「意味論としての命題論と真理の論理学」第53節~第54節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その第5章「意味論としての命題論と真理の論理学」の中の第53節から第54節までのまとめを行います。この第54節で第一篇が終わります。今年の末までに第一篇を終わらせたいと私は思っていたので、何とか今日読み切ることが出来てちょっと満足しています。今回は最初に「ユークリッド多様体」のことが出てきます。「すなわち《ユークリッド多様体》が意味していたのは、~略~何よりもまず真の諸命題の可能な諸体系としての可能な演繹的諸学のための一形式であった、ユークリッドの空間幾何学によって例示すれば、今度はこの同じ範疇的形式の他の可能な演繹的諸学の開かれた無限性と並ぶ一つの可能性としての、可能な諸真理の前提への関係をすべて切り離す還元は、その形式を(依然として《ユークリッド多様体》の形式を)、純粋に諸意味としての可能な諸命題(諸判断)の体系の形式として提出しており、しかも一つの判明性の明証の中で、ただたんに個別ではなく体系全体として判明に遂行されるー純粋に判断としてのー諸命題の体系の形式として、簡単に言えば、純粋な整合性(《無矛盾性》)のそれ自身で完結した一つの体系を形成する諸命題である。」長い文章で、私自身これが何を主訴しているのか、途中から分からなくなりました。次に形式論理学と形式的存在論の相関関係に問題提起がなされています。「無矛盾性の分析論もやはり判断一般と、それゆえさらに或るもの一般とも関係しているので、それゆえ形式論理学は形式的存在論と見なされうるのか、という疑問と、そしてなぜこのことが、いずれにせよ単なる無矛盾性の分析論だとされないのか、という疑問である。」これに対して次節ではこんなことが述べられていました。「学問論としての使命に敵う、形式的分析論の深い意味は、基体となる各対象性がその中で真実存在しうるはずの可能な範疇的諸形式についての学問だ、ということである。範疇的に形成された対象性とは命題論の概念ではなく、存在論の概念である。」さらに第54節の中でこんな一文もありました。「さらに付記したいのは、〈形式的存在論も、学問論の理念から出発せずに最初から直接、課題として提起されうる〉ということである。」論考を読んで、私はその都度ラインを引いていますが、私の浅はかな理解で的外れな部分も少なからずあろうと思います。論理が分かり難い箇所も多々あり、フッサールが短期間に本論を書き上げたことも、こうした難解極まりない論理に影響があるのではないかと疑ってしまいます。自分の薄学を棚に上げて失礼なことを申しました。

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