「客観的論理学と理性の現象学」第104節~第106節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第7章「客観的論理学と理性の現象学」の中で、今回は第104節から第106節までを読み解いていきます。この小節では現象学との関連が述べられていました。「(自然の見方での)人間としての私は世界の《中で》存在しており、自分をそういう者として、すなわち外部から(空間時間的に外部から)さまざまに規定される者として認めている。(絶対的見方としての)超越論的なエゴとしての私は私自身を外部から規定されていると思っているーただしこの場合は、空間時間的な実在物として外部の実在物に規定されているということではない。では私以外とか、外部によって規定されているとは、どういうことであろう?超越論的な意味で私が明らかに《外部のもの》によって、すなわち、私に固有の特性を超える何ものかによって制約されていられるのは、その外部のものが《他者》という意味をもち、しかも完全にわかる仕方で私の中で、超越論的に他のエゴという存在妥当性を獲得し実証する場合に限られる。」次にデカルトの省察について述べられた箇所を引用いたします。「すでにデカルトの最初の省察(これらの省察が超越論的現象学の成立を根本的に決定した)の中の、外的経験を批評する箇所でただちに明確になるのは、デカルトは外的経験に付きまとうさまざまな錯覚の可能性を強調したが、しかし今度はそれによって間違った仕方で〔対象の〕根元的な自己能与としての経験の根本的な意味を隠蔽している。しかしそうなる理由は〈世界に存在する事物について考える可能性を実際に形成して、その事物が正当な意味を獲得するようにするのは何か〉と問うことに彼が同意しないからに他ならない。彼はそのような存在物をむしろ〈認識の雲の上に漂う絶対的な存在〉として予め保持している。あるいは次のように言ってもよい。デカルトが気づかなかったのは〈感覚的な経験の流れの志向的な開明を、エゴの志向的な関連全体の中で試みること〉であった。」今回はここまでにします。

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