム・ノグチのエッセイを読み終えて、今月から建築家藤森照信氏の著作を楽しみながら読み始めたところです。同時に仕事場に持参している論理学の関するフッサールの論考も読んでいますが、語彙が難解なため、なかなか進まなかったのが今月の反省です。

今月最後の週末に…

今日が今月最後の週末になりました。工房に朝から篭って23点目になる陶彫成形を行ないました。22点目と23点目はまだ彫り込み加飾が出来ず、午後は乾燥した陶彫部品2点の仕上げと化粧掛けを施して窯に入れました。このところ窯入れは毎週末にやっていて、焼成が終わった作品は既に11点あります。結局、新作の土台作りは来月に持ち越しになりました。気温が下がり、空気が乾燥し始めると、陶土を触り続けている掌がガサガサになります。毎年冬になるとハンドクリームが欠かせなくなります。今日は大型のストーブを出してきました。朝から来ていた美大受験生が寒いと言うので、彼女が使っている作業台の近くにストーブを置きました。工房は断熱材装備の内壁がないため、気温は外と変わりません。これからこのストーブが頼りですが、工房全体の大きな空間を暖めることは、このストーブでは到底不可能で、悴んだ手を温めるくらいしか出来ません。しかも毎年若いスタッフの傍にストーブを置くので、離れたところで作業している私にはストーブの恩恵がありません。ただし、私は力仕事なので身体が寒く感じることはないのです。陶彫制作はまだまだ続きますが、冬本番になるこの季節はなかなか厳しいものがあって大変です。それを見通して今月の週末は陶彫制作を頑張りました。今月はウィークディの夜にも工房に通いました。気候がちょうど良い時はできるだけ制作工程を進めておくべきで、凍てつくような寒さの中では制作は思うように進みません。そういう意味で今月の週末にどのくらいの制作が出来たかは、今後のスケジュールに影響が出てきます。今月の週末の制作状況はまずまずだったかなぁと思っていますが、果たしてどうだったでしょうか。今日も夕方になって美大受験生を車で送ってきました。明日からまた1週間が始まり、私には公務が待っています。また来週末頑張ろうと思います。

週末 陶彫制作&亡母の遺産相続

昨日、亡母の遺産を管理している税理士が自宅にやってきました。生前の母は家賃収入があり、それを母が入所していた介護施設の経費に使っていました。父が亡くなる前に、両親が揃って公正人役場に出向き、それぞれ公正証書(遺言)を作成しました。これは遺産を巡る兄弟間の争いごとを解消するための法的手段で、それを根拠として亡母の遺産相続を始めました。詳しいことはここには書けませんが、そうしたことに私は時間を割く必要があり、これは私が公務員管理職としての現職であるうちに終わらせたいと思っているのです。退職後は心置きなく創作活動を楽しみたいと願う私の気持ちがそうさせていると言えます。遺産相続の件はひとまず置いて、今日は工房に朝から篭りました。工房に出かけると、私は遺産相続のことや公務員管理職としての仕事のことも全て忘れて創作活動一本に気持ちが変わります。心が浄化すると言った方がいいのでしょうか、それとも現実逃避なのでしょうか、そのどちらでもあると思いますが、創作活動というものが私を救っていることは確かです。土曜日に行なう陶彫制作の内容は、土練りやタタラの準備で、明日の成形に備えて行なうものです。定番化した内容ですが、それでも私は陶土に触れていると心がワクワクしてくるのが不思議です。私は定番化した内容をただ只管遂行しているだけではなく、作品が徐々に出来上がっていく過程で、完成イメージの醸成も行なっています。陶彫部品が具体的に出来上がっていくと、これらをどのように構成していくのか、最初の大まかなイメージから一歩進めて、それぞれの陶彫部品の配置や土台の造形まで考えながら、頭を巡らせていきます。私はエスキースを書かない代わりに頭の中で何度もイメージの更新を行なっているのです。それでも当初のイメージから大きく逸れることはありません。新作のイメージが次第に具現化されるにしたがって私の心は高揚してきます。もう少し時間があればと思いつつ、身体が疲労を溜め込んでいるため、夕方になると頑張りがきかなくなってしまいます。また明日考えることにします。明日は23点目の成形に入ります。

「ル・コルビュジエ」について

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の「20世紀のパルテノン神殿」と「20世紀建築の本流に背を向けたル・コルビュジエの謎」についてのまとめを行います。章の最初にル・コルビュジエが設計した「ロンシャンの教会」が登場します。私自身はこの「ロンシャンの教会」に行ったことがなく、写真でしか知らないため、著者が訪ねた時の感想によって建築物の内外を想像するしかないのですが、この建築物によって20世紀のモダニズム建築と一線を引いたル・コルビュジエの謎にも触れていました。「(「ロンシャンの教会」を通して)後期のル・コルビュジエが大地に還って行った証拠にして成果にちがいないが、20世紀ならではのやり方で大地に還ったことも忘れてはならない。~略~丘の上に青空高く掲げられた大地の一片ーギリシャのパルテノンの光景を思い出さずにはおけない。」次に20世紀の建築事情を書いた部分を引用します。「1920年代に芽を吹いた初期モダニズムは、ピューリズムにせよバウハウスにせよ、幾何学的造型を追いかけ、20世紀という科学の時代、技術の時代にふさわしい抽象性を建築においても獲得しようとした。」ル・コルビュジエはこうした抽象性の追求に限界を感じたのではないかと著者は洞察をしています。ル・コルビュジエが革新的な建築家としてデビューした時は、バウハウスと同じ純化した箱型デザインを行っていましたが、その後作風を一転させたのは自分本来の道を模索した結果ではないのか、彼に建築を目覚めさせたパルテノン神殿に立ち戻ろう、その結果として「ロンシャンの教会」が生まれたと言ってもいいと思います。「20世紀はたしかに科学の時代、インターナショナルな時代かもしれないが、しかし人間は特定の大地に生れ、固有の文化にはぐくまれて育つしかない。気づいた時にはそのように自分の内側ができてしまっている。時代は抽象的でインターナショナルだが、人間は個別の存在でしかない。」21世紀になった現在もさまざまな景観を持つ建築物が建ち始めています。日本にも日本的な特徴を全面に出そうとする動きがあるようで、まるで現代彫刻と思えるような建築物も存在しています。

「懐かしさ」について

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の冒頭の章に「懐かしさ」という感情をもって、建築や造形美術における関係性を謳っている内容がありました。古い建造物の保存活動に携わる人々の行動に、建築の専門家が当惑を覚えるところがあるようで、「懐かしさ」とは何かと改めて問いかけている箇所がありました。「『懐かしさ』なんて何にも生産的でない。でも、人間しか持っていない感情なので、逆にえらく人間的だと思ったのである。」著者はA・ブルトンが提唱したシュールレアリスムについても「懐かしさ」を感じていて、既視意識が当時の革命的な絵画にも「懐かしさ」を齎せているのではないかと察しています。「パスカルが宇宙の果てについて論じた、”知らない世界を本当に想像することができる”か、という問題がある。われわれは未知とか未来とか言ってるものを想像するが、実はそれは既知の延長で想像しているだけで、本当に知らない世界は想像できないはず。なぜなら、想像するにも手がかりがない。」なるほど、前衛と言えども自分の発想からしか創造できないので、自身の経験からこれだというものを捻りだすことになるわけです。それならば「懐かしさ」をもっと肯定的に捉えてもいいのかもしれないと思いました。私の作品にも「懐かしさ」はあります。私は古代の出土品を現代的にアレンジしているので、見た人が懐かしいと感じてくださることも多々ありました。著者である藤森氏の建築にも懐かしい雰囲気があって、それが快さを醸し出しているように感じています。「人間は人間であることを確認するのに外の景色を使っているという仮説がある。人間は、自分が自分であることをもっと高度な方法で確認していると思っている。しかし、私は、目に見えるもの、外的なものでしか確認できない、と気づいた。人間のアイデンティティは、建築や町並みに依拠しており、その建築や町並みの質を問わない。建築か町並みか、大きくは自然の風景によって人間は人間たりえる。自分は自分たりえる。」

「建築とは何か 藤森照信の言葉」を読み始める

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)を読み始めました。建築史家であり、自らも建築家としてさまざまな建造物を設計している藤森照信氏の言葉を集めた書籍を、私は楽しみながら読んでいこうと思います。私が藤森氏の建築を最初に見たのはテレビに映し出された「高過庵」でした。ツリーハウス?と思いましたが、生木を使うことに建築家は興味がなく、全て人工物であることで、建築というモノつくりの楽しさを感じました。2本の細工なしの木材が建ち、その上に茶室があり、その空中に存在する住居の意外さが面白いと思いました。親戚の住む東京の郊外に、たまたま屋根にニラが生えている不思議な住宅を見つけ、それが尊敬する故赤瀬川源平氏の自宅で、しかも設計したのが藤森氏と知って、さらに驚きました。「ニラハウス」は、外見を何回か拝見しただけですが、建築家とはモダンな高層建築をやる人という私の概念が崩れ、自分の創作活動を刺激する素材が使われていることにも注目していました。私の興味関心を決定的なものにしたのは「浜松市立秋野不矩美術館」を見に行った時でした。当館の外見は土と板塀で砦のように見え、内部は漆喰と黒く焼いた梁があって、おおよそ日本画家の美術館らしかぬ雰囲気を漂わせていました。これはインド風景を得意とした秋野不矩ワールドに合わせた設計で、裸足で入館し、寝転がって鑑賞するのも独特なスタイルでした。この空間は何とも心地よく、建築素材が自分の好みに合っていて、私自身の創作意欲が擽られました。木材を焼いて展示する発想は私にもあります。私の作品の中にも陶彫と組み合わせて焼いた木材を使っています。それは陶と木材を火炎に共通させることで作品の一体化を図った試みでした。感覚的に自分に近いと私が勝手に思っている藤森氏の著作からは良い刺激をいただけるものと信じています。

コロナ禍の関西出張

私の職場では1年間に一度関西方面に泊を伴った出張があります。同じ職種の方がこれを読んでいることもあり、関西方面の出張が何を意味しているのか見当がついていると思います。例年、夏季休暇前に実施していて、しかも2泊3日の出張のところを、今年度に限って1泊2日でこの時期に実施することになりました。行く先は京都府と奈良県です。心配なのは新型コロナウイルス感染症が拡大していて、横浜から出かけていくことに躊躇していたのですが、マスクや消毒液持参で防備を万全にして行くことにしました。昨日までの三連休は個人として、私は他の都道府県に出かけることはありませんでしたが、今日は仕事で京都泊になり、感染症の心配をよそに京都の紅葉を満喫できることになりました。この時期の京都は年間を通したトップシーズンにあたります。嵐山にある天龍寺塔頭の宝厳院は、特筆できるほど紅葉が素晴らしく、一時仕事を忘れました。さらに夜になって出かけた東寺のライトアップも幻想的でした。私は個人的に講堂にある立体曼荼羅が大好きで、東寺を訪れた際は必ず立ち寄っていますが、照明に照らされた仏像の数々は密厳浄土の世界を十分堪能させてくれました。東寺境内にあった大木も全て紅葉していて、照明を受けて浮かび上がる風景は、まさに極楽浄土とはこんな場所なのかと思わせるほど素晴らしいものでした。私たちの出張で秋のシーズンが使われることはまずないと思っています。コロナ渦の中の不幸中の幸いと思える幸運にちょっと高揚した気分になりました。

三連休最終日は加飾&窯入れ

三連休最終日です。天候が良く紅葉も見ごろを迎えている時に、どこにも出かけず工房に篭っていますが、新型コロナウイルス感染が広がっている昨今は、紅葉狩りを控えた方が良いと思っています。結局3日間とも工房に長くいて制作に明け暮れました。これはこれで幸せなことで、心が解放されつつ、精一杯頑張った創作活動に満足を覚えました。3日間も工房に篭っていると、制作に集中力が増してきます。それは例年の休庁期間等で長く制作を継続した時はいつもそうでした。次第に創作の深みに嵌っていく感覚で、気持ちが静かに落ち着いてくるのです。素材(陶土)との対話が始まるのはこんな時かもしれません。周囲の空間も時間もわからなくなるのは、心理学でいうフロー状態なのかなぁと思っています。今日も工房に顔を出した美大受験生も相当な集中力で平面構成をやっていました。フロー状態は伝染するかもしれず、夕方工房を後にする時、「今日は疲れた」と彼女はポツリと言っていました。私の作業としては午前中には彫り込み加飾を3点行い、午後には窯入れをするために仕上げと化粧掛けを施しました。窯入れは、窯の中に入れる陶彫部品を上手く組み合わせる必要があり、ちょうど大小の陶彫部品が乾燥していたので、窯内に入る大きさとしてはちょうど良いと思ったのでした。「先生は休むことがあるのですか」と美大受験生に聞かれました。確かにウィークディは公務員管理職として職場に出かけていき、週末は陶彫制作をやっているため、傍から見れば休んでいるようには見えません。東京の美術館へ行くのも鑑賞という仕事と言えばその通りで、私は一日ぼんやりと休むことがありません。でも休みは心が解放されているかどうかで疲労の回復が違ってきます。真に休息を取りたければ、それは自分の内面の問題であり、レジャーに出かけてリフレッシュするのも、全て心の在りようではないかと思っています。それはシンドい創作活動にもその要素があって、心の開放は充分しているのです。自分の生活はバランスが取れていると自覚しています。そんなことを考えていたら、忽ち三連休が過ぎていきました。

三連休 20点目の陶彫成形&加飾

三連休の中日です。今日も好天に恵まれて工房周辺の木々が美しく紅葉しています。新作の陶彫制作は20点目に入りました。既に焼成が終わっている陶彫部品も10点あります。午前中は新しい陶彫部品の成形を行い、午後は成形が終わって多少乾燥している陶彫部品に彫り込み加飾を施しました。制作サイクルは順調に回っていて、私は疲労の残る身体に鞭打ちながら制作を進めていました。昨日から新作の土台について考えていますが、三連休は陶彫制作を優先した方がいいように思えています。このペースでもう少し様子を見たいと思っているのです。明日は窯入れを考えています。土台を考えるのは来週末か、来月に回そうと思います。年末の休庁期間に土台を中心に制作を進めようと決めました。木材を彫り始めたり、切断したりすると、気持ちは陶彫制作から離れます。まだその時期ではないと思っていて、逸る気持ちを抑えることにしました。今日は美大受験生が一人工房に現れました。彼女は丁寧に平面構成をやっていました。面相筆の使い方が少しずつ上達していて、きちんと彩色が出来ていました。私も高校生の頃は工業デザインをやりたくて、受験用の平面構成をやっていました。彼女の作業を見ていると懐かしい思いに駆られました。美術系の学校はノウハウを教えてくれる半面、弊害もありますが、私のような基本の積み重ねを必要とする人は、学校で学んだことが大変重宝しています。とくに彫刻は、設備の整った工房で4年間制作出来たことが幸福なことだったと思っています。そこで師匠から学校には長く留まるなと言われ、早く独立して彫刻が続けられるような環境を手に入れろと諭されました。そこから二足の草鞋生活がスタートしましたが、今思えばこれが正解だったと感じています。当時、助手をやっている人が羨ましく見えましたが、学校に頼らない自分の生き方は、創作活動を一生続けていくには必要不可欠なものだったと思っています。そんな自分の原点は、美大受験生を今も世話しているからこそ忘れないでいられるのです。明日も制作続行です。

三連休は陶彫一辺倒?

今日から三連休が始まりました。新型コロナウイルス感染症が再び広がりを見せ、外出自粛が叫ばれています。私は相変わらず工房へ行き、陶彫制作に明け暮れていました。土練り、タタラの準備をして、成形の終わった陶彫部品に彫り込み加飾をするのが、土曜日の定番になっています。ウィークディの疲れがあって、土曜日は身体が思うように動かず、制作工程のノルマを果たすのがやっとの状態です。それでも良い気候の中で精神的には解放されて、心地よい時間を過ごしました。亡父の残してくれた植木畑の手入れをするため、親戚の職人がやってきたり、近隣に住む人が散歩の途中に工房に立ち寄ってくれたり、ちょっとした休憩時間には人とおしゃべりをする機会もありました。さて、今日から始まった三連休ですが、一応制作目標を立ててみることにしました。陶彫制作では2点の成形が可能だろうと思っていますが、そろそろ土台の木材にも手をつけていかなければならないかなぁと思っていて、時間的な余裕があれば、土台の制作に乗り出すつもりです。焼成が終わった陶彫部品も増えてきて、先日切断した数枚の木材の上に陶彫部品を置いて、全体の構成を確認する必要を感じています。新作の土台は木材を円形に配置する計画でいます。円形は鋭角を持つ二等辺三角形を組み合わせて構成しますが、ひとつひとつの三角形は厚みをつけていこうとしています。木材加工が始まれば、陶彫制作は暫く休みになるため、その前に陶彫制作は出来るだけ作っておきたいと思っているのです。この三連休はあまり欲張らずに陶彫一辺倒でいくか、あるいは土台まで手を伸ばすか、陶彫の制作状況を見ながら判断していきます。今週は毎晩工房に通っていました。気候が良くなったことと彫り込み加飾をウィークディの夜の制作に充てたことで、制作工程に弾みをつけました。夜の制作は1時間程度でしたが、それでも彫り込み加飾は先に進みました。さらに自宅に戻ってRECORDをやっていくのは時間的に厳しいと感じましたが、おかげでRECORDは日々の制作に追いついていっている状態です。明日は成形を頑張ります。

「Ⅵ インタヴュー」のまとめ&読後感

「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅵ インタヴュー」のまとめを行います。この章をもって本書は完結になります。日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチは、その生涯においてさまざまな創作的体験をどのように聞き手に語ったのか、興味深いところも散見されました。ここでは2人のインタヴュアーが登場します。一人はキャサリン・クーで、もう一人はポール・カミングスです。クー氏との対話で気になった箇所は粘土に纏わるノグチの意見があり、私自身が陶土を扱っているため、どうしても気になってしまうのです。「粘土のような媒体ではなんでもできるからだ。で、それは危険だとぼくは思う。あまりにも流動的、あまりにもたやすい。たとえばロダンにはすさまじいほどの表現の自由があったー実際にロダンは表現主義者だったーだが、もっとも彫刻的な彫刻なのだろうか?それは絵画のほうに似ている。ロダンのような自由とは、ぼくにとっては一種の反彫刻だ。石のような素材で仕事をするとき、ぼくはそれが石に見えることを望む。粘土なら、どんなものにも見せられるーそれが危険なのだ。」カミングス氏との対話では「抽象芸術を抽象芸術として制作することへの疑問ーぼくにもコンスタンティン・ブランクーシのせいでヨーロッパでそういう時期があったが、そう長くは続かなかったーそれはアメリカというぼくのバックグラウンドー〔抽象に対して〕多少懐疑的ーとなにか関係があるんじゃないかと思う。それについてピューリタン的な考え方をする傾向とも関係があるだろう。抽象をちょっと道楽だと感じるんだ。~略~ぼくにとってそれを乗りこえる唯一の方法は、アートという理由以外にアートをする理由を見つけること。ひとつの目的をもっていなければならなかった。」とありました。公園や庭の設計に携わったノグチは、人々が集う広場の考え方を彫刻表現として認めていたことがこの台詞から読み取れます。「イサム・ノグチ エッセイ」では、ノグチが空間表現を洞察に満ちた哲学的思索として捉えていることが、私には印象的でした。空間は哲学であると私も感じていて、私がこうした文章を書いているのも自分の思索のために他なりません。本書はあらゆるところに示唆に富む内容があり、創作活動を自分が展開する上で参考になる書籍だったと思っています。

「Ⅴ 師とのコラボレーターについて」のまとめ

「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅴ 師とのコラボレーターについて」のまとめを行います。この章では日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチが青年時代に師事したり、または影響を与えられた5人が登場します。コンスタンティン・ブランクーシ、バックミンスター・フラー、マーサ・グレアム、北大路魯山人、ルイス・カーンの5人ですが、頁を一番割いているのは彫刻家ブランクーシです。私もブランクーシの生活ぶりや考え方に興味があり、若かったノグチの師に対する印象が鮮明で、楽しく読むことができました。「すべてが白。その服はいつも白く、その髭はすでに白く、大理石のブロックがおかれたアトリエを白い埃がおおっていた。石膏製の巨大な円卓二台が台座の役を果たし、白いレンジがあって、ブランクーシはそれで有名なステーキを焼いた。それから二匹の白い犬がいて、ブランクーシは水盤に入れたミルクを餌にしていた。アトリエは広く、天井は高くて大きな天窓と窓があった。小さな隣室。ブランクーシはそこで眠る。壁際には《無限柱》のウッド・バージョンがいくつか並び、そばに大きな木製の葡萄搾り器と古い家の梁が数本あった。石膏製の建築学的要素、《キスの円柱》の柱頭とその部分があった。」これがノグチの記した当時のアトリエの情景で、現在はパリのポンピドー・センターに再現されています。次に仕事への姿勢が述べられた箇所がありました。「ブランクーシは全力をつくして、ぼくに退屈でやっかいな仕事の必要性をしつこく繰り返した。怒鳴ったものだ。『集中するんだ。窓の外を見るのはやめなさい!』あるいは『きみがなにをするにしても、それは楽しみや学習のためではない。きみはそれを、きみが将来にわたっておこなうなかで最高のものとしなければならない』」ブランクーシが自らの形態の純粋性を探り、やがて抽象化に至った過程がこんなところに表れているような気がしました。「ブランクーシにとって、イメージは抽象であると同時に抽象ではなかった。孤立して存在する幾何学を信じていなかった。ブランクーシがプレートを溶接して《無限柱》を製造するのに反対した理由は理解できる。それは、そのように扱われるのには十分に抽象であると同時に十分に抽象ではなかったのだ。」ブランクーシの彫刻はあまりにも理想的だったと考えられ、私には羨望しかありません。他の4人は紙面の都合で省略させていただきます。

汐留の「分離派建築会100年」展

先日、東京汐留にあるパナソニック汐留美術館で開催中の「分離派建築会100年」展に行ってきました。「分離派」という題名が気になって、本展ではどんな建築のどんなデザインが見られるのか楽しみでした。分離派の主旨としては西欧に興った分離派と同じで、本展も既成概念に囚われない姿勢がありました。1920年に東京帝国大学(現東大)建築学科を卒業した6人が「分離派建築会」を名乗り、建築による自主展示を企画したことから始まり、そのグループ展は1928年の第7回展まで続いたようです。その後も彼らは大手設計事務所や大学の教壇に立って、実際の建造物を設計したり西洋建築史翻訳等に貢献しています。本展に出品されている模型や写真、図面などは当時のモダニズム建築が示されていて、私は興味を持ちました。図録によると3つに分類された建築について述べられていました。まず「田園的なもの」として次の文章を引用いたします。「鉄やコンクリートなどの新建材が普及し始めていた当時の潮流に逆行して、民家の自然素材が称揚される。藁、茅、柿、土壁、錆壁、敷瓦、太鼓張りの和紙などは、なお『愛せずにはおられない普遍的な材料』としてすくい上げられる。」二番目に「彫刻的なもの」として「震災後の帝都復興創案展覧会に出展された分離派建築会の作品群にはロダンの影響が色濃くあらわれていたが、ヨーロッパの彫刻界ではロダンのリアリズムから抽象化への移行が急速に進んでいた。そうしたロダン以降の新しい彫刻の潮流を、分離派建築会のメンバーたちは素早くとらえていた。」とありました。三番目に「構成的なもの」として「村山知義を中心にマヴォや三科へと広がった構成主義は、前衛的な美術家たちの型破りな創作活動を繰り広げることになったが、その一方で、マルクス主義的弁証法のイデオロギーにしたがって『構成』という概念を再解釈し、建築設計のなかに取り込んでいこうとする地道で真摯な動きもあった。」(引用は全て田路貴浩著)とありました。田園的なものとしては中世、彫刻的なものとしては有機的で生命的な造形、構成的なものとしては伝統建築とモダニズムの結合という振り幅の大きい表現活動があったようで、いずれにしても人間性や芸術性を建築に取り込もうとした姿勢に私は感銘を受けました。作品の中で私は瀧澤真弓による「山の家」の模型を飽くことなく眺めていました。

19’RECORD4月~6月をHPアップ

久しぶりにホームページにRECORD3ヶ月分をアップいたしました。撮影は昨年終わっていて、カメラマンの準備は万端だったのですが、私のコトバが遅くなってしまい、漸くアップできた次第です。2019年は「~の風景」というタイトルをつけていました。4月は「対峙の風景」、5月は「叢雲の風景」、6月は「浸潤の風景」でした。当時のイメージを思い出してコトバを紡ぎ出しましたが、造形作品のイメージとコトバのイメージは全くの別物で、コトバが造形作品によって左右されることはありません。おまけに時間がたっぷりあるからと言ってコトバを絞りだせるものではなく、ひょんなところからコトバがやってきます。そこのところだけは造形作品と同じかなぁと思います。造形作品の新作イメージも現行作品の多忙を極めている時に、突如やってくることが多々あるのです。造形もコトバも普段から意識をもっているかどうか、何もしなければそれらはそのまま日常雑多な中に埋没して流れてしまうものです。その中から断片を掬い出し、表現まで昇華させていく段階を踏んでいきますが、私は造形に比べるとコトバの詰めが甘いなぁとつくづく思います。それでも恥ずかしくもなくコトバをホームページに掲載しています。今回アップしたRECORD3か月分を見ていただけるのなら、左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉が出てきますので、その中のRECORDをクリックしていただけるとRECORD3か月分に辿りつけるかと思います。ご高覧いただけると幸いです。

「マグマを宿した彫刻家」雑感

昨晩、NHK番組「日曜美術館」で取上げられた故辻晋堂の陶彫について書いてみようと思います。表題にある「マグマを宿した彫刻家」とは、大学時代に辻晋堂に師事した彫刻家外尾悦郎氏が言っていた台詞でした。眼に見えないけれど内面に秘めた師匠のマグマのような強さを感じ取り、外尾氏がスペインに行ってサグラダファミリア贖罪教会の制作に携わった場面で、周囲から理解されない状況に陥った時に、師匠の創作にかける姿勢を思い出していたそうです。40年以上に及ぶ外尾氏の制作活動は、師匠からの心の支えがあればこそ達した境地なのかもしれません。そうした国際的な力量を勝ち得た彫刻家を輩出した辻晋堂とはどんな人物だったのか、私には興味が尽きません。私も学生時代に東京銀座のギャラリーせいほうで個展をやっていた辻晋堂のことは知っていました。その頃、出品していた小さな陶彫作品は彼の晩年の作品と呼べるもので、本人曰く「粘土細工」という言い方に妙な感じが残りました。それでも当時の代表作「捨得」と「寒山」を見ると、飄々とした軽妙洒脱な作りが何とも不思議な雰囲気を漂わせていました。元々巧みな彫刻家なのだろうなぁと私は思いつつ、10年くらい前に鎌倉の美術館で見た大ぶりな陶彫作品には驚きました。「東山にて」という平面性の強い陶彫作品は壁体彫刻とでも呼べばいいのか、まるで古代人の住居を連想させるもので、陶彫の魅力を全面に押し出していました。私が学生の頃は、粘土を焼成するとこんな感じになるのかとの単純な印象しか持てませんでしたが、鎌倉の美術館での展覧会は、私が既に陶彫を始めていたので、忽ち辻ワールドに取り込まれてしまい、土でなければならないイメージ世界に思いを馳せてしまいました。私は地中海沿岸の発掘された都市を出土品のような土で表現したかったため、そこで自分なりの陶彫を展開していく方向性を掴んだと言っても過言ではありません。

週末 成形&故人陶彫家を偲ぶ

今日は朝から工房に篭り、昨日準備しておいたタタラを使って、19点目になる陶彫成形を行っていました。久しぶりに美大受験生が2人工房にやってきました。2人のうち1人は修学旅行に行ったようで長崎のカステラをお土産にいただきました。コロナ渦の影響で、本来なら台湾に修学旅行に行くはずが、九州になったと言っていました。若いスタッフが工房に来ると背中を押される感覚があって、私の制作も進みます。午後になって乾燥した陶彫部品を仕上げて化粧掛けを施そうとしましたが、窯に入れるための組み合わせがうまくいかず、今回の焼成は見送ることにしました。その分彫り込み加飾を多少でも先に進めることにしました。このところ週末は陶彫一辺倒ですが、夜になってNHK番組「日曜美術館」(再放送)を見ていたら、故人陶彫家を取上げていて、私の興味関心を一気に持っていかれました。その人の名は辻晋堂で、私のNOTE(ブログ)にも複数登場しています。「辻晋堂の彫刻」(2008年11月12日付)、「鎌倉の『辻晋堂展』」(2011年2月2日付)、「『辻晋堂展』で陶彫を考える」(2011年2月3日付)、「壁体彫刻の魅力」(2011年2月9日付)とアーカイブを数えると4回取上げています。今晩の「日曜美術館」ではサグラダ・ファミリア贖罪教会の主任彫刻家である外尾悦郎氏が出演し、大学時代の師辻晋堂について語っている場面がありました。外尾氏が学生時代、大事にしていた一本の鑿が師の心に触れたらしく、いつも見守ってくれていたという台詞は私の心も打ちました。スペインに行く前に師から「日本美術家連盟」に入るように勧められて推薦をしてくれたことも言っていました。あぁ、私と同じだと思いました。私も師池田宗弘先生の推薦を受けて「日本美術家連盟」に入ったのでした。「何かの役に立つと思うよ。」と池田先生が言ってくれましたが、私もそこで彫刻家としての自覚が芽生えました。私が辻晋堂という陶彫家を知ったのは、40年以上も前に東京銀座のギャラリーせいほうで池田先生の個展の手伝いをしていた時でした。その後、同ギャラリーの「辻晋堂展」にお邪魔しましたが、とうとう作家には会えませんでした。そんな思い出が甦ってきて、別稿でもう一度「辻晋堂の陶彫」について書いてみようかと思っています。辻ワールドに接すると、私はつい惹きこまれてしまうのです。

週末 制作サイクルについて

週末になりました。ウィークディの仕事から解放される週末ですが、工房での陶彫制作が毎回続いています。新作を作っていると言えども、制作工程は大きく変わるものではなく、土曜日が土練り、タタラを作って翌日の成形に備え、余った時間は既に成形された陶彫部品に彫り込み加飾を加えています。日曜日は土曜日に準備したタタラで新しい陶彫の成形を行います。余った時間は乾燥した陶彫部品があれば、そこから何点かを選び出し、ヤスリで仕上げ、化粧掛けを施して窯に入れます。これを制作サイクルと私は呼んでいて、毎週末になるとこれを繰り返しているわけです。窯入れは乾燥待ちがあるので、毎週出来るものではありませんが、焼成以外の制作工程ならサイクルを回していくことは可能です。今日は朝から工房に籠って、土練りとタタラ作り、午後は彫り込み加飾を行いました。変りばえのしない制作工程ですが、こうした地道な積み上げが大きな成果を生むことを私はよく知っているので、自分の気持ちをコントロールしながら制作に励んでいました。制作サイクルは陶彫の場合と木彫の場合はそれぞれ異なり、木彫が始まれば木彫としての制作サイクルを回し始めます。ただし、木彫は焼成がないため作品が乾燥するまで待つという時間的配慮が必要ありません。制作の進め方は木彫のほうが単純ですが、何時間も鑿を振るうために体力は消耗します。今月はまだ木彫に手を出さず、陶彫一本に絞って制作をやっていきます。明日は成形に入ります。

横浜の「吉村芳生」展

先日、横浜そごう美術館で開催中の「吉村芳生」展に行ってきました。「超絶技巧を超えて」という副題がつけられていた通り、鉛筆で描かれた写実画には目を見張るような驚きがありました。日常のありふれた情景を撮影し、それを明暗の調子に分解し、緻密に写し取った絵画に、通常の具象絵画とはまるで違う世界観を私は感じ取りました。大変な労働の蓄積を見取り、どうしてこのような発想になったのか、この画家についてもっと知りたいと思いました。図録に本人の心境を吐露した文が出ていました。「僕は(中略)白い紙の上にエンピツや絵具で目の前の風景、静物・人物、又はイメージである情景を描写することに限界を感じていた。それは、自分の三次元空間のデッサン力のなさ、イメージの貧困などから来たものなのかもしれないが、終いには絵を描くことが苦痛になっていた。~略~先生からは、図面を整えることをいわれ、自分の描きたい意図が上手く伝わらない。どうすればいいのだろう、と模索していた時にみた、アメリカの現代美術展に大きなショックを受けた。写真をそっくりそのまま写した作品がある、大きなキャンバスを一色で塗りつぶした作品がある。」こうした出会いが現在の行為を生み、芸術性を高めていったと私は思いましたが、新聞紙に自画像を描き込んだ「365日の自画像」を見ていると、所謂スーパーリアリズムとも一線を画する仕事ではないかと感じました。図録の解説を引用いたします。「『機械文明が人間から奪ってしまった感覚を再び自らの手に取り戻す作業』と幾度も語っているとおり、あくまで主眼にあったのは、写す”行為”そのものだった。だからこそ、新聞・金網そして写真も、『ほんものをそのまま映す』と言いつつ、どれも近づいてみるとその手作業の痕跡やムラが見て取れるような描き方がされている。~略~吉村がきわめて私的なレベルにおいて重要視した、描く”行為”そのものに対する執着は、彼にとってのじつに純粋なコンセプトとして結実していく。自己と向き合い、日々を写し取る”行為”を延々と続けていくこと。それこそが、彼が目指した自分にしかできない芸術だったからだ。」(高田紫帆著)

桃山茶陶の開花について

東京国立博物館平成館で開催中の「桃山ー天下人の100年」展は、絵画に限らず、私にとって興味が尽きないものばかりが並び、日本の伝統文化の重厚感に圧倒されてしまう展示内容でした。安土桃山時代は日本陶磁史上最も隆盛した「茶の湯」があり、「侘び」という認識が確立された時代でもあります。その中で堺の商人から天下人の茶頭にのぼりつめた千利休やその後継とされる古田織部が登場し、日本独特な「桃山茶陶」が出来上がったようです。図録によると千利休は「生来の進取の気性に加え、政治的能力にも恵まれ、織田信長、そして信長没後は羽柴(豊臣)秀吉の茶頭をつとめた。」とありました。利休の鑑識眼は、当時としては革新的で現代にも通用する美学があると私は思っていて、その具現化のために陶工長次郎に焼かせた楽茶碗は、無駄を削ぎ落した造形の極みと私は感じています。「従前の茶碗にとらわれず、手づくねと箆削りによって手になじむ形が追求され、聚楽土そのものの自然な焼き上がりを見せる赤茶碗と、黒一色の黒茶碗が生まれたのである。」次の時代を担った古田織部は、図録によると「一般に『ヘウケモノ』を好んだ人物として、『変形』『豪快』な茶陶のイメージと結びつけられることが多い」とされています。展示されていた「織部松皮菱手鉢」は当時としては前衛そのものであったように思います。解説によると「深い緑釉と、鉄絵による網干や唐草らしき複雑な文様表現が際立っている。いかにも華やかで斬新であり、力強い慶長の気風を映すような桃山茶陶の傑作である。~略~究極まで技巧を尽くしたその作風は、織部焼、ひいては和物茶陶の到達点とも見える。」とあり、自由闊達な造形表現が従来大陸から伝えられた形式を覆していく時代だったのだろうと考えられます。桃山茶陶の最後を飾る芸術家は本阿弥光悦だろうと私は思っています。マルチなアーティストとして俵屋宗達とコラボした「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」がありますが、光悦は作陶やさまざまな工芸にも優れた作品を残しています。図録によると「美を享受する立場。鑑賞体験をもとに新たな造形を創造する。仕事ではなく作ること、それ自体を楽しめる時代、個人芸術家の時代が訪れたのである。」とありました。いよいよ美の認識が現代に近づいてきたという感覚をもったのは私だけではないはずです。

複数の「洛中洛外図屏風」を比べる

東京国立博物館平成館で開催中の「桃山ー天下人の100年」展は、その出展作品の内容や展示の視点から見ると、大変大がかりであり、また興味が尽きないものばかりで、日本の伝統文化の重厚感に圧倒されてしまいます。昨日のNOTE(ブログ)では主に時代背景を書きましたが、今日は私にとって最も関心の高い「洛中洛外図屏風」について述べていきます。本展には「洛中洛外図屏風」が複数展示されていて、その魅力を余すところなく発揮していると感じました。古いものは「歴博甲本」と名付けられていて、図録には「本作は近年土佐派作とする可能性も提示されており、洛中洛外図の祖型の成立を考えるうえできわめて重要な作品」とありました。室町時代の制作です。次に「上杉家本」と名付けられているのは、同じく室町時代の若き狩野永徳によるもので、図録には「京都のランドマークが金の雲間からのぞき、墨書きされた場所の名称は235か所にのぼる。僧俗貴賤の階級も問わず、2500人近くの老若男女が描き込まれている。」とありました。私はこの作品の緻密さに魅せられてしまい、暫し鑑賞に時間を使いました。次は江戸時代の作品で、図録によれば「現存する『洛中洛外図』のなかで最大のもの」とあり、大画面全体にわたる鮮やかな色彩に眼が奪われました。次は「勝興寺本」が続き、徳川家康により造営された二条城が姿を現します。「二条城を左隻の中心に大きく配することが『洛中洛外図屏風』の定型となった。」と図録にあり、これも狩野派の画家によるものと考えられています。江戸時代に岩佐又兵衛によって描かれた「舟木家本」にも私は眼が奪われ、とりわけ画中の庶民の姿を追ってしまいました。「この屏風で画家が描きたかったのは、庶民の姿、それも後に二大悪所と呼ばれる歓楽街、遊里や歌舞伎の場に集まる人びとであり、画面に散見される風紀を乱すような人びとのさまざまな姿、浮世を楽しむ姿である。」と図録にあり、まさに当時の風俗が俯瞰される視点で描かれていたことが、楽しくもあり、また驚きでもありました。空中を飛行するものがなかった時代に、こんな鳥瞰図が描かれたこと自体に感動があり、また位置関係を隠すために金の雲で覆って、あたかも金色の都市を象徴するような工芸品にまとめ上げていることが凄いなぁと思っています。本展は「茶の湯」にも重要な作品が展示されており、さらに別稿を起こそうと思います。

上野の「桃山ー天下人の100年」展

先日、東京上野にある東京国立博物館平成館で開催中の「桃山ー天下人の100年」展に行ってきました。コロナ禍の中の展覧会で、ネット予約で入場したため大変な混雑はなく、全体をゆっくり見て回れました。展示されていた作品はどれも迫力を纏っていて、その伝統に立脚した表現力に我を忘れることが暫しありました。本稿だけで感想が収まりきれるものではなく、まず手始めに桃山とはどんな時代だったのか、これを図録から拾ってみたいと思います。展覧会の作品を古い順に見ていくと、室町時代末の天文年間から江戸時代初期の寛永年間までのおよそ100年の間に制作されています。作品はどれも織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など日本史に名を残す戦国武将が群雄割拠した時代に制作されました。図録の文章を引用します。「この時代には、戦国時代の政治・経済の展開と歩調を合わせるように、中央集権的で力強くエネルギーに満ち、庶民階層まで視野に入れた世俗的で広がりのある文化が生まれた。この文化は、豪華絢爛な美術作品が爛漫と咲き誇る桃の花を連想させ、『桃山時代』と呼ばれた。~略~街には奇を好んだ無頼の『傾奇者』が溢れ、それを写した『かぶき踊り』も誕生している。美術の分野では新しい様式による作品が陸続と作り出され、この時代の様式を『桃山様式』と呼んでいる。~略~日本の中世絵画は、水墨画を中心に展開していった。その中心となったのは狩野派であり、室町時代後期に活躍した狩野元信、安土桃山時代の狩野永徳、江戸時代初期の狩野探幽は、いずれも各時代の様式を作っていった画家である。」(田沢裕賀著)この「桃山時代」は、日本文化史の中で独特な時代と呼んでもいいのでしょうか。当時流行した「傾奇者」(かぶきもの)とは奇を衒う前衛の美意識ではないかと私は思っていて、現代にも通じる要素をあらゆるところに感じています。現代こそ「傾奇者」で成り立っていると考えられるからです。さらに本展の展示に面白みを加えていたのは、狩野永徳の「唐獅子図屏風」と長谷川等伯の「松林図屏風」が隣り合わせにしたことで、表現の幅が象徴から具象、動と静、力強い筆致と濃淡で抑えた空気感を比較検討できたことでした。こればかりではなく、「洛中洛外図屏風」もいろいろなバージョンが複数展示されていて、その違いに興趣をそそられました。また別稿を起こします。

11月RECORDは「黄」

今年のRECORDは色彩をテーマにしてやってきています。今年は残すところあと2ヶ月で、漸く色彩のテーマを終えることが出来ます。11月に「黄」を選んだのは、まさに工房の周囲の木々が紅葉していて、窓から見る黄色の風景が美しいと感じたことがきっかけです。自然の中で黄色をイメージするのは、紅葉の木々だったり、果物だったりしますが、芸術の世界でも黄色を作品の中心に据えた画家がいます。代表としてはフィンセント・ファン・ゴッホでしょうか。その中でも「ひまわり」は有名で、花弁にさまざまな黄色が使われています。ファン・ゴッホの秋の農村の風景を描いたものも有名で、黄色を重ねていく筆致に溢れ出す表現が見て取れます。ワシリー・カンディンスキーも黄色に注目した抽象画家で、黄色が画面の中で効果的に使われていました。彫刻家若林奮も硫黄を造形の一部に使っていて、その独自な世界が印象的です。黄色はバリエーションも豊富で、私が使用しているアクリルガッシュにもさまざまな黄色がありますが、黄色は三原色のために混色して作り出すことが出来ません。黄色のイメージとしては太陽などが明るく輝いている情景が目に浮かび、生命に対してポジティヴな印象です。私自身は今までのRECORDに黄色を使うことは滅多になく、実を言うとあまり得意な色彩ではないのですが、今月は黄色を研究してみようと思っています。黄色は隣り合う色彩によって効果が変わるようで、その配色の組み合わせも考えながら、今月のRECORDを作っていきます。

週末 成形ではなく加飾優先

朝から工房に篭りました。週末となれば、新作の陶彫成形を1点追加するところですが、今週末は成形をやめて、今までの成形分の彫り込み加飾をやっていました。昨日は東京と横浜で開催中の展覧会を巡っていたので、タタラ等成形の準備が出来なかったこともありますが、彫り込み加飾が遅れ気味で、これを何とかしなければならないと考えていました。制作途中の陶彫部品は水を打ってビニールで覆っておきます。それでも時間が経てば陶彫部品の乾燥が進んでしまいます。彫り込み加飾も長く放置することが出来ず、陶土が柔らかいうちに作ることがベストです。彫り込み加飾は作業台に陶彫部品を置いて、鉄ベラで陶土を削って、木ベラで表面を成らしていきます。これはレリーフを作っているのですが、手の混んだ文様にしようと思えば、かなりの時間を使います。まさに工芸的な作業です。今日は一日のほとんどをこの作業に費やしました。彫り込み加飾は、陶土表面の高さの調整をしたり、膨らみや凹みを作ったりしていて、決して退屈なものではなく、むしろ時間を忘れるほど楽しい作業です。労働の蓄積が残っていくので、緻密になればそれなりの効果はあるのですが、立体全体を見渡して作っていくので、いつまでも近視眼的になっているわけにもいかず、やはり彫刻の一部という意識はあります。今日の夕方は乾燥した陶彫部品にヤスリをかけ、化粧掛けを施しました。工房を出る前に窯に3点の作品を入れました。新作の窯入れはこれで3回目になります。今日は新しい成形をやらなかったことが気がかりですが、今月は三連休があるので何とかなるでしょう。また来週末も頑張りたいと思います。