「序論」について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)を先日から読み始めています。本書は本論に入る前に「序論」があります。ここでは本書を執筆するに至った動機が述べられていますが、これについて到底私は簡単にまとめることが出来ず、その都度気になった文章を拾い上げることにしました。まず、学問とは何かについてです。「新しい意味での学問はプラトンによる論理学の基礎づけによって初めて成立するのであり、そしてその論理学とは、《真の》知識と《真の》学問の本質的な諸要求を究明し、そうすることによって学問の諸規範を明示する場であった。」諸科学の隆盛が論理学との相互関係を逆転させてしまっていることを憂いたフッサールは、こんなことも書いています。「論理学は、学問の純粋な本質的諸規範をそれらすべての本質形態について考察することによって、諸学を原理的に指導し、諸学が自ら真の方法を形成して、その進路のすべての段階で自らその責務を果たしうるようにすべきであるのに、今や論理学は論理学自身の学の理想と問題提起においても、事実学に、とりわけ人々が驚嘆する自然科学に導かれることに甘んじている。」また本書の目的として「真の学問の理念を学問の規範である論理学へ歴史的に回帰させることによって喚起させる一つの道」と述べています。論理学自身はどうかと言えば「この論理学の課題自身も、学問一般の真の意味を明らかにして、それを明確に理論的に開明することでなければならない。」としています。これについては「形式論理学本来の意味の志向的開明」であるとして「この開明は歴史的な経験が概観的にわれわれに提供してくれる理論的な形成物〔=概念や判断〕から、すなわち形式論理学の伝統的な客観的内容を組成している事物から出発して、それらの形成物を〈意味形成物として成立させた論理学者たちの生き生きとした志向〉の中へ引き戻すのである。」本書は第一篇「形式論理学の基本的概念の三層構造」と第二篇の「主観的ー論理学的な事柄」で成り立っています。加えて第二篇では「主観の側にかかわる意味の諸問題はすべて、自然な人間の主観性の諸問題すなわち心理学的な諸問題ではなく、超越論的な主観性の諸問題、しかも(私が導入した)超越論的現象学の意味での諸問題だ」と述べられています。うーん、頭を論理学とは何たるものかに切り替えていかないと、これは容易に読破できないかなぁと思いつつ、本書を閉じました。今日はここまでです。

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