イサム・ノグチ 戦時体制に向かう

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第18章「ニューヨーク、1936-39年」と第19章「カリフォルニア」のまとめを行います。時代背景として大戦に向かいつつあるアメリカで、ノグチは同じ境遇の芸術家と親しくなりました。「メキシコから帰国後、ノグチはアーシル・ゴーキーと頻繁に会った。ゴーキーとは1932年にある画廊ではじめて会った、と語っている。~略~どちらも自分が亡命者のように感じていたからだ。どちらもが差別を経験し、どちらもがひとつの異文化に深い愛着を抱いていた。」ノグチは1936年にロックフェラー・センター内にあるAP通信社ビルに設置するレリーフ公募に応募しました。「ノグチによる重さ10トンのAP通信社レリーフには、近代ジャーナリズムのツールーカメラ、電話、ワイヤフォト〔有線電送写真〕、テレタイプ、メモ帳と鉛筆ーを手にする筋骨たくましい記者五名が描かれている。そのスーパーマンのような肉体は、多くの失業した男性が家族を養えず自信を喪失していた大恐慌時代のパブリックアートの多くにみられるヒーロー的な男性の典型である。」APのニュースによると「一日に16時間ー強力な研磨機を手にー二度に分けて仕事をしたために、ノグチの両手はタコができて固くなり、仕事が完了したときに拳を握ることもできない有様だった。」と書かれていました。第19章では真珠湾攻撃のことが書かれています。「ノグチは、日本が奇襲攻撃で真珠湾の戦艦を爆撃したとと告げるアプトン・クローズの声を聞いた。自伝のなかで、ノグチは『パールハーバーはまったくの衝撃であり、すべてのアート活動を背景に押しやった。』と語っている。」ノグチが日系であることで不安に駆られ、いづれ収容所に入るなら、その場所を自ら選択した様子が伺えました。「三月末、西海岸を離れずにいたら収容されるかもしれないという不安から、ノグチは車をロサンジェルスに残し、飛行機でサンフランシスコから東へ、まずニューヨーク、そしてワシントンに飛んだ。~略~ワシントンでノグチは、インディアン問題局の局長で思いやり深く理想主義的なジョン・コリアーと会う。~略~ノグチはコリアーの熱意に伝染し、みずからポストン入所を志願した。」

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