「呪術としてのデザイン」読後感

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)を読み終えました。あとがきに代わるものとして「旅の終わりにー沈黙のデザイン」という最終章がありました。そこには日本独特の宗教観やら、そこから導き出されるデザインが論じられていて、本書は最後まで私自身のツボにハマる話題に事欠きませんでした。私も若い頃に東欧で遭遇した祭りに不思議な親しみを感じていて、旧家に育った自分に馴染み深かった昔の匂いのようなものを重ねていたところがありました。その頃は本書にある時間軸や空間軸を縦横に走る論考はなく、今から思えば己の予感に頼った感覚でしかなかったなぁと振り返っているところです。「日本の宗教の特色は、底に流れるシャマニズムであるといわれている。一口にいえば巫覡の術であって、それを最もよく反映しているのは修験道である。~略~日本人が古来からうけついだ自然崇拝と外来の仏教や道教とが結びついて成り立ったもので、山野に臥して苦行の末に霊界に参入し、体得した霊力によって神霊祖霊を操ることが可能になるという信仰である。」岡倉天心は東京美術学校(現東京藝術大学)を創立した人物ですが、著書「茶の本」の中で茶を巡る哲理を説いていて、つまり創作に纏わることにも考えが及んでいます。「天心には19世紀末のヨーロッパに出会った明治期の人びとの喪失した神を芸術に探し求めた姿が読みとれるのであるが、同時にすぐれたデザインの思想をきくことができる。つまり虚の世界にあってこそ心の自由が許されて宇宙の気を感じることができるのであって、逆にいえば、あるべきデザインとは虚なる時空間の創造であるということである。」また、こんなことも述べられていました。「祭りの本義は明かりが消え、闇につつまれた世界が再び明けそめる幽玄の時空にかくされていたように、デザインもまた形なりその組み合わせがなされる以前に発想の不思議があって、それは個性的でありながら普遍性をもったデザインであり、自然の循環の理と共にあったのである。」以上で本書を閉じることにします。

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