「RECORD」は正三角形

今月から新しい「RECORD」を日々作っています。前にブログに書いたように昨年のように自由気儘に描くことはやめて、法則を決め1ヶ月間はやってみようと思っています。今月のテーマは「正三角形」。画面のどこかに同じ大きさの正三角形が登場し、そこから展開する作品にしています。昨年より退屈になったり、苦しい展開になったりしていますが、ここが頑張りどころです。ただし模索している状況からすれば充分に意味があることではないかとも思います。正三角形は完結したカタチをしていて、線や面を加えることを拒絶するカタチです。画面真ん中に置くと何も出来なくなります。ずらしてみて初めて不安定要素が出来て、そこから展開していくことが可能になります。展開要素も絞り込んで、最小の要素で最大の効果を生むにはどうしたらよいかを考える契機にしたいと思っています。          Yutaka Aihara.com

杉材にある裂け目

今まで木彫には集成材や合板、一木であればヒノキを使ってきましたが、今回の木彫はあえて裂け目のある杉を使うことにしました。木は長い樹齢を生き、やがて人の手によって伐採されて材木になります。材木が乾燥する時に生じる反りや裂け目は、いわば木が生きていた証であると考えます。自分はそれが造形の妨げになると思って、裂け目が無く木目が均等である高価な木や加工された木を使ってきましたが、今回は裂け目をあるがままにして、むしろそれを造形の一部としていこうと思っています。以前作ったテーブル彫刻に廃材を利用したことがあります。今回も木のもつ自然な姿をそのまま利用しようとしているのです。建材であれば裂け目を表に出さないことがあると思いますが、アートは違います。木が林立する姿を表現するのに裂け目も必要なのです。これからどう素材と向かい合っていこうか鑿と木槌で杉の柱と対話しながら進めていこうと思います。               Yutaka Aihara.com

「RECORD」4月・5月アップ

昨年作っていた「RECORD」の4月分と5月分をホームページにアップしました。昨年はペンで素描するのが楽しくて、アクリルガッシュで淡彩をしていました。また職場では新しい担当になって右往左往していました。多忙な仕事の合間に何とか気力を出して制作していたことを思い出します。まだまだ先が長いと思っていたのですが、時間はあっけなく過ぎて、もう次の「RECORD」に取り掛かっています。昨年の作品を改めて見ても、まだ自分の感覚が変わった気がしません。少し条件を変えて延長線上の制作をしている感じです。そんなに人は変われるものではないのでしょう。今日も[RECORD」を描き、このブログを書いて一日を締めくくるとします。なお、ホームページにはこの文章の最後にあるアドレスをクリックしていただけると入ることができます。                    Yutaka Aihara.com

集合彫刻「構築〜起源〜」

三連休の最終日は木彫の次なるイメージです。当初考えていた柱を組んでユニットを作り、場を構成するイメージは次第に変わってきています。今は柱のままで場を構成するイメージになりつつあります。こだわっていた木組みは諦めました。柱だけを強調する集合体に落ち着きそうです。床から立ち上がる柱の群れ。自在に置かれる柱は森のようであり、群集のような空間を創りだすと考えました。今日は試作をやりました。仮に「起源」と題名をつけました。今までやってきたテーブルではなく、単なる集合彫刻です。今回は柱に杉材を使っています。彫りを確かめながら、また木目を見ながら1本だけ荒彫りをやってみました。よしとなれば数十本を注文しなければなりません。柱の彫りだけの作品ならば雛型は作らず、いきなり彫っていこうと思います。「構築〜起源〜」のスタートです。

陶彫ランプシェード「街灯」

三連休の中日にあたる今日は陶彫ランプシェードの新作成形をやっていました。ランプシェードの題名は「街灯」にしました。昨年「街灯−A」と「街灯ーB」を完成させています。今日は「街灯ーC」に取り組んでいました。いずれも照明器具が入って内側から陶彫を照らす計画です。「街灯」シリーズはまだまだ続く予定です。もうひとつ、「壁灯」と名付けている作品があります。これは板壁を照らすように作った作品で、照明器具を陶彫で隠しました。板面を照らすためマチエールや木目を見てから板材を選んでいます。板面に当たった光が木目を浮き立たせ、まるで炎のように見える時があります。これも面白い効果が期待できるので、まだまだ続けていこうと思います。というわけで、この三連休は次作に向かうイメージを広げる時間として大変貴重な休日です。先日のグループ展で発表した「構築〜解放〜」を制作している最中からスタートしている次作のイメージですが、本格的にはこの三連休から始まっていると言えます。

ジャコメッテイ・肖像画

ムアに防空壕に避難する人々を描いた素描があるとすれば、ジャコメッテイにも高い表現力をもつ素描や油絵があります。自分はこのジャコメッテイの平面表現に魅かれ、ジャコメッテイの展覧会がある度に、ジャコメッテイの素描か油絵を見られるのではないかと期待して出かけていました。06年の7月に葉山の近代美術館であった「ジャコメッテイ展」を見て、2年前のブログにその時の感動を載せています。油絵が何点も展示されて、いずれも灰色に塗られた画面から正面を向いた顔が現われ出ていました。真実を掴もうと格闘した跡。幾筋も引かれた線。消されて再び引かれる線。切り裂くような線。輪郭ではなく立体を掴もうと迷ったり走ったりする線。色彩も線と同じように描き出す要素として扱われ、絵の具を平たく塗る行為は見受けられません。そんな素描や油絵は、ジャコメッテイの作る細く削り取られた量感の無い彫刻と同じスタンスで描かれたものです。何をやってもジャコメッテイ。一目でわかる独自の表現。そんなところが偉大なのだと思います。  Yutaka Aihara.com

ジャコメッテイ・現実を掴む

ジャコメッテイの彫刻は、ムアからやや遅れて、図版によってその存在を知りました。細く削ぎ落とされた人体。大きめの台座から陽炎のように立ち、人の存在自体が無くなってしまいそうな表現。当時ムアばりの豊かな量感を求めていた自分にとって、初めジャコメッテイは関心のある作家ではありませんでした。そのジャコメッテイに興味を持ち始めたのは、日本人による書物によってでした。ジャコメッテイのモデルをつとめた矢内原伊作による著書を読んで、ジャコメッテイの真摯な制作姿勢に打たれてしまいました。ジャコメッテイが現実の空間を自分なりの解釈で掴むために、昼夜を分かたず奮闘し、作っては壊し、壊しては作る毎日を繰り返している様子が文章から伺えます。本人から見た立体を手前から後ろに至るまで、空間を正面から真っ直ぐに捉えようとして、あのように細くなってしまうようです。それは空間に関する新しい解釈であると感じました。量感を持たない彫刻表現に自分を向かわせた第一歩がジャコメッテイでした。

ムア・防空壕の素描

彫刻家が描くドローイング(素描)には傑出したものが数多くあります。ヘンリー・ムアの描いたドローイングの中でも、第二次大戦中に地下鉄の防空壕に避難した人々を描いた一連の作品は完成度の高さから言っても、世界最高の素描のひとつであることは間違いありません。自分は学生時代に美術館で見て、たちまち虜になってしまいました。人々が横たわる地下鉄構内は異様な雰囲気が漂い、黙して語らぬ群集がこうあってはならないと、表現として雄弁に語っている声が聞こえてくるようです。しかもムアの彫刻的イメージと結びついて、いずれ立体としても作れそうな描写です。当時20代の自分はドイツ表現主義の木版画に打たれ、こうしたムアの素描にも打たれて、生命の尊厳や激しさを求めていたのかもしれません。          Yutaka Aihara.com

ムア・内なる空間

豊かなボリュームをもつ彫刻で知られるイギリス彫刻界の第一人者ヘンリー・ムアは外に向かうボリュームだけでなく、彫刻の内側にもボリュームをもつ構造でも知られています。彫刻に穿った「穴」の造形をムアから知り、内側にも空洞というマイナスの空間があることを認識しました。つまり外と内にそれぞれ空間がある二重構造になっているのがムアの特徴です。これはあらかじめ内側を空洞にしなければならない陶彫の技法では、大変都合のよい空間解釈になります。陶彫は簡単に言えば陶器の壺に穴をあけることにより内側の空間を意識させるというものです。器の機能はなくなりますが、まさに外と内の二重構造をもつ彫刻に生まれ変わるのです。内なる空間は壁で遮られた空間であり、また秘められた部分とも思えて、覗いてみたい気持ちにさせられます。さらに全体構造を捉える意味で外と内に広がる空間は、視覚あるいは触覚を楽しませてくれるものでもあるのです。        Yutaka Aihara.com

ムア・在るがままの存在

河原で石ころを拾うと思わず「これはヘンリー・ムアだ」と呟いてしまうことがあります。水に洗われ風に晒されて造形された小さな石ころが、まさにムアの作る彫刻に近いボリュームを感じるのです。在るがままの自然(存在)、これがムアの彫刻なのかもしれません。自分は学生時代に人体を塑造することで彫刻の世界に足を踏み入れました。ボリュームのある塑造が自分の理想でした。イギリス彫刻界の第一人者であるヘンリー・ムアの豊かな塊をもつ彫刻は自分の理想でした。自分が憧れた軽やかな造形はその後に出てくるもので、初めはロダンでありマイヨールであり荻原守衛であり、やや抽象傾向を求めるとすればムアでした。抽象傾向と言っても大地から現れたような存在感をもつムアの彫刻はまさに具象の王道をいく造形とも言えます。母子像のようなテーマは命の源を表現していて、その大きさに健康的な精神が宿っていると感じています。                    Yutaka Aihara.com

搬出という幕引き

「構築〜解放〜」は第一幕の役割を終えて解体しました。またまた手伝いの方々の手を煩わせて丁寧に梱包されてしまいました。今度いつお目見えするのか見当がつきません。「RECORD」もエアキャップで包まれました。額は来年も使う予定ですが、次はどんな作品が納まることになるのかこれも見当がつきません。展覧会をやってしまうと作品は一人歩きを始め、自分の手を離れます。梱包されて戻ってきても何か違うモノになっています。カメラマンが撮影にやってきて映像として残すことはしていますが、それは映像という表現に生まれ変わって、また別の世界を作ることになります。というのは記録的な要素だけでなく、さらに一歩踏み込んだ写真ならではの表現になって、それはそれで面白いのですが、実体としての存在を示すのはまた次の機会を待たなくてはなりません。今日は搬出という幕引きに一抹の寂しさを残して横浜での発表を終えました。 Yutaka Aihara.com

至福のひと時

横浜市民ギャラリーには雪にも関わらず多くの方々が来られました。児童生徒作品展を見たついでとはいえ、私たちのグループ展も盛況でした。自分にとって一番嬉しいのは、自分に関わりのある若い世代の来客です。美大生や美大を目指す10代の子たち。自分と同じ道を歩もうとしている彼らは期待とヤル気と不安を抱えてやってきます。出来るだけサポートして希望を叶えてあげたいと思っています。受験前の不安を訴えたり、創作活動の手段や方法を相談されたり、アートの意味を問われることもありました。アートは生涯教育としても最高のものだと思います。その素晴らしさを多くの人にわかってもらえればと願い、丁寧な応対をしています。いや、しているつもりです。それは自分のとっては至福のひと時でもあります。師匠からいただく厳しい刺激と若い世代からいただく純な気持ち。そんなことに支えられて創作を続けられる自分がいます。                     Yutaka Aihara.com

美術鑑賞のノウハウ

今日は終日横浜市民ギャラリーにいました。今日だけで1000人を超える入場者がいて大盛況です。というのも同館3Fでは児童生徒作品展が開催されていて、小中学生やその家族の方々が作品展を見に来たついでに私たちのグループ展を見ていくのです。昨年もブログに書きましたが、今年も小さな子どもたちが美術作品にどんな反応を示すか観察することしました。全身で興味を表す子どもたちの反応はとても参考になるのです。アートは理論や哲学が必要ですが、同時により本能に近い子どもが示す態度も軽視できません。しかしながら今日は気になったことがありました。作品によっては体験型の遊戯を伴うものもあるのですが、私たちのグループ展はそういう表現はなく、眼で見て鑑賞するものばかりです。そこに親子連れがやってきて、子どもが私のテーブル彫刻の下に潜り込み、顔を出したところを写真に撮る親御さんがいました。思わず注意を促してしまいましたが、補強金具を使っていない私の彫刻が倒れてきたらどうなるのかと思うとちょっと焦りました。それよりも小さな子どもに対して美術作品の鑑賞のノウハウを親御さんは教えるべきではないでしょうか。将来に向けて文化遺産を大切に扱う心を育てるのはこうした小さな頃の体験によるところもあろうかと思います。市民ギャラリーはそうした教育の場でもあると考えます。自分たちの作品を云々することを言っているのではありません。展示されているものをどう鑑賞するのか、市民意識の高まりを期待したいところです。

寒い2月に思うこと…

2月になりました。昨年の2月1日は「RECORD」制作の第一歩でした。また今日からセカンドシーズンの第一歩が始まります。彫刻の新作も考え始めています。陶彫ランプシェードは既に制作が始まり、成形が終わって乾燥させているところです。継続は力なりというコトバを信じて、日々時間を作ってやっていくつもりです。さしずめ今月は陶彫を中心に仕事を進めていきます。乾燥している冬場は陶土にとってあまりいい季節とはいえませんが、時間的に余裕のない自分には仕方がないことです。木彫の大作が終わったので次は陶彫でカタチを考えていき、いずれはこの2つの素材が両輪のようになって、ひとつにまとまるといいなと願っています。寒い2月の作業場でこんなことを思った一日でした。                  Yutaka Aihara.com

キーファーの巨大絵画

現代ドイツ絵画を代表する画家にアンゼルム・キーファーがいます。何年か前に箱根の「彫刻の森美術館」でキーファーの個展がありました。美術館にある絵画館で高い天井まである壁一面に掛けられた巨大絵画の数々が、観る者を圧倒していました。自分もその一人でキーファー芸術の持つ迫力、存在感に魅せられていました。風景画と呼ぶにはあまりにもスケールが大きく、広大な大地を様々な廃材や炭化した木材、麦わらの束を付着させて表現していました。歴史という時間が凝縮されたような風景画でした。またドイツが戦争で負った闇の遺産とも言うべきテーマも白昼にさらけ出すような表現もありました。そうしたものを全て含めて、ドイツの現実と向き合って制作している姿勢が伝わりました。大戦前にドイツ表現主義が独裁者によって頽廃芸術として扱われ、大戦後もしばらく後遺症に悩んだドイツ画壇に対し、キーファーは新風を吹き込んだ作家ではないかと思います。        Yutaka Aihara.com

構成要素を考える

明後日の2月1日から始まる「RECORD」セカンドシーズンに先がけて、1ヶ月30点余りの作品をどのようにしていくかを考えました。作品には平面としての構成的傾向をもつ作品と半立体としての構成的傾向をもつ作品があります。これが単一または複合されて生み出す作品があります。また平面としての描写的傾向をもつ作品があり、これも単一または構成的傾向をもつ作品と複合されて生み出す作品もあります。こうした傾向をたとえば5日間ごとに変えて、6パターン作れば1ヶ月分になります。次のシーズンは気儘に変わる傾向ではなく、発想を型に押し込めて、そこからどこまで自由になれるかを自分に問う1年間にしたいと考えています。今回の反省を逆手にとって、出来る限り不自由な条件を自分に課し、そこから自由な発想を生み出す試みをしていくつもりです。                  Yutaka Aihara.com

搬入と組み立て

明日から始まるグループ展の搬入をしました。午後業者が作品を取りに来て市民ギャラリーに運送、組み立てには美大生らが来てくれて、2時間程度で「構築〜解放〜」を組み立てました。今回の作品は昨年よりまとまりがあるように感じました。先がしだいに鋭利になるように彫った柱がすべて中心から外へ向かう動きを作っていたので、全体の構成がかなりシンプルになり、まとまりが出てきたようです。角度の計算もうまくいったように思います。昨年と同じテーマを追いかけてよかったと素直に喜びました。「RECORD〜365点の連作〜」は時間の蓄積があって実を結んだ結果になりましたが、イメージの自由さは感じられず、欲を言えばまだ実験的な試みがあってもいいのではないかと思いました。作品をまとめ過ぎた嫌いもあります。これはセカンドシーズンに今日の振り返りを生かしていきたいと考えました。例年のように手伝ってくれた人たちと夕食をして、今回のケジメをつけました。あとは来ていただく方々の感想を待つばかりです。         Yutaka Aihara.com

[RECORD」2シーズンへ

昨日ブログに書いた立体に加えて、「RECORD」セカンドシーズンも脳裏に去来しています。07年2月から08年1月までの365点は、とにかく作ることに精を出して、見通しをもったテーマは考えてはいませんでした。むしろ出来るだけ過去のイメージに囚われることなくやっていこうとしたのですが、なかなかうまくいかずに悩みました。セカンドシーズンは逆に手枷足枷をはめて不自由な中で、どのくらい自由にイメージが展開できるかやってみようと考えています。用紙は一部欠落した不定形なものを使おうと思います。1ヶ月でテーマを変えます。今までの365点のように何となく変化していくのではなく、1ヶ月ごとにイメージをコントロールしていきます。こうした禁欲的な方法で1年間。うるう年なので366点。どこまで出来るか試してみたい意欲に駆られています。

次のイメージへ…

「構築〜解放〜」がカタチになってきた時から、次のステップへのイメージが脳裏に去来するようになりました。木彫ではまだまだ柱にこだわっていこうと考えています。柱を30本使い円錐を描くように立てて構成したのが昨年の「構築〜包囲〜」。34本で逆円錐状に中心から外へ向かうように構成しようとしているのが今年の「構築〜解放〜」です。今イメージとしてあるのは柱による骨組みでユニットを数個作り、それを場によって構成するものです。つまり「集団」を作っていこうとしています。床にころがり、床から立ち上がり、また壁に寄りかかる「集団」です。柱もある程度細めの方がいいと考えています。木を主張してはいけない表現になるからです。細い鉄でもいいかもしれませんが、今は木組みに面白さを感じているので、もう1年は木で作ろうと思います。次はどんな作品になるのか、またイメージを追いつつ制作する日々が待っています。

梱包に明け暮れた一日

週末だけとはいえ1年間かけて作った作品を、ほとんど丸一日かけて梱包しました。エアキャップを始めとする梱包材を作業場に山のように持ち込んで、集合彫刻の部品を次々に包みました。今回も「構築〜解放〜」と表書きをしておきます。搬出してから倉庫に入れる時に前作と区別がつかなくなるからです。まだ彫刻を始めたばかりの頃は、梱包に時間をかけるなんて意味がないと思っていました。確かに小品ならば時間はかかりません。でも今は梱包は大事です。作品が集合体なので、ひとつでも欠けると困るし、今回のグループ展が終わった後、またいつこの作品が展示できるのか見当がつかないのでしっかり梱包して倉庫に保管しておくのです。明日はボルトナットの確認や「RECORD」にヒートンをつける等、細々とした搬入準備をする予定です。                             Yutaka Aihara.com

「RECORD」梱包前に…

365点の連作が終わりに近づいています。残り数日ですが、これを出品するグループ展の搬入日が29日なので少々困っています。今まで一日一枚のペースで作品を作ってきましたが、展覧会開催中に残り2枚を作らねばならず、おまけに展示されている額をはずして、2枚の作品を額に収めなくてはなりません。これはかなり手間がかかるので、ここは「RECORD(記録)」ならず未来の作品を予め作って、出来ている1月分の作品と一緒に額装して梱包してしまおうと考えました。明日から梱包を始めるので、何とか間に合わせようと今日は必死でした。小さい作品なれど、いっぺんに何点も作るのは楽ではありません。最後は粗雑にしたくないので、あれこれアイデアを捻り出して作ってみました。う〜ん、出来はギャラリーで展示してみて考えることにします。                        Yutaka Aihara.com

グループ展案内状は「蛙」

今年の横浜のグループ展の事務局をしているのは自分の大学の後輩で、まだ20代の若い造形作家です。彼は数年前に恐竜の骨を木彫し、現在は大きなドラゴンを制作している具象系の作家ですが、彼がデザインしたグループ展の案内状がとても面白く人目を引く出来栄えです。案内状のデザインになったのは蛙です。正面を向いて手を広げた姿態が「ゲテかわいい」感じです。ゲテモノ的な可愛らしさが気に入りました。ただし蛙の苦手な人にはつらいかもしれませんが…。その案内状を知人・友人に今日発送しました。グループ展のインフォメーションを記しておきます。名称は「サクレ展」。場所は「横浜市教育文化センター1F市民ギャラリー」。JR線・市営地下鉄とも「関内駅」下車。大通公園に面したレンガの建物です。会期は1月30日(水)から2月4日(月)まで。各日10時から18時、最終日は16時までとなっております。ご高覧いただければ幸いです。          Yutaka Aihara.com

大リーガーのコトバ

昨晩放映されたNHK「プロフェッショナル」は面白くてワクワクしながら見てしまいました。これは正月に放映された続編で、正月に見て刺激を受けたので今回も期待をしていました。インタビューを受けた人は大リーガーのイチローです。彼の口から出るコトバ一つ一つに思わず頷き、道を極めようとする思考は野球に限らず美術にも通じるものがあると思いました。「満足をすると次に何かが出てくる」というイチローのコトバで、満足できないからこそ次の作品を作るんだと言っていた自分の考えはひっくり返されてしまいました。確かに夢中で取り組んだ作品に満足をしている自分がいて、さらにもっと満足できる空間を目指したいから、また次の課題が生まれてくるというのが正直なところです。バッドが身体の一部というくだりも、彫刻の道具も同じと思いました。久しぶりに刺激をもらった番組でした。     Yutaka Aihara.com

カルダーの浮遊空間

アメリカの彫刻家にアレキサンダー・カルダーがいます。モビールを考案した巨匠です。カルダーのモビールを知ったのは学生時代ですが、その頃は自分は量感のある具象彫刻を作るにはどうしたらいいのかをずっと考えていました。師匠の池田宗弘先生の作り出す真鍮の彫刻は量を削ぎとって、思い切り空間を意識した造形でした。そんな対極にある師匠の造形に憧れ始めていた頃に、さらに衝撃的だったのがカルダーのモビールでした。針金によって宙吊りされた鉄の板がゆらゆら揺れている様子は、風によってカタチが変化して、見ているこちらも軽やかに空間と遊べるような錯覚に陥りました。板に施された鮮やかな色彩も瀟洒な感じがしてモダンでした。カルダーは若かりし頃、針金で小さなサーカスを作って遊んでいたことを知り、彫刻領域の広さを感じました。造形には遊びの要素が大切と今でも思っています。  Yutaka Aihara.com

風呂場の改装

自宅の風呂場と洗面所の改装工事をすることになりました。この家に住み始めてかれこれ20年。毎日使うところは早く駄目になるようで、そろそろ改装をしなければと思っていたところです。今でも古い感じはしないのですが、展示場で見る風呂桶はモダンで使い勝手が良さそうに感じました。曲面が人を包み込むように出来ていてオブジェのようでした。少し割高な気はしましたが、そんな曲面を多用した風呂桶に決めてきました。ホッとできる空間が欲しいと思うこの頃です。                    Yutaka Aihara.com

身体が冷えて…停滞

昨日、テーブル彫刻の裏面を油性塗料で仕上げ、一日置いて様子を見ました。裏面はすっかり乾いていて、まずまずの仕上がりになっていました。ところが作業場はシンナー臭が消えていなかったので、今日は窓を全開にして作業することにしました。ストーブを焚いて服を着込んでいたのですが、夕方になると身体がだるくなり、作業が進まなくなりました。どうやら身体が冷えたらしくシンドい思いをしています。それでも陶彫ランプシェードの成形を行い、「RECORD」を描いていました。予定はなんとかクリアして帰宅しました。気候を侮ってはいけないと思った一日でした。      Yutaka Aihara.com

テーブル彫刻裏面塗装

「構築〜解放〜」のテーブルになる部分の裏面を塗装しました。表面は年末年始にかけて砂を硬化剤で固めた上に油絵の具を飛び散らせてマチエールを作りました。テーブル部品は全部で8枚あります。それがひとつの環になって、34本の柱で支える構造になります。裏面は防腐のために油性塗料を用います。そのせいでシンナー臭が作業場中に漂い、長い作業はできません。今日は塗装がすべて完了したところで作業を終えました。大きな作品は何かちょっとしたことで丸一日要します。今のところ制作は着実に進んでいる気がしていますが予断は許しません。搬入した日に会場で組み立ててみて初めて作業が終了するのです。貴重な週末の時間です。明日は「RECORD」と陶彫ランプシェードに取りかかり、夕方は梱包材を購入してくる予定です。

ニーベルソンの黒い壁

アメリカを代表する女流彫刻家ルイーズ・ニーベルソンの作品は一度見たら忘れられない印象が残ります。黒く塗られた箱状の作品。その中にやはり黒く塗られた様々なカタチが詰め込まれていて、それが壁のようにそそり立っている彫刻。呪術的な祭壇のようでもあり、廃墟のようでもあり、ひしめいた人々のようでもある雰囲気に何とも言いがたい不思議な感動があります。20世紀のプリミテイブアートです。アフリカに古くから伝わる民族的仮面に似た造形要素をもっています。自分の陶彫もニーベルソンの立体から影響を受けていると感じています。自分は学生時代からずっとアメリカの彫刻家としてイサム・ノグチ、ニーベルソン、カルダーの3人に注目してきました。3人3様のところがアメリカらしくていいと思っています。その中でも自分はニーベルソンに近い作品を作っていると自負しています。       Yutaka Aihara.com

チャドウイックの彫刻

イギリスを代表する彫刻家の一人にチャドウイックがいます。ゆったりとした曲面をもつムーアに対して、チャドウイックは面で構成された塊に細い足のついた人体を作っています。自分はこの形態感が好きで、いろいろな美術館でチャドウイックの作品を見かけると、つい佇んで見てしまい時間が経つのを忘れます。重量のある鉄や銅で出来ているにも関わらず、軽みを感じさせるフォルムです。細い足で大きな塊を支える構造が不安定とも浮揚ともとれて不思議な空間を感じさせてくれます。自分の作品にもそんな意外性を表わすことができないものかと思いをめぐらせています。            Yutaka Aihara.com

グロピウスの建築

「バウハウス」はドイツの都市ヴァイマルの工芸大学と美術大学を統合して作られたと本で読んだことがあります。国立の学校でした。初代校長は建築家のグロピウス。ドイツ工作連盟を調べていくうちにグロピウスの存在を知り、その機能的な鉄とガラスによる彼の建築を写真図版で見ました。今でこそこれは集合住宅に見られる工法ですが、中世から脈々と続く石作りのバロックやゴシック建築の中にあって、出来た当時はシャープさと軽さをもった画期的な建築物だったはずです。「バウハウス」はヴァイマルを閉鎖してデッサウに移転しますが、このデッサウ校舎がよく紹介されるグロピウス設計のものです。この時は市立の学校になっていました。ともあれグロピウスは近代建築に並々ならぬ影響を与えた人だったように思います。建築がモダニズムに動いた時代で、これで現代の建築工法が始まったとも言えます。

「バウハウス」の魅力

自宅の書棚に「バウハウス」について書かれた本が結構あります。ドイツ語による原書もあるのですが、もうオーストリアから帰って20年経ち、とてもドイツ語を読む気になれません。写真図版を見てちょっとしたコメントに眼を通すだけです。ドイツ表現主義を学んでいく上で、表現主義が時代遅れになる時期に組織された教育機関、そこで表現主義から構成主義または生産性を高める機能主義へと変換していく歴史の流れを体験した教育機関として「バウハウス」は避けて通れぬ存在です。自分にとって魅力ある芸術家であるカンデインスキーやクレーが教壇に立ち、すべてが建築に総括される学校が「バウハウス」です。建築やデザイン、表現主義や構成主義などこれほど魅力的な学校はありません。時間があると書棚に手を伸ばし、何冊かある「バウハウス」の本の頁をめくっては眺めています。自分の造形の原点になっているように思います。