「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第45節~第46節について

形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」があり、今日はその第45節から第46節までのまとめを行います。この第46節で第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」が終わりになります。第45節では命題論理学は用いる意味での判断という単元名があり、それを言い表している文章を拾ってみました。「どの学問的な認識にとっても必要な批判的な見方、すなわち学問的な判断ならどれもが甘受せざるをえない批判的な見方を無事経由することによって、学者は絶えざる変動の中で対象性そのものをー判断作用の中でまさに彼にとって存在するもの、もしくは認識者としての彼が目標にする現実としてーそして他方では推定された対象性そのもの、すなわち推定された結論、推定された規定、推定された多数や総数そのものなどとして対立させてきた。~略~命題論理学が用いる意味での判断は推定された事態そのもの、しかもそれぞれが完結した事態である。判断以外の範疇的に推定された諸事項はすべて《判断》に含まれる諸部分として機能している。」第46節の批判の成果としての真理と誤謬について冒頭の論考に次のようにありました。「批判の最終成果はー理想的に言えばー《真理》もしくは《誤謬》である。ここで言う真理とは正当で、批判的に確認された判断のことであり、したがってこの判断に対応する範疇的な対象性《それ自身》との合致によって検証されている。」第46節のまとめになるかどうか分かりませんが、最後の文章に私は注目したので引用しておきます。「理想的な意味での認識とは〈それぞれの対象性自身が、あらゆる範疇的諸形態について、現に獲得された真実の存在を表わす名称〉であり、その真実の存在は範疇的な諸形態の中でまさにそれ自身の真実の存在を示し、真実そのものとして根源的にそれ自身を構成するのであり、しかも自らそうした範囲内で、まさに《その範囲内で》認識的にも真実存在するものである。」次は第5章に進みます。

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