横浜の「吉村芳生」展

先日、横浜そごう美術館で開催中の「吉村芳生」展に行ってきました。「超絶技巧を超えて」という副題がつけられていた通り、鉛筆で描かれた写実画には目を見張るような驚きがありました。日常のありふれた情景を撮影し、それを明暗の調子に分解し、緻密に写し取った絵画に、通常の具象絵画とはまるで違う世界観を私は感じ取りました。大変な労働の蓄積を見取り、どうしてこのような発想になったのか、この画家についてもっと知りたいと思いました。図録に本人の心境を吐露した文が出ていました。「僕は(中略)白い紙の上にエンピツや絵具で目の前の風景、静物・人物、又はイメージである情景を描写することに限界を感じていた。それは、自分の三次元空間のデッサン力のなさ、イメージの貧困などから来たものなのかもしれないが、終いには絵を描くことが苦痛になっていた。~略~先生からは、図面を整えることをいわれ、自分の描きたい意図が上手く伝わらない。どうすればいいのだろう、と模索していた時にみた、アメリカの現代美術展に大きなショックを受けた。写真をそっくりそのまま写した作品がある、大きなキャンバスを一色で塗りつぶした作品がある。」こうした出会いが現在の行為を生み、芸術性を高めていったと私は思いましたが、新聞紙に自画像を描き込んだ「365日の自画像」を見ていると、所謂スーパーリアリズムとも一線を画する仕事ではないかと感じました。図録の解説を引用いたします。「『機械文明が人間から奪ってしまった感覚を再び自らの手に取り戻す作業』と幾度も語っているとおり、あくまで主眼にあったのは、写す”行為”そのものだった。だからこそ、新聞・金網そして写真も、『ほんものをそのまま映す』と言いつつ、どれも近づいてみるとその手作業の痕跡やムラが見て取れるような描き方がされている。~略~吉村がきわめて私的なレベルにおいて重要視した、描く”行為”そのものに対する執着は、彼にとってのじつに純粋なコンセプトとして結実していく。自己と向き合い、日々を写し取る”行為”を延々と続けていくこと。それこそが、彼が目指した自分にしかできない芸術だったからだ。」(高田紫帆著)

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