「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第43節~第44節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」があり、今日はその第43節から第44節までのまとめを行います。第43節では形式的な学問論としての分析論は形式的存在論であるという論考がありました。まとめとなる文章を引用いたします。「形式的な学問論としての分析論は諸学自身と同様、存在を目標にしており、しかもこの分析論のアプリオリな一般性によって存在論的である。この分析論は形式的存在論である。そのアプリオリな諸真理が述べているのは、諸対象一般にとって形式的な一般性で妥当する事柄、すなわち諸対象は一般にどの諸形式で存在しているのか、あるいは存在しうるのか、ということである-もちろん判断に即応または依拠して。」次の第44節では形式的存在論としての分析論から形式的命題論としての分析論への転換について論考されていますが、2つの段落に分かれている中で、私は学者の見方について興味関心をもちました。「ここでは憶測された事柄と実際の事柄との区別によって(広い意味での)単なる諸判断の領野と諸対象の領野との区別も用意されている。」とあり、その中で学者の認識努力を伝えていました。「学者はすでにずっと以前から〈明証性にはただたんに明確性の程度差があるだけでなく、人を欺く明証もありうること〉を教えられている。それゆえ彼にとっては憶測された明証と正当な明証との区別もある。学者の判断は最も完全な正当な明証によって確認された判断でなければならず、そのような判断のみが、学問の現有成果全体の中へ理論として受け容れられるべきである。このことが学者独自の判断の仕方を生じさせるのであり、それは言わばジグザグの判断作用である。」今日はここまでにします。

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