「意味論としての命題論と真理の論理学」第49節~第52節について

形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その第5章「意味論としての命題論と真理の論理学」の中の第49節から第52節までのまとめを行います。まず、「判断作用の中で判断された事柄は判断された対象性、すなわち判断して推定された範疇的な対象性である。」という箇所にラインを引きました。次にコギトやドグサという聞き慣れない言葉が出てきたので調べてみました。コギトとは自己意識のことで、ドグサとは臆見や思い込みという意味があるそうです。「コギトが意味しうるのは《私は知覚する》《私は思い出す》《私は期待する》などである(これらのことは、たとえ叙述的に規定する思惟の領域には入らなくても、もちろんドグサの領域には含まれる)。しかしコギトはさらに私の好き・嫌いや希望か忌避かのような《評価する》心情の働きや、あるいは意志の働きなども表しうる。」という論考にコギトやドグサが使われています。次に多様体論が登場してきます。「多様体論は強制する理由をまったくもたず、多様体論自身の理論の諸形式にとって可能な真理についての諸疑問と、これと相関的に、何らかの個々の各多様体(多様体についてのそれら自身の形式的な諸理念のもとにある)についての可能な現実性(可能な真の存在)についての諸疑問を、一般に多様体論自身のテーマに引き込むための強制的な理由は何もない。」最後に純粋学についての論考です。「(1)論理学がまず認識するのは、純粋に意味と見なされる諸判断(これらには純粋に対象的な意味としてのすべての対象性も含まれる)は、それ自身完結した形式の法則性をもち、そして《判明性》の段階では、整合性、非整合性、無矛盾性の法則性をもっているが、しかしこれらの法則性だけでは、例えば諸判断に対応する各対象性の可能な存在についても、これらの判断自身の可能な真理についても、まだ何も言えない。(2)もし論理学が上記のことと結びついて次のことを認識すれば、すなわち明証的に無矛盾性のいろいろな合法則性が間接的に、論理学的な各種の合法則性の価値を、可能な真理の最初の最も一般的な諸法則の価値をもつとすれば、特に論理学的な意図に合わせて、可能な存在と可能な真理をこれら双方の可能性の本質的な諸法則が問われるべきであり、そして次に諸意味(純粋な諸判断)がそのような諸可能性と関係づけて考察されねばならず、したがってこれらは一緒に前提して考えられねばならない」今回はここまでにします。

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