「屋根のてっぺん」&「藤森照信建築」 読後感

「藤森照信建築」( 藤森照信著 増田彰久写真 TOTO出版)を読み終えました。書籍の最後に故美術家の赤瀬川原平氏による「屋根のてっぺん」という文章が掲載されていて、読み易い文体なのでサラリと目で追ってしまいました。「はじめて知り合ったころ、道を歩いている時は気がつかないが、人の家に上がったり、あるいは料理屋などで上がったりする時、靴を脱ぐ、その靴の踵が踏んづけてある。それもちゃんとした革靴である。それがスリッパみたいになっているのだ。たしかに靴なんてそうやって履いた方が、脱いだりするとき簡単ではあるが。でも今日は午後から学会だというような、畏まった時もその靴なのである。ええっ?それでいいの?と訊くと、何、学会に出るときは、ふだん踏んづけている踵をパッと起して履くから大丈夫、という。この場合の靴の踵の扱いは、気兼ねだろうか、節度だろうか。~略~その後建築家になってからは、この靴の踵的な物の扱いというのが随所に出てくる。節度は必要だけど、いらぬ気兼ねはする必要はないという、たとえばモルタルに色をつけて、刻んだ藁を混ぜて、いまでは難しい農家の壁を簡単に造り出してしまうというのは、靴の踵を踏んづけて、ある時立てるというような、それと同じことで、そうか、あのころからもう中味は建築家だったんだと思い返す。」また表題になっている屋根のてっぺんに纏わる箇所を引用します。「御柱というのは、神の依代で、人間の信仰の原型だと藤森はいう。太古、天の神霊にあらわれてもらうための媒体である。その神霊とのお付き合い、交通交際を考えているのだとしたら、あちこちの藤森建築はその媒体作りということになる。ひたすらてっぺんを得るために、屋根を得るために、建物を造る。床も柱も壁も、すべては屋根のてっぺんを造るためにあるのかもしれない。」軽妙洒脱な文章ですが、結構奥深いものがあるのが赤瀬川流と私は思っていて、藤森流と赤瀬川流が交わる場面に私も遭遇したかったなぁと思っています。「藤森照信建築」は美しい写真に彩られた建築集で、建造物が存在している周囲の環境を堪能しながら、藤森氏の歴史観や素材に対する考え方を著した箇所に注目してきました。私は素材に対する興味関心があって、とりわけ土に共感を覚えました。私が陶土に触れていると周囲が見えなくなってしまうのは、人間が本来有する本能的な造形感覚によるものなのかなぁと思っていて、藤森氏の著述の中にそんな箇所が出てきたので、非常に楽しくなってしまったのでした。

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