「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第41節~第42節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」があり、今日はその第41節から第42節までのまとめを行います。まず、命題論的な見方と存在論的な見方の違いについて書かれた小節ですが、「命題論的論理学と形式的存在論との間には何の違いもない」また「形式的存在論に規定される判断の領野をわれわれは決して逸脱しないのであるから、やはり諸対象ではなく、諸判断こそが形式的対象論のテーマではないか」という文章に注目しました。次の小節で「われわれが判断する場合、この判断作用自身の中で対象への関係はどのように作られるのか」という投げかけがあり、「判断しているときわれわれが目標にするのは判断ではなく、そのつど《話題になる諸対象》(基体となる諸対象)とその時々の術語、すなわち対象を規定する諸契機や諸関係であり、因果的な判断の場合なら、原因になる各諸事態と結果として対応する事象などである。」とありました。小節は段落ごとにaからgまで分かれていて、その全てを取り上げることは紙面の都合でできませんが、気になった箇所だけ引用させていただきます。「判断者は対象に向かっており、しかもまさに彼がそうしているからこそ、彼が対象をもつのは、何らかの範疇的な(またはわれわれの言う統語法的な)諸形式、したがって存在論的な諸形式においてに他ならない。」さらに対象性を規定する《概念》の構成として「〔自然についての理念の場合なら、その一方は〕自然の真の存在の理念としての、あるいは同じことだが、自然を完全に規定する概念」の理念としての《端的に在るがままの自然》である。」とありました。また規定されて成立する範疇的な形成物に関して「〈範疇的な形成物はただたんに判断作用をしている間だけ判断者にとっての対象性であるのではない。なぜならそれら対象性自身の存在意味には超越性が含まれているからだ〉ということである。」という論考に気を留めました。本書は語彙が難解な上、段落ごとのまとめをせず、文章を飛ばしているので、私だけが意味を了解しているメモ的な文面になってしまっています。NOTE(ブログ)を読んだだけでは意味が通じないことは承知しています。本当に申し訳ありません。

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