母の葬儀

今日は4月とは思えない寒い一日で、雨がどしゃ降りの時間帯がありました。午前10時から横浜市北部斎場で、我が家の菩提寺である浄性院の住職を呼んで、母の葬儀を執り行いました。本来なら親戚縁者が集まってくるところを、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、家族だけに限った6人の質素な葬儀になりました。他の葬儀を見ていると、我が家と同じくらいの人数で行なっていたので、感染症がこんなところにも影響を及ぼしていることがよく分かりました。私は職場から忌引きの休暇を今日までいただいていましたが、朝から副管理職と電話で打ち合わせをしていました。私たちの職種はテレワークというわけにはいかず、それでも職場の待機人数を減らしているとのこと、少ない人数で職場が上手く回ってくれることを望んで、人員配置を副管理職にお願いしました。副管理職は私に代わって、よく陣頭指揮を執ってくれていると思っています。母の葬儀に話を戻すと、母の遺体を家族で囲んで花を手向ける場面がありました。横たわる遺体の風貌は母そのもので、安らかに眠っている姿が印象的でしたが、それは既に母ではなく何か別の雰囲気がありました。不謹慎を承知で言うと、母はもはや母ではないと感じました。人間は生物的な死とは別の、たとえば魂の在り処がどこにあるのか、それが失われるとその人は外見だけを留めた存在になるのではないかと思います。死を哲学できるのは高度な知性を有する人間に限られていて、そのために他界への準備を行い、後に残された人々が死者が歩んでいくであろう死後の世界をイメージできるようになるのだと私は考えます。以前読んだショーペンハウワーの哲学書にそんな記述がありました。その頼りとなるのが宗教で、私はそれがどんな宗教であっても可としています。我が家の菩提寺である浄性院は浄土宗で、浄土宗なりの死後の世界観があって、住職が読経し、故人を偲んで説話をするのもそうしたイメージに私たちを導くために行なっていると考えられます。私は浄土宗のことはよく知りませんが、先祖代々慣れ親しんだ宗教文化を否定する気になれません。読経は昔から馴染みがあって快いと感じることが大切なのかなぁとも思います。私が学習したのはキリスト教ですが、どうもキリスト教文化には今ひとつ馴染めないところが、若い頃の滞欧生活で感じたところです。母の葬儀でそんなことをあれこれ考えていました。私もあと何年生きるのでしょうか。自らの死生観が具現を伴って私の心に棲みついたようです。

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