「命題論的分析論としての形式論理学」第18~22節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があり、その中の第1章として「命題論的分析論としての形式論理学」が掲げられています。そのうちの第18~22節を読み終えました。第22節で第1章が終了しますが、難解な言い回しに何度も悩みつつ、今回も章ごとに気になった文章を書き出して、それでまとめにさせていただきます。第18節は単純な分析論の根本問題と称された章でした。「任意の諸判断がそのまま、しかも形式的にのみ一つの判断に統合されうるのはどういう場合であり、しかもどのような諸関係で可能であろうか?」という問いかけが本章ではありました。第19章では可能な真理の条件としての無矛盾性という命題があって、私には次の文章が気に留まりました。「今ここでは始めから判断はただたんに判断として考えられているのではなく、認識の努力に支配される判断として充実されるべき思念、すなわち〈判明性にのみ由来する所与という意味での対象自体ではなく、目指す《真理》そのものへの通路となる思念〉として考えられているのである。」第20章では単純な分析論における類似の諸原理について述べられていました。論理が展開する中で結論めいた部分を見つけたので、これを引用しますが、これだけ抜き出しても意味が通らないとは思います。「〈直接的な分析的帰結それ自身の直接的な分析の帰結はやはりまた、それぞれの理由の分析的な帰結だ〉ということであり、このことからは〈任意の間接性の帰結自身も、この理由の帰結だ〉ということが整合性として明らかになる。」第21節は最広義の判断の概念です。「最広義の判断の概念は、混乱、判明、明確の違いを意に介さず、これらの差異を故意に無視する概念である。」第22章は今までのまとめになった箇所がありました。「無矛盾性の形式論理学と真理の形式論理学をわれわれが分離したのは斬新なことではあるが、この分離はいまでは各用語についても広く一般に知られている。これらの用語は〔従来とは〕まったく別のことを、すなわち《認識の》具体的な《題材》を無視する形式論理学の問題設定一般と、何らかのかなり広い(もちろん明確に把握されていない)意味で論理学の側から提起された諸問題との間の区別を考えていた。」今日はここまでにします。

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