武蔵美の「脇谷徹ー素描ということ」展

先日、東京都小平市にある武蔵野美術大学美術館で開催している「脇谷徹ー素描ということ」展に行ってきました。彫刻家脇谷徹氏は私が彫刻を学び始めた頃、共通彫塑研究室で助手をやっていた人でした。出品作品は彫刻50点、絵画や素描150点という大がかりなもので、長く武蔵野美術大学で教壇に立っていられた氏の退官記念展も兼ねていました。私は学生時代に氏の「金属素描」という作品をたまたま見て衝撃を受けたことを思い出し、この彫刻家がどんな歩みをしてきたのか興味を持ちました。立体や平面に限らず氏は素描に対して確固たる理念をもち、只管追求してきた姿勢が感じ取れて、私自身感動を覚えました。「金属素描」については稿を改めたいと思います。共通彫塑研究室には保田春彦先生や若林奮先生がいて、氏は彼らから影響を受けていたのだろうと推察されましたが、図録に信州の「無言館」館主である窪寺誠一郎氏がこんな文を寄せていました。「脇谷徹が師と仰いでいた彫刻家の一人に、やはりストイックな信仰的形態の確立により高い評価を得た故・保田春彦氏がいるが、脇谷のもつストイシズムは保田春彦のそれとはかなりちがう。保田が長いヨーロッパ遊学から摂取した『信仰的』な匂いをもつ造形に取り組んだのにくらべ、脇谷徹はどちらかといえば純日本的、アルチザン的な制作法をえらんだ。それは彫刻家の姿勢の違いというよりも、脇谷はてんから師春彦のもつような詩情、ノスタルジイをうけつけない体質があったのだろう。保田氏が晩年手がけた亡妻シルヴイアに捧げる古代都市の建物をモチイフにした作品とも、脇谷は一定距離を保ち、師よりも何倍も自らの内的心象風景のほうを大事にしているように思える。脇谷徹には、師から学んだ静謐にして正鵠な造形理念を追いかけつつも、そこに絶対断固とした『自己』の内省をこめ、過去、現在、未来の『自己』のあるべき姿を封じこめることに専念する態度がみられるのである。」(窪寺誠一郎著)この文章にあった師弟の彫刻家の世界観を比較したところが私には面白くて、展覧会の印象を辿りながら、脇谷徹氏が求めたこと、これからも求め続けていくことを噛みしめながら、私自身もまた師弟の2人とは違う自らの世界観を問うことをしていました。

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