イサム・ノグチ 離婚とユネスコ庭園

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第34章「ぼくの慰めはいつも彫刻」と第35章「ユネスコ」のまとめを行います。「1955年という年はほかにもさまざまなプロジェクトが実現せず、ノグチはそれを自分の個人的な難局ーノグチと山口(淑子)は離婚届を提出したーのせいにした。それは円満な離婚だったーどちらもが、じぶんたちの生活がそれぞれを別な方向に導いたという点で同意していた。」お互い世界的な名声のある彫刻家と女優ならば、すれ違いや自己主張の強さで一般人のような結婚は望めなかったのでしょう。このあたりはノグチの仕事も上手くいっていなかったようで、数々の空間デザインが雛形制作だけで終わっていました。そんな中でパリに新築されるユネスコ本部のパティオのデザインの依頼がノグチにやってきます。ノグチはパリに視察に行って、その隣の一段低くなった広いスペースに日本庭園を作ることを考えついたのでした。石や植木を日本に求めて、日本からの経済的支援を取りつけ、造園家重森三玲を紹介されます。重森三玲とともに選んだ石を日本から輸送していきますが、フランスの現地では作業員が大理石の彫像は扱えるが、でこぼこの地面の上に設置する庭石が扱えないことが分かったようです。「ユネスコ庭園にもどったノグチを多くの厄介事が待っていた。ユネスコの予算の問題から遅れが生じ、その春、重森が送りこんできた職人たちとの仕事はひと筋縄ではいかなかった。職人たちは伝統的な庭師として修業をし、ノグチの借り物のフォルム、日本の造園規則の変更などに賛成しなかった。しょっちゅう言い争いがあった。職人たちは予定より1ヶ月早く帰国してしまった。~略~10月、重森はさらにすばらしい信任状をもつとさえいえる職人を送りこんできた。三十歳の佐野藤右衛門は、1955年に京都府からノグチを手伝うよう依頼されたときにノグチに出会っていた。~略~腹を立てて帰ってしまったふたりの日本人庭師と同様に佐野は伝統主義者であり、庭園は近代彫刻であるというノグチの信念に同意しなかった。石の配置から水の流れ方、『蓬莱山』の形態まですべてが争いの的になった。~略~ノグチは石を設計図どおりにおくことにこだわった。佐野はより直感的なアプローチを信じ、『紙の上の計画はけっしてうまくいかない』と言った。~略~たとえユネスコ庭園の精神が日本からきたとしても、コンポジションはノグチ自身のものだ。そこには『個人的な工夫』があり、したがって真の日本庭園というよりは『ちょっと日本的な庭園』だった。」造園と彫刻、この根本的な相違は決して小さいものではないと私は実感しています。亡父が造園業を営んでいた私だからこそ気づいたこともあります。私は20代後半で渡欧後すぐにパリのユネスコ庭園を見に行きました。私自身いろいろ思うところもあり、これは稿を改めたいと思います。

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