「懐かしさ」について

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の冒頭の章に「懐かしさ」という感情をもって、建築や造形美術における関係性を謳っている内容がありました。古い建造物の保存活動に携わる人々の行動に、建築の専門家が当惑を覚えるところがあるようで、「懐かしさ」とは何かと改めて問いかけている箇所がありました。「『懐かしさ』なんて何にも生産的でない。でも、人間しか持っていない感情なので、逆にえらく人間的だと思ったのである。」著者はA・ブルトンが提唱したシュールレアリスムについても「懐かしさ」を感じていて、既視意識が当時の革命的な絵画にも「懐かしさ」を齎せているのではないかと察しています。「パスカルが宇宙の果てについて論じた、”知らない世界を本当に想像することができる”か、という問題がある。われわれは未知とか未来とか言ってるものを想像するが、実はそれは既知の延長で想像しているだけで、本当に知らない世界は想像できないはず。なぜなら、想像するにも手がかりがない。」なるほど、前衛と言えども自分の発想からしか創造できないので、自身の経験からこれだというものを捻りだすことになるわけです。それならば「懐かしさ」をもっと肯定的に捉えてもいいのかもしれないと思いました。私の作品にも「懐かしさ」はあります。私は古代の出土品を現代的にアレンジしているので、見た人が懐かしいと感じてくださることも多々ありました。著者である藤森氏の建築にも懐かしい雰囲気があって、それが快さを醸し出しているように感じています。「人間は人間であることを確認するのに外の景色を使っているという仮説がある。人間は、自分が自分であることをもっと高度な方法で確認していると思っている。しかし、私は、目に見えるもの、外的なものでしか確認できない、と気づいた。人間のアイデンティティは、建築や町並みに依拠しており、その建築や町並みの質を問わない。建築か町並みか、大きくは自然の風景によって人間は人間たりえる。自分は自分たりえる。」

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