「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第37節~第40節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、今回から第4章として「諸対象についての見方と諸判断についての見方」が始まり、今日はその第37節から第40節までのまとめを行います。ここでは形式的命題論と形式的存在論の相関関係についての考察が述べられていました。気を留めた箇所を引用いたします。「諸命題自身の中に伏在する各種の対象性への意味関係によって、同時に普遍的な形式的存在論になり、そしてこの存在論が最高段階では多様体論という名称を規定するのである。」次に統語法的な形成物としての論考に移ります。「形式的存在論の分野は対象一般の《形式的領域》でなければならない。それゆえ形式的存在論は諸対象を必当然的な諸真理において、まさにこの形式的な一般性で規定しなければならない。~略~〔命題を〕形成する判断の統語法は、可能な真理の諸条件を示す諸法則にアプリオリに従っている。判断においてなされる形成、そしてその形成から、集合、基数、級数、量、多様体のような、かなり狭い意味と最も狭い意味の数学的諸概念も生じる形成、さらに最高段階の判断の形成物さえも含めて、これらの形成はもちろん《超越的》な諸対象についてではなく、判断自身の中で表象される諸対象について行われるのである。~略~この考察では集める、数える、順序づける、組み合わせるなどの諸作用はどれも判断の諸作用だとされ、そしてこれらの相関者は判断の形成物と見なされてきた。しかしこれらの作用は実はさまざまな諸段階で形式を作る諸作用で、そしてこれら諸作用の相関者は通常〈述定的〉と言われる諸判断自身の中では、判断の形式論が見落としてはならない諸形式によって、代表されているのではなかろうか?」最後に形式数学の論理学的意味について触れた箇所を引用いたします。「ただたんに計算にためにだけ作られた数学の場合のように、たんに計算上の慣習によってのみ意味をもつようなシンボルの遊戯になるようなものは認められない。論理学者としての彼は、形式数学がもともと論理学的分析論であること、それゆえ形式数学固有の論理学的な意味には、認識の志向によって基礎づけられた認識機能の範囲が、すなわち可能な各種応用の範囲が属していることを観取せざるをえない。」文中にあった彼というのは著者のことで、論理学者としての立場を第三者的に捉えていることになります。

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